2010年6月10日 (木)

菅政権誕生じゃい

Photo ブログ、長く書いていないなぁ。再開したはずだったんだが、どうも他の事に時間を取られて、気がつくと寝る時間になっている。いろいろ書き留めたいことはあるんだけどなぁ。なんかそれをまとめた文章にするのが最近とても面倒くさい。

でもって、あぁっ・・て言う間に鳩山さん退陣しちゃったね。前にも民主党政権の施策に対する疑問を書いていたんだけど、子供手当てなんてのはやっぱりあんまり評判良くないね。もらった人達もそりゃ「もらえるものはいただきます」、って言うけど、この先もらい続けられる保証はないってことを、大概解っている。財源が無いのはよく分かりました・・ってね。支持率が20%を切った鳩山政権だったけど、菅さんに変わったことは民主党にとっては正解だったみたいだね。これで7月の参議院選はとりあえず民主党が勝利するだろう。

今の日本にとって一番大事なのは国力の増加である。国が力を付けなければ結局、国民にとって必要な政策を打ち出すこともできない。そんなことは私がここで書かなくっても、政治家の方々はよく分かっておられる・・と思うんだけど。

あのさ、鳩山さんってやっぱりお坊ちゃんだったよね。安部さん(安部晋三)も。そして二人とも「良い人」なんだ。そして理想主義者。方向は違うけど安部さんも理想主義者でしょ?タカ派だけどある「理想」を持っている。そこへ向かって「自分がやればすぐに行ける」、と思っているらしいところ、つまり簡単に考えちゃって、そしてたちまち挫折する。こういう人達が日本のリーダーになってはいかんよね。日本はもうそんな暇してる場合じゃないと思う。

菅さんは少なくともそういう「お坊ちゃん」じゃないと思われているけれど。菅さん、しっかりと粘り強く経済政策をやってもらいたい。そして日本が本当に国力を付けて行ける、長いが着実な道筋を見つけてもらいたい。個人的には枝野さんにも期待している。小沢はもうそろそろ引退した方が良い。いつの間にか旧時代の政治家の代表になっている・・ように見える。今の自民党に期待できない以上、今度こそ、民主党にもう一度頑張らせるしかないだろう。そうそう、増添要一はダメ。首相候補として期待するNO.1とかいうアンケート結果があったが、本当、あきれてしまった。皆、人を見る目が無さすぎじゃないの。あと民主党だけど蓮紡は個人的に嫌い。謙虚さが感じられない。小中学校時代、すぐ先生に告げ口した女子生徒を思い出す。よく吼えるチワワの感じだな。そのレベルで国政をやってもらいたくはない。

色々書いたが、政治は私の専門外である。無責任な発言はお許しあれ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年3月14日 (日)

2010年3月6日の朝日新聞より-危機的な財政

10003 若い頃は気にならなかったが、最近、自分はどれぐらいの年金をもらえるのかひどく気になりだした。近頃は日々、老化力が増しているように感じられる。精神的にも肉体的にも、またなにより社会的に「引退」の日は確実に近付きつつある。若い頃は自力でなんとかなるという根拠のない「希望」に支えられていたが、「根拠のないものに頼ってはいられない」という正しい判断ができるほどに大人になった。どうか日本よ、私が(できれば妻も)生きている間はつぶれることなく、高齢者の面倒を見る良い国であってくれ。しかしこのようなささやかな願いも叶わないかもしれないほど、財政はひどくなりつつあるようだ。

このまま国の借金が増え国債が信用をなくすと、銀行が破綻するかもしれないし、国内は極端なインフレに見舞われるかもしれない。インフレが起こるのは国の借金を相対的に小さくしようとする、いわば経済の自力更生の作用かもしれない。しかし、その頃には年金暮らしに入っている私なんかは、そうでなくとも少ない年金がまさに雀の涙のようなものになり(額は変わらないのだよ。物価が異常に上がって、たとえば貨幣の価値が半分になる・・とかいう話なの)、もう首でもくくるかという・・・それがみんなそうなっちゃうという怖い話じゃないの。

3月6日の朝日新聞に載っている大阪大学教授・小野善康さんのインタビュー記事の要約は次の通り。

財政を改善するために

もちろん早く増税をして、財政の黒字化を急ぐべきです

増税が景気の悪化につながるのでは?

増税分を仕事に回せば、その分かならず所得が増えてデフレが緩むから、消費も増える・・

歳出のムダ撲滅が先、という鳩山政権の方針について

ムダをなくすのは正しいが、雇用を減らして借金を返すのでは本末転倒だ。借金返済のために政府事業を減らせば、人が働けなくなってムダが増え、所得も税収も減る。政府の経済政策の究極の目的は、みんなが働けるようにすることだ

私は経済の専門家ではないが、直感的な私の考えはこの教授の発言に近いように思う。金の流れが悪い時に、国はポンプとして機能し、流れを生み出すのが本来の役割である。無駄な流れを摘発するのは良いが、それは流れの中の詰まりを取り除くような作業。あるいは生産性の悪い流路を取り除き、流れの効率を増す作業であるはず。ポンプはポンプとして力強く流れ(カネ)を送り込まねばならない。

マスコミも一緒になって煽っているのだが、今の「ムダ撲滅」は経済的な意味よりも倫理的な意味が強すぎるのじゃないかな。立場を利用して甘い汁を吸っている奴らや組織が許せない・・みたいな。でもね、官官接待が無くなったおかげて経営が成り立たなくなった飲食店も結構あるのだよ。別に官官接待を擁護する気はないが、経済的には「白い猫も黒い猫もネズミを捕るネコは良い猫」だ。ムダ撲滅が流れの効率化につながるならそれは結構なことだが、ただ流れを細くしただけなら、結局巡り巡って、日本全体の元気が無くなったってことになりはしないか・・・と私は思う。「コンクリートから人へ」という耳触りの良いプロパガンダも、単純な善悪二元論に還元されて、選挙での票集めに使われているのなら、その被害者は他でもない有権者でもある日本国民であった・・ということにもなりかねない。政府の役割は、繰り返して言いたいが、「力強い流れを作り出す」ってことじゃないのか。

「コンクリートから人へ」について

『人へ』が人の能力を生かせという意味ならいい。だが単に人にカネを渡せという意味ならかえってよくない。コンクリートへの投資もすべて人の収入になる。そのうえサービスや設備ができるのだから、そちらの方が当然いいでしょう

ムダな公共事業について

ムダなことをさせるなら、何もさせずにカネを渡すのと同じで、無意味だ

再分配重視の鳩山政権の狙いについて

需要を重視するのはいいが、ただカネを配るだけでは需要は増えない・・・需要は何が役に立つかを考えながら、政府が自分でつくるしかない。・・・

子供手当について

一律に払うのでは(少子化対策として)効果がない・・・やるなら低所得層3分の1に限っての給付だ。それなら中間層以上の分の税負担が減る。しかも実物で渡すのがいい。教材や給食費、学校設備などに予算を使えば・・・

日本銀行が紙幣をたくさん刷って国債を買えば国の借金を支えられる、という意見も根強くある・・ことについて

それは発行しすぎて危なくなった国債を紙幣に置き換えるということだ。そうなると次は紙幣が危なくなるだけ。それをやりすぎれば、ジンバブエのような異常なインフレとなり・・・

どうするべきなのか

とにかく政府が財源を投入して人を雇うことだ。環境分野などには需要がある。人余りが緩和され、雇用不安がこうたいしてくれば、デフレは絶対止まる

今、民主党政権が公約として唱え、とにかく実行しようとしている子供手当が、経済的にはあまり効果を期待できない方策であるのは確かなようだ。私だって愛や思いやりが大切なことは十分に理解しているし、共感もする。だけれども、莫大な国費を使って、消費を生み出す効果の小さいカネを配るのは、モラルとしてもおかしいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年3月 7日 (日)

2010年3月6日の朝日新聞より

007 私がブログを休止している間に世の中にも、また自分自身にもそこそこの事件はあったのだが、中でも昨秋の政権交代は大きな話である。

ここに来て民主党政権への支持が急落しているようだが、私に言わせれば、想定の範囲内の出来事である。民主党が選挙に勝って、政権交代した時に、歴史的な出来事として多くの人が其々に(自分の都合のよいように)期待したけれど、一大パフォーマンスだった事業仕分けは確かに見世物としては面白かったが、思ったほどの「予算の無駄」は出て来ず、一方で公約の「子ども手当」の財源は作れず、かと言い「4年間は消費税を上げない」という公約を取り下げることもできないで、正直、この政権は日本の今の現状を改善するどころか、悪化の速度を加速させただけじゃないのか・・と、皆が気づき始めたとしても無理はない。

だが、繰り返して言うけれど、これは「想定の範囲内」である。むしろここで私が言いたいのは、だからと言ってここですぐに「自民党に政権を戻してはいけない」ということだ。国民は皆もっと学ぶべきである。子ども手当はもちろんのこと、農業への補助金だの公共工事の削減だのという耳触りの良いことに軽々と期待し、そのことが及ぼす影響を身に染みて学んでから次に進んだほうが良い。簡単に前の体制に戻り、自民党の古い政治が息を吹き返すようでも困るしね。ここは一つ腹を据えて、混乱を受け入れようじゃないか・・・って、無責任な話だが、所詮、私は無責任な中年オヤジなのである。

土曜日の朝日新聞・・この新聞は随分と民主党政権に期待してたみたいだなぁ。政権交代当初は本当にはしゃいでた感じだったから。残念ながら私はこの新聞の長年に渡る購読者であるが・・に、みずほ証券の上野泰也氏が「今のままでは10年もたない」と題したインタビュー記事で言っていたことを少し書き留めておきたい。

国債の暴落危険性について

国債市場は今は落ち着いている。でもこれは不況で企業の借り入れ需要が乏しいのに、個人の預貯金が順調に集まっている結果、銀行などが消去法で国債を買っているだけ。嵐の前の静けさだ。・・・

・・・金融資産は国内金利がゼロ近くなので増えず、株価が下がれば減るかもしれない。一方、政府の借金は赤字財政続きでどんどん増える。両者の残高は必ず逆転する。そのすき間がいつなくなるか。そこに市場が関心を持ち始めている。・・・

良かったぁ・・私ん家では国債買ってないし・・って。でも国債が暴落したら、銀行が破綻し、いわば経済の大津波が起こって、自分だけ安全ではいられなくなるのだろうけど・・まぁいいや。よく解んないし。

消費税について

このままなら消費税率は15%以上は必要だ。ただ増税論だけに偏りすぎると閉塞感を強めてしまう。財政は改善するが低所得者の負担が増えるし、増えた税収は膨らむ年金など社会保障費に消えるだけで、景気刺激策にまで使えないからだ。

でも、この話、避けて通れないよな。遅くなれば遅くなるほど傷口悪化するんじゃないの。

どうすれば良いのか

人口問題への対応につきる。第一に少子化対策。そして観光振興、移民施策だ

子ども手当について

あれは子育て世帯支援で、少子化対策ではない。・・・

やっぱりなあ。私と同意見だ。私も見捨てたもんじゃない

受け入れ枠に余裕が出るくらい保育所や企業内託児所をどんどん作るべきだ。・・・政府が待機児童の解消策を数年単位で考えるなんて言っているのは、悠長すぎる

観光について

観光客が来れば、食事も移動もお土産もすべて日本で消費される。観光客が7~8人いれば、日本人1人分の年間消費額くらいのお金を使うそうだ。・・・

えっ!そうなんだ。知らなかったぁ

・・・日本国内で需要をつくり、国内でカネを使う人の数を増やす。その戦略が何より重要だ。

同じ紙面で大阪大学の小野善康教授がやはりインタビューに応えているが、そちらもなかなか興味深い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月28日 (日)

ブログを再開することにした

「もう二度と帰るもんか!」と大見えを切って親の家を飛び出した娘が一年ぶりに戻ってきたとしたら、家に入る前に隣の家のあたりで、もじもじしているのが大衆演劇のお決まりである。そのうちに隣のおばちゃんが出てきて、「あら、○○ちゃんじゃないの。何をしてるの。早く家に入りなさいよ」とか言って、親切にもその娘を先導して、娘の実家へ連れて行くのである。娘の親には、「叱っちゃだめよ。せっかく戻ってきたんだから」とか何とか言って、とりなしてくれるのが相場だろう。こんな雰囲気が日本のどこかにもまだ残っているだろうか。いい話だと思うんだが。

もう二度と戻らないはずだったブログを再開する。文句あるか。上の話の近所のおばちゃんを見習いたいものだ・・とは思わないのか。こちらにも多少の、いや少々の言い分はある。一番の理由は、「ブログをやめることで、もっと外に出て見聞を広めたり、勉強の時間を増やす」はずが、ブログをやめたことで得た時間が決してそのようなことに使われない、いや、どこに使われたのかも分からなくなる・・ということを、実証的に証明することに成功したからだ。その結果、ブログをやめていたこの一年、私は自分が行ったことの文字による記録を作ることができなかった。

「それなら、別のブログを開設したらどうなのか。『もう二度と戻らない』と言っていたのだから」と考えては見たが、ブログ休止中に自分でも読み返してみて、「ここは消しちゃいたいなぁ」という部分もあるものの、それも含めて自分の記録である・・と考えるようになったのである。一言で言うと、愛着があるのである。ブログ閉鎖宣言した後でも、これまで書いた記事のいくつかは結構読まれているのが、アクセス解析を見るとわかる。羽仁五郎の著作「都市の論理」を読んで書いたものや八束はじめの論文「50 Years After 1960」についの記事は今もアクセスがある。そういう記事は私自身にとっても大事な記録で、少しずつでも書きためていると、そこそこの成果として残るのが良い。そういうわけで、結局このブログを再開するのが一番良いと思うようになった。これまでの記録に積み重ねて、日々経験したこと、学んだこと、考えたことを書いて行きたいという気持ちになった。恥を忍んで。

2010_2 ところで、愛犬キャロのことだが、いたって元気である。昨年のブログ閉鎖の頃に痛めていた腰もすっかり良くなり、私がソファーに座ると私の膝に飛び上がってくる。これは本当は腰に良くないと、獣医から言われているのだが・・・。とまれ、私は相変わらずキャロのご主人を続けている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月19日 (木)

ブログ閉鎖に向けて/総括その2

これがこのブログ180番目の記事で、これで本当にこのブログを終えることにしたい。一応バックアップをとったら閉鎖しようと思う。

02

残念なことに、日本の景観、特に都市景観についての私の見解は、「犬と鬼」を著した日本在住の米国人、アレックス・カーに近い。日本の景観はすでに救い難いほどに醜悪になっているし、またその醜悪化は進行中である。その問題に対して、日本の建築家は解決の力になっていないばかりか、私の見るところ、むしろ都市景観の混乱に加担していると言ってよい。というよりも、建築家の問題意識がそこにないということかもしれない。しかし、結果は同じである。自分達の責任ではない・・と、知らぬ顔を決め込むのは、私にはどうしても卑怯に思える。

先日、建設中の中国中央テレビ(CCTV)新社屋で大規模火災が起きたことが報じられた。あわせて、北京市民の多くがこのことを「ざまぁ見ろ」、と思っているらしいということも伝えられている。国営の放送局であるCCTVに対する反感が主なものらしいが、レム・コールハース率いるOMAの手になるデザインへの嫌悪感もあるようだ。建築界では新しい時代を切り開く建物としてその完成を期待されているものが、大衆からは嫌悪の眼で見られている。このような例は過去にもある。パリのエッフェル塔の建設当時、パリの景観に対する異物として多くの人々の批判を浴びた。エッフェル塔はその後、パリのシンボルとして受け入れられるようになったのだが、このCCTVはどうなのだろう?歴史の審判に耐えることが出来るのだろうか?また別に起きた事だが、北京オリンピックの開催が決まって以来、北京では古い街並みが「汚いもの、恥ずべきもの」として急激に破壊された。確かに不潔な街並みが相当あったらしい。とは言え、胡同(フートン)が作り出していたまさに人間の都市の消失と引き換えにこの新しいCCTVが生まれるのだとしたら、それは確かに正しいことだろうか?このような文脈において、私は「建築は自由である」と言い切ることに躊躇する。あるいはそれを建築家の倫理と結び付けて考えざるを得ない。

建築はそれを生み出した文明の表現であることもまた事実だと思う。建築が芸術作品となることを私は否定しない。むしろ建築が芸術作品となるのは幸福なことである。このように述べることと、建築家の芸術家意識を非難することとは矛盾しない。建築家はひたすら時代の要請に耳を傾けるべきであろう。またその要請に応えようとするために、思索することが求められている。安易な預言者として振舞ってはいけない・・と、私は思う。

そのように思う一方で、建築の方法に限界が設けられているわけではないとも考えている。方法論は無数にあるだろう。ただその中からこの一つというものを選択する論理の中で、建築家の倫理は試されるであろう。

建築が我々の文明の表現であろうとするなら、「建築家は文明に対して責任が無い」、と言うことは筋が通らない。もちろん、職業としての建築家が持つ社会的な力は本当に小さい。施主から要求されることを拒絶することは、もしこの商売で生きて行きたいのなら、ほとんど不可能と言ってよい。それゆえに八束はじめ氏は「建築家にモラルを過剰に求めることは筋違いだ」、と述べているが、私は「それでも建築家は『我々の文明に対する正面からの問い』を問い続けるべきだ」、と考える。

もう書くことが無い・・としてこのブログ閉鎖を決めたけれど、こうして書いていると、書き加えるべきことはまだまだありそうだ。しかし、このあたりで終わりにしたい。外に出て、見たり聞いたりしたことをブログに書こうとしたのに、ブログを書くために外に出る機会を減らしているのでは本末転倒だ。書くことは当分休憩して、街に出て行く時間を増やすことにしよう。ブログを再び始めることがあったとしても、この『時には犬のように』の再開はしないつもりだ。だから本当に次の文章をこのブログの最後としよう。

建築家に限らず、あらゆる職業はこの人間の社会へのなんらかの貢献を目指すべきである。優れた建築は詩と呼べる質に至るけれど、最初から詩を作ろうとすれば建築を成就できないであろう。私自身は10年以上も前に管理職になり、設計組織の管理に多くのエネルギーを費やしてきた。思うように物造りに関われないことにいらつき、繰り返し気持ちが滅入ってしまったのだけれど、今はこれはこれなりの意味があることだと考えている。あらゆる組織は社会への貢献を目指すべきである。組織管理、マネージメントの目的の一つは、組織がその本来の目的を果たす為に行うのである。故に組織マネージメントを行う者が理念を持つことは、抽象的で非現実的な組織管理者となることではなく、むしろ組織が優れて社会の求めに応じるものとなるためには必須のことである。建築、精神、世界、企業活動。これらが今の私には矛盾なく共存している。そのように考えられるようになるのに、このブログはとても役立ってくれた。大げさなことを言えば、組織管理の仕事であろうと設計の仕事であろうと、私達は仕事を通して我らの文明とつながっているのである。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2009年2月 1日 (日)

ブログ閉鎖に向けて/総括その1

このブログを解説したのは2005年5月5日である。3年と8ヶ月、だらだらとしたペースで続けてきた。先週の日曜の夜も記事を作ろうと思ってしばらく思案したが、特に書き留めるほどのことが思いつかなかった。それでこのブログは閉鎖することに決心した。しばらく充電したい。しかし完全に閉鎖する前に総括しておこう。「総括」って、流行ったなぁ、全共闘か・・・って。

そもそもこのブログは私にとって何であったのか。

一つには日記である。それも公開している日記。子供の頃から何度が日記をつけようとしたが、長続きしたことが無い。宿題の夏休み絵日記を8月も25日過ぎてからようやく手をつけるのである。そういうガキが世の中にはたくさんいると思うが、私もそういうガキだった。立派なハードカバーの日記帳を買ったことがある。買っただけだが・・・。ブログを付け始めて、誰だかわからないが読んでくれる人が少しだけど居る・・というのがここまで続けられた大きな理由だろう。一方で公開していることによる制約もある。あまりに私的なことは書けない。そこに多少のフラストレーションを感じながらも180ほどの記事を書いてきた。私にしては実に実によく続いた。

キャロは飼い犬である。この犬がいたので、このブログの名前を「時には犬のように」とした。できるだけ自由な心で書きたいなぁ・・と思ったからである。しかし、なかなか自由な気持ちにはなれないものである。いろんなしがらみを身にまとっているのがこの世に生きているということだろう。様々の経験も積んで、このところ古の隠遁者の気持ちがわかるような気がしてきた。若い頃には「そもそも隠遁してなんの良いことがある?」と思っていたのである。しかしまだまだ隠居するわけにはいかない。この先20年ぐらいは頑張りたいと思っている。俗世に対する色気は失っていないつもりだ。

Photo ブログ開始当時5歳だったキャロも9歳になった。9歳というのは人間だと50歳代半ばだそうだ。この犬についても書くことはあるだろうと思ったけれど、このブログの中でそんなに回数多く記事にはしていない。最後に一枚、犬の写真載せておこう。最近の写真ではない。ブログを始めた当時の写真だ。妻か娘のどちらかが本棚の隙間にキャロを入れた。そのままおとなしく隙間に納まっている。今も似たようなもので、しょっちゅう妻や娘達に意地悪されているが、憎くてやっているわけではないので、犬の方も承知で寄ってくる(ように思える)。それで時々「マゾ犬」と呼ばれている。以前と異なるのは、それなりに歳をとったということだ。年末に腰を痛め、今も後ろ足に麻痺が残っているようで、思い通りに脚が動いていないようだ。歩くことはできるが、この麻痺がいずれ治るのかどうかはわからない。この犬種は13歳ぐらいまでは普通に生きるようだから、まだ数年は我々家族の一員として、時には家族の癒しとして、また時にはお漏らしを叱られながら、我々と付き合っていってくれるだろう。間違いなく言えるのは、この犬は我が家族が好きであり、また我々もこの犬のことを愛している。

Photo_2 美味い物についても書きたかったが、これも取り上げたのはそれ程回数多くない。食べたもので「これは美味い!」と感じることが度々あるが、そういう感動も一時のことですぐに忘れてしまう。それではもったいないので記録したかったのだ。が、困ったことにいつもカメラを持ち歩いていない。携帯電話の画像がイマイチだったころはなかなか撮る気がせず、結局記録できないままのことが多かった。昨年秋に携帯電話を買い換えて、そこそこの画像で撮影できるようになった。これも最後に一枚、最近「美味い」と感じた食べ物を載せておこう。京急立会川駅の近くにある蕎麦「吉田家」の蕎麦味噌である。これを熱燗といっしょにいただいた。酒飲みにはたまらない一品だろう。東京ではやはり蕎麦である。しかし、前にも書いたが、京都ではうどんが勝る。死ぬ前に食いたいのは「河内屋のうどん」だが、残念なことにこれは叶わない。西陣にあった河内屋は店を閉じた。あぁ、美味いうどんが食いたいっ!!東京ではあれほどのうどんにこれまでついに出会わない。

読んだ本や雑誌の記事について、自分の勉強のために要約したり、感想めいたことを書いたりした。これは私個人にとって有益だった。ただ時間がかかる。私が読む本は大まかに言うとだいたい4つのジャンルに分けられる。一つは建築や都市に関するもので、自分の専門に近い分野。もう一つは思想や時には政治に触れたものがある。3番目は、これは最近になって割合が増えつつあるが、経済や経営に関するものがある。とりわけP.F.ドラッカーの著作には近年影響を受けている。この人の経営に関する洞察は、もはや哲学と言っても良いぐらいで、しかも哲学者と違って実践的である。正直に言うと、私は自分の職業についてここ何年も悩んできた。これについて自分なりに全て解決できたわけではないが、何とか光明を見出すことが出来たのはドラッカーを読んだおかげである。さて私の読書の最後のジャンルは、いわゆる大衆小説である。今さら純文学を読みたくはないが、面白い物語は時々読みたくなる。よって藤沢周平の小説はかなり読んだ。ただしブログには取り上げてこなかった。これはただ楽しめば良い。息抜きの類なのだ。特にそこから教わるということはほとんど無い。どのような小説より現実は重い・・というのが私の偽らざる心境だ。まだ社会に出ていない学生の頃なら文学から学ぶことも多いだろう。しかし自身の現実を前に文学の中から解決を導き出すのは、ちょっと今の私にはまどろっこしすぎる。というわけで、このブログには小説の類には一切触れて来なかった。

様々の場所について書いておきたいというのは、自分の「場所」に対する興味からである。いくつかの場所について記述する中で、私の眼は場所の一般性より、その場所の固有性に向かわざるを得なかった。それは私の建築感に確実に影響を与えてきたと思う。「建築」をどう考えれば良いのか・・ということが、このブログを始めた当時、恥ずかしながらよく分からなくなっていた。厳しい現実に圧倒されていたということもあったと思う。まるで建築を勉強し始めた頃のように、自分には「建築が分からない」という気持ちが強くあった。このブログを始めた理由には、それを書くことで克服したいという考えが、あからさまではないがあったかもしれない。そのことについての総括は次回へ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月18日 (日)

福井県立恐竜博物館

01 年末に福井へ行く機会があり、福井県立恐竜博物館を訪ねた。黒川紀章建築都市設計事務所の設計であり、黒川紀章氏の晩年の作品ということになる。円錐形やうねる壁など、黒川さんの特に後期の造形の特徴が出ている。ベタだなー・・という気もしたが、なかなかこの敷地では説得力があって、俺が実際に見た黒川さんの作品の中では1、2位をあらそう出来の良さである。ここに載せた写真が、それを証明している。建築がこういうことで良いのかという疑問はあるが、とにかくここでは福井の山間の地に放り込まれた単純な幾何学的造形が神秘的な・・と言ったら言い過ぎか・・、控えめに言っても心惹かれる風景を作り出している。「詩的か?」・・と問われれば、「詩的である」、と答えてよい。しかし「深いか?」・・と問われれば、「よく分からない」、と答えることになる。遠景が面白い。

02 外から見るとガラスの円錐になっている部分は、何のことはないトップライトである。随分大げさなトップライトで、金をけちって作っていてはこういうのはできない。トップライトの下はこの博物館のエントランスに現れる大きな吹き抜け空間だ。これがなかなか効いている。入口を入ると、真っ直ぐに展示室に向かってエスカレーターで降りて行く。トップライトからの自然光がこの大空間に降りそそぎ、空間をドラマチックに演出している。

金を使うことで建築は豊かになるであろうか?

優れた文明の遺産はいつも贅沢が生み出したものなのである。ノートルダム寺院を見よ、あるいは桂離宮を見よ。

それらは無駄とは違うものなのか?

無駄な贅沢もある。いやほとんどが無駄な贅沢の類である。ひたすら時間と金を注ぎ込めば豊かになるというものではないが、そのことを直感的に理解している人は少ない。そのために無駄な贅沢はあふれ、必要な豊かさは欠乏している。

では何が無駄な贅沢と真の豊かさを分けるのだろうか?

・・・。志・・かな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月12日 (月)

2009年1月11日の朝日新聞より

書くことは色々ありそうだけど、今日は真面目な話を記録しておこう。昨日の朝日新聞の記事のことである。それらは、「今回の世界的な経済危機から我々は何を学ぶべきか」、また「再び、共産主義に出番が廻ってくるのか?」、という俺の抱く問題とつながっている。

朝刊の一面に「失職・・・そこに共産党」というルポが載っている。

世界的な経済危機の影響で雇用情勢が悪化し、「貧困」が深刻化する中、政治に目覚め、共産党に入党する人が増えている。

今回の経済危機について、資本主義の枠組みの中で企業が、それもいわゆる一流と呼ばれてきた企業が行った罪が二つある。一つは今回の経済危機をもたらした原因、「貪欲な利益第一主義」であり、もう一つは主として派遣社員を対象とした「容赦ない雇用契約の破棄」である。しかも、原因を作り出した「野蛮な資本主義の仕掛け人達」の多くは、これまでに手にした莫大な金とともに舞台裏に引っ込んだ。舞台裏に引っ込んだだけで、金を手放したわけではない。そして一方、トヨタやソニーという日本を代表する企業が、年末の寒空に多くの派遣社員を放り出した。もし、政治や経済界が彼らを有効に保護することが出来ないのなら、彼らは連帯することが必要である。連帯して戦うことが残された手段である。

長らくこの世界に生きてきた経験から、基本的に俺は共産主義に否定的である。しかし、共産主義を大まかに診断と処方箋に分けるならば、診断の部分には共鳴するところが多い。だが処方箋には誤りが多いのではないか。一番の誤りは一党独裁という手段だろう。人民軍を正義の軍隊だとして許容するのも間違っている。それらが引き起こした多くの悲惨を忘れるわけにはいかないだろう。これらの誤りを徹底して自己批判し、出直すのでなければ信用できない。共産党という名前は少なくとも捨てるべきだろう。

だが今のこの状況下で、共産党のみが救いの手になっている人々が大勢いるらしい。そういう状況にしているのは自民党であり、対抗勢力であるべき民主党の無能であり、日本経済界の低いモラルであろう。

同じ朝日新聞の7面、opinionという欄には「資本主義はどこへ」と題して、「ケインズなら」と、ケインズの立場からの意見を伊東光晴京都大学教授が、「ドラッカーなら」と、経営学の巨星ピーター・ドラッカーの立場から上田惇生立命館大客員教授が述べている。すごくすごく説得力のある内容だ。

・・・疲れたので次回へ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月 4日 (日)

キャロが生えてますけど

08「あなた、脇から犬が生えてるわよ」

「あほっ、犬が生えるかいっ!それにしても食べにくいっ」

俺が飯を食べ始めると愛犬キャロは、あぐらを組んだ俺の膝に前脚を掛け、首を俺の脇の下から出して、食卓と俺との間に首を挟む。

「自業自得ね。わたしのところには来ないわ」

飼い犬には毅然として接しなければならない。しかしまあ俺には出来ない。哀れな顔で見つめられると、つい食卓の肉などを噛み砕いてキャロにやる。結果、脇から犬を生やすことになった。

0901021月2日、このように寝てばかりいては体調を崩すと思い、和光樹林公園へ出かけた。2キロばかりを軽く(?)走り、柔軟体操をする。木の葉はすっかり落ちた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月 1日 (木)

2009年元旦に

200812年が明けた。2009年1月1日である。

妻と娘は映画を見に出かけた。「ウォーリー」とかいうやつを見るのだと。そんな子供だましの映画を見に、50過ぎた親父が元旦からのこのこ出て行けるかぃ。・・で、キャロとお留守番することとなった。キャロは年末から腰を痛めて、後ろ足には麻痺もあるようだ。

この正月は京都の実家に帰らず、埼玉にいることとした。下の娘の受験が近いからである。上の娘の受験の時も京都に戻らなかった。まあ俺は、「例え受験の年でも正月ぐらい気分転換した方が良いんじゃないの・・」、という考えの持ち主だが、家族には受け入れられない。それで暮れに連休を利用して、両親の様子をちょっと見に俺だけ帰ったが、暮れと正月はこちらで過ごすことに決めた。それで時間ができたかと思うと、全然時間が無い。年末はブログを書く暇などあるものかは。

忘却力は日増しに強くなってきている。我が尊敬する黒川紀章氏が死んだのは一昨年の秋、つまり2007年の10月である。それなのに、前々回のブログ記事で、黒川氏が死んだのは「今年」、つまり2008年だと書いた。弁解するようだが先日同世代の友人と会った時、「黒川紀章さんが死んだのって今年だよね」。「うん、春だったよな」。という会話を交わしている。このようにして後期中年男性のボケは進行していく。間違いに気付いた俺は、前々回の記事を直ちに書き直した。「過ちを改むるに憚ること無かれ」

今年は大不況になりそうな気配である。建築の業界もこれから大きな波をかぶることになりそうだ。しかし今のところ、俺の職場は忙しくてたまらない状況だ。年末にはUR都市再生機構の仕事が一本入ってきた。これが工事費で27億だから、相当な仕事量になるはずである。部内では人が不足している。だからと言って安心していられる状況ではない。民間のデベの仕事はパタッと止まった。

もっと書きたいが、キャロが足元で「オシッコに連れて行け」、と言っている。犬語でだが。こういうのが解るようになったほどに、俺も飼い主としての経験を積んだ。ベテランの域である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«2008年12月14日/雑感