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2007年1月20日 (土)

福井の建築/つづき

福井の建築を案内してくれたのは俺の大学時代からの友人Mであるが、福井県立図書館を見た後、「シーラカンスの設計した中学があるから見て行く?」と聞くので、断る理由もなく、連れて行ってもらった。

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丸岡中学校という。北陸の冬。天気は変わり易く、少し前まで青空が見えていたが、この写真を撮った時は湿った空になっていた。それにしても、遠方よりこの建物が見えてきた時、俺は何かの工場だと思った。その建物がグラウンドに面しているのを見ても、その印象は変わらなかった。一つ一つのパーツは恰好良く今風にデザインされている。しかし建物全体が放つ冷たい印象はいかんともし難い。Mによれば内部は木がふんだんに使ってあって、そう悪くないそうだ。この日は休日で、この学校に関係の無いオヤジが勝手に中に入るわけにいかず、あくまで外を見た限りの感想だが、またこの北陸の冬の空の下での印象だが、そのことを差し引いても、「学校がここまで工場に見えてはいかんのではないか・・?」 冬休みにもう入っていたため生徒の影は見えず、よけいに寒々とした光景であった。

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もう一度、福井県立図書館の写真だ。これは自転車置場。自転車置場でさえこのようにスマートにデザインし、美しいコンクリート打ち放しの仕上げを求めるのは、やはり槙総合計画事務所らしい。これ、自転車なくして、まわりにガラスを入れたら、事務所とかショールームとかで通用するよね。こんなとこまできっちり建築していることに感心したのか呆れたのか、自分でも判らない気持ちを抱いたのである。なによりお金のことが気になった。ここまでするか・・する必要があるのか?俺って貧乏性だな。でも使ったのは税金だしな。

前々回、建築とはつまるところ詩作だと書いた。では詩とは何なのだろうか。若い頃に読んだハイデッガーの思想によれば(もし俺の理解が間違ってなければ)、人間という存在は特別な存在である。それは人間だけが「存在」そのものに問いを発することができるからである。それにもかかわらず、我々は通常、そのことに思いを馳せることなく生きている。つまり存在忘却の状態にいるわけである。その状態での人間の物あるいは世界との関わりは、道具としての理解である。身の回りのあらゆるものが道具的に自分の前に現れており、そのことに疑いを持つことすらない。詩作というのはあきらかにそれとは違う物あるいは世界との対峙を要求するのである。この世界に投げ込まれた存在を思索することのできる存在(現存在)として、人が物と対峙する時、その人から発せられる言葉が詩となっていく・・・そのように考えられるのである。常識というものが我々の存在忘却の状態を前提とした物の理解であるなら、その常識の正当性を揺さぶるような表現が詩であり、それが住むあるいは生を営むことに向けられた時、建築が詩となって行くのだろうと思うのである。ただそれはたやすく達成できるものではない。

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コメント

今回で前回のご回答を頂きありがとうございました。
先日、上野の表慶館を見てきました。
全面修復が終わったとのことで~1/28まで見学できますよ。
「感動」というほどではないけど。
寒いので谷口さんの法隆寺で暖まりながらどうぞ。

投稿 ヨシサン | 2007年1月23日 (火) 20:12

ヨシさんからこのページを教えてもらい、拝見しています。
詩作について思うところを少し。
「私」が「何か」と接するとき、その「何か」から、厚く塗り固められた概念やらレッテルやらをはがして純粋にありのままを認識することはできるのでしょうか。さらにその純粋なものの本質とはそもそも何なのか。
まだまだ掘り下げて考えるには至らないのですが、最近「こういうもんだ」と思い込んでいたものを意識的に回避してみると世界が全く違ったものに感じるのだということがわかってきた気がします。形状が目新しいとか固守するスタイルがあるとかいう、手段が目的化してしまうような建築ではなく、新たな視線を生み出すような建築とは何かを模索していきたい。たやすくないですよね。

投稿 ハマ | 2007年2月 1日 (木) 23:48

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