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2007年9月29日 (土)

京都の景観/西陣

200701 夕日が沈む直前に夕日に向かって空を七分、建物を三分の割合で写真を撮ると、ドラマチックな写真になるというのでやってみた。なかなかいいぞ。手前の伝統的な町屋の前も横も、新建材で建てられた新しい家に囲まれている。手前の古い町屋を引き立ててくれている。空を縦横に横切る電線はどうだ。アブストラクトな模様がクールだ。何時空を見上げても、この電線でできた抽象美を楽しめるのは、戦後一貫して日本国中に電線を張り巡らせてきた技術者達のおかげだ。このおかげで日本国中、電気が自由に使える。道に面した駐車場・・というか、駐車場に挟まれた道。京都だって車は必要だ。これは文明の象徴だぞ。この国がいかに文明国になったか、世界中に知らしめようではないか。世界中の人に見てもらおう!!これが、世界に誇る日本の歴史都市、京都、その西陣織で有名な西陣だ。どうです、手前の伝統的家屋。現代的な物達に囲まれて、その美しさが際立っていません?

我々はかく鈍感になり、その遺伝子は次世代に継がれつつある。

200702 すでにかなり有名な三上長屋を訪れた。日も暮れかけるこの時間、外からランドセルを背負った男の子が帰って来るのに出くわした。自分の子供の頃に出会った気がして、懐かしさで涙が出そうになった。本当はこういう人が住んでる場所に、他所から来た人が大勢見物に来るというのはどうかと思う。しかし、敢えて見に来てもらいたい。大勢来るということが、この場所への賛成投票になると思うから。

200703 時間はあまり残されていない。この三上長屋のすぐ隣には、この写真のように木造モルタル3階建ての住宅が並ぶ。またすぐ近くにもやはり、こういう建売住宅が建設されつつあった。このような住宅を作り、売り続ける人たちがいる。商売は自由だ。だが、おそらくその人たちには西陣という場所に対する愛情は無い。

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2007年9月24日 (月)

黒胡麻担々麺/門前仲町

01 「万豚記」という店がチェーン店とは知らなかった。建物に引かれて門前仲町店に入った。店員も全員中国人のようで中国語が飛び交っていた。それですっかり日本に在住の中国人がやっている店に違いないと思ったが、際コーポレーションという会社が展開している四川料理の店だということは後で分かった。この会社は日本料理やイタリアンなど様々のレストランを運営している。なかなか店作りのうまいプロ集団のようだ。この万豚記も店員を全員中国人にしているのは意図的であろう。

02 のれんが可愛いよね。「らーめんいただきます」か・・じゃ、いただきます。

豚が楽しげにラーメン食っている。間違ってはいけないが、店の中では豚を食わせているので、豚が食っているわけではない。だから豚が楽しそうに描かれているのはもちろん嘘だな。もっともこののれんの絵を見て、中で豚がラーメン食ってると思う奴はいないだろうが。

03 黒胡麻担々麺。なかなかの面構えで出てきた。ここの担々麺はこってりし過ぎと嫌う人もいるようだが、俺はけっこう美味しく食った。10点満点で8点ぐらい。腹減ってる時に近くを通ったらまた入ると思う。強めの辛味噌味が麺にからむ。大量の黒胡麻が香ばしい。汗が噴出した。

チェーン展開している店ではあるが、古い建物を再利用し、この深川の街に、下町らしい雰囲気を醸し出しているのはGOODだ。堅苦しい言葉で言うと「地霊」またはゲニウス・ロキ。軽く言うとコンテキスト。そういうの、街のデザインに於いては「個性」以前に尊重した方が良いと思う。

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2007年9月16日 (日)

あべちゃん/リーダーの条件

あべちゃんには最初から疑問を持っていた。でも昨年の今頃、日本国民の約半数は積極的に安倍晋三を支持してたよね。ここに来ての論調はひどいよ。ちょっと可哀想に思えてきた。もういいよ、あの人は十分に傷ついたみたいだ。ひょっとすると政治生命まで奪われたかもしれない。これほどの酷い退場劇。参院選敗北後に速やかに辞任していれば将来に可能性を残したかもしれない彼の再登板は、これで永久に無いと思う。

とは言え、あの人は自分の役割を誤解していたな。歴史に残る首相になりたかったみたいだけど・・・。確かに皆の記憶に残ったかもししれない。彼が望んだのとは逆の意味でね。

02 (組織の)リーダーになるには3つの条件が必要だと何かで読んだ。国も一つの組織だから首相にも当てはまると思うけど。その3つの条件とは、「能力」「人望」「正統性」だということだ。「能力」は当たり前だが、それだけでは駄目なのね。石田三成の例をひもとくまでもない。「人望」の無い人はやはりリーダーとしてはノーグッド。そして「正統性」。これが案外重要な要素だというのは、社会に出て俺達ぐらいの歳になるとわかってくる。能力があって人望があればいいじゃないか・・なんて青臭いこと言ってちゃいけない。大事だよ、正統性。じゃがね、安倍首相の場合、首相になった当時は「正統性」と国民的人気はあったんだね。最初から「人気」であって「人望」じゃなかったように思う。そして「能力」が無いことが明らかになるにつけ、その国民的人気も急落して行ったというわけだ。

01 てなことを、麻布十番の「あべちゃん」で友人と話していたのが、安倍晋三の辞任表明会見の前の日だ。麻布十番の「あべちゃん」は上出来の店。冷えたビールで焼きトンを喰らう。モツ煮込みも良し。あぁ、庶民でよかった・・・と。

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2007年9月 9日 (日)

近所のお店は消えて行き/9月8日朝日新聞

「タヌキやキツネの出る所狙え」・・・何の話かと思った。9月8日朝日新聞朝刊の第13面の記事である。郊外型のショッピングセンターの出店のことだ。イオンの岡田卓也さんが発した言葉として業界では有名なのだそうだ。それは、一旦置いておいて、問題は地方の商店街の衰退である。

先日、妻と映画を見に行った。車で15分ほど行ったところにある大きなショッピングセンターには、いわゆるシネマコンプレックスがあり、複数の映画を上映している。お目当ての映画を見終わってから買い物をして帰った。便利だ。売っているものもそこそこ安い。

たまに京都に帰ると、子供の頃にあった近所のお店が随分と店を閉じたのに気づく。高齢の母には、遠くのマーケットまで買い物に行くのがかなり辛くなってきたようだ。都会に住んでいるのに買い物が不便とは・・。

30をちょっと過ぎた歳のころ、仕事でデトロイトにしばらく滞在していた。中流以上の人々は郊外に居を構え、市の中心部は随分荒れ果ててスラム化していた。デトロイトは今でもあんな具合なのか?

9月8日の朝日新聞朝刊を読んでいろいろな思いが頭をよぎった。しかし言えるのは、この30~40年ほどの間、日本の国は、政府は、都市の中に育った近隣住民の為の商店街を見捨ててきた。好意的に考えれば、人々の生活パターンの変化を前に打つ手が無かったのかも知れない。いずれにせよ商店街は壊れ、店は空き家となり、あるいは壊されて駐車場となった。いくつかの空いた土地は地上げされ、アパートやマンションが建つ事もあろう。それらは経済的な力学により、変貌して行く。それが都市構造の変化であり、無理やり押しとどめることは難しいのかもしれない。けれども本当にそれで良いのだろうか?我々がその変化の中で失ってきたものを考えてみる。八百屋や魚屋の店先で交わされていた「まけろ」「10円引きます」というたぐいの会話・・・もちろんスーパーのレジでそのような会話はあり得ない。魚屋では選んだ魚を焼いてくれる。焼き加減を注文する。店は焼いた上に届けてくれたりもする。そういうやりとりの中で育っていった地域の連帯感。近隣の店が無くなるという事は、街が崩壊しているということなのではないか。してみれば、国は、政府は、(人が住まう)街の構造が崩れていくのを手助けしてきた、と言って悪ければ、座して見ていたということにならないか。

無能の政府、官僚集団・・・という言葉をぐっと口の奥に押し殺しながら、しかし、一方で様々の規制の強化もあることに思い至ると愕然とする。この度の改正建築基準法等の施行により、現在、確認申請業務が大混乱していることは建築関係者にはほぼ明らかである。誰の思いつきだったのだろう?来年には一級建築士制度の見直しがあり、構造一級建築士や設備一級建築士ができる。何も知らない人にとっては、姉歯事件をきっかけに建築士の資格制度そのものを国が見直した結果だと映るであろう。だが、ことの本質はそうではない。建築の構造技術者については民間の自主団体だが、日本建築構造技術者協会があり、そこが認定する建築構造士制度がある。建築設備についてはやはり、建築設備技術者協会があり、建築設備士を認定している。それらの資格は、民間とはいえすでに高度の技術者資格として業界内で十分に認知されている。普通に考えれば、それらの資格制度を国の制度に位置づければ良いことである。それでは何故、構造一級建築士や設備一級建築士を新たに設けようとするのか。推定できる、かつ納得できる答えは一つである。構造一級建築士、設備一級建築士制度がいよいよ施行の暁には、それらの資格試験や免許の管理のため、めでたくも新たな公益法人が必要だと主張できる・・そのことである。そうして新たな国交省役人の天下り先が確保できることになる。

俺が子供の頃、近所の店から御用聞きが回ってきたものだが、なんか押し付けがましくていやな印象を持ったものなのだが・・・これは考えてみると現状打破の一つの手かもしれない。郊外型のショッピングセンターは車を前提として成り立っている。俺たち家族も、車があることを前提で今の住居に住んでいる。だが住民のすべてが車を所有しているわけではない。高齢化がすすむ都市部においては、俺の京都の実家を引き合いに出すまでも無く、新しい販売サービスの形態が生まれるチャンスがあるように思う。そういうことをしかし、大手、たとえばイオンやオリンピックなどの大規模小売店舗を経営する会社にまかせてはいけない。彼らには資本も人材もある。やろうと思えば短期間のうちに、洗練された大規模な販売システムを構築できるだろう。だが、国や地方自治体は今度こそ、地元密着型の小売販売システムを、まさに風前の灯の商店街を軸に構築していく必要があるのではないか。そのためには指導者も必要だろう。システム構築できる人材も必要だろう。もちろん資金も必要だ。だが、そこにこそ税金は使われるべきである。

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2007年9月 2日 (日)

楳図かずおの家/建築における自由

特段の理由も無く気持ちが沈んで、何もやる気がなくなる時がある。それも休日にそうなることが多い。忙しい日が続いた後にそうなりやすいようだ。愚痴になるけれど、忙しいのは大概つまらない(と言ったら怒られるかもしれない)雑用のせいだ。盆明けからこの2週間ほど、建築業界の某協会から来ている複数のアンケートに回答することや、前期の(7月から新しい事業年度に入っている)支店の受注に関するデータを集計すること、あるいは部下に人事評価のための目標を立てさせる・・という、この時期に特有の仕事が普段の仕事に加わった。業界のアンケートの回答を8月31日、締め切りぎりぎりに送付した後、何とも言えぬ虚しい気持ちになった。その気持ちを引きずったまま土日に入った。

Photo その土曜の朝の新聞で漫画家・楳図かずお氏が建てようとしている家についての記事を読んだ。近隣の人達が建築中止の仮処分を東京地裁に求めているその家は、外壁を赤と白の横ストライプに塗る計画である。楳図かずお氏は普段から赤と白の縞柄のシャツを着たりしており、それを彼のトレードマークのようにしている。その色の組み合わせが好きなんだそうだ。建設予定地の近隣の人々は、その外壁の計画に対して、「乱痴気」であり「身の毛もよだつ」建物であり耐えられない・・と、訴えているのである。楳図氏はそれに対して、「家は作品」であって「あんまり普通すぎても世間への貢献にならない。表現の自由は譲れない・・」と話しているということだ。この記事を読んで、俺はしばらく考え、二人の人物の言説を思い出した。一人はアレックス・カーであり、もう一人は妹島和世である。

アレックス・カーは俺より少し年上の日本に在住する米国人で、「美しき日本の残像」や「犬と鬼」という著作で知られている。「犬と鬼」の方は俺もこれから読もうとしているところだが、「美しき日本の残像」の方は先ごろ読み終えた。あまりにも美を価値の上位に置きすぎているのではないか・・と思えるところもあるが、大体においては俺が相当若い頃から抱いていた日本の景観に対する評価を、外国人の目から見てもそうであったかと裏付けている。要するに日本の景観は都市も、農村も、いや京都ですらもはや美しくはなく、むしろ醜さに拍車をかけている・・という事実の指摘だ。一例を引用しよう。

京都と奈良を色々と遊び回りましたが、それは目の前で破壊されつつあります。特に京都の場合、その破壊は凄まじいものであって、「今の日本人は昔の美に対して何らかの恨みを持っているのではないか」と思えるようになりました。

右の話のつまるところは、日本の自然と日本の伝統文化はもう駄目だという結論です。

もう駄目だと言われても、我々日本人はここに住み続けるしかない。確かに諸外国を訪れてみて、日本に目を向けると、日本人は実に色んな実用的理由をつけて、貴重な景観を破壊していることに気が付く。便利であること・・は大事だけれど、例えば赤ん坊を育てる時にロボットが授乳してくれるのならば、それを買って赤ん坊のそばに置くのだろうか?戦後の日本では美しいことはいつも無駄であり、金をかけてまで守るべき価値ではないのだろう。俺には人が生きる場所に対する愛情の不足と思えるが。

それから、表現の自由は守らなければならない・・という言説は本当に正しいのだろうか?便利であること、表現が自由であること・・これらを理由に、日本の景観はどれだけ情けなく毀損されてきただろう。建築家はどれだけそのような景観破壊に手を貸してきただろう。表現の自由のために。もういい加減に気が付かなければならない時期なのだが・・・。

妹島和世の名を出すのは、彼女が唯一悪いからではない。彼女は正直言って、我々世代の建築家の中ではやはり、稀有の感覚(あえて才能と言わない)を持った人である。ここで彼女の名を出すのは、先日何かの記事で、彼女が「『建築は自由である』ということを伝えるのが自分の建築の目的」だと考えているらしい・・ことを読んだからである。はたして建築は自由なのだろうか。「建築は自由である」という言葉はとても英雄的に響き、ほとんど反論できないほどである。だけれども疑わなければならない・・と俺は思う。もしそれが正しいのなら、それは楳図氏の言う「表現の自由」と、理論上どこがどのように違っているのだろうか。俺には分からぬ。

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