特段の理由も無く気持ちが沈んで、何もやる気がなくなる時がある。それも休日にそうなることが多い。忙しい日が続いた後にそうなりやすいようだ。愚痴になるけれど、忙しいのは大概つまらない(と言ったら怒られるかもしれない)雑用のせいだ。盆明けからこの2週間ほど、建築業界の某協会から来ている複数のアンケートに回答することや、前期の(7月から新しい事業年度に入っている)支店の受注に関するデータを集計すること、あるいは部下に人事評価のための目標を立てさせる・・という、この時期に特有の仕事が普段の仕事に加わった。業界のアンケートの回答を8月31日、締め切りぎりぎりに送付した後、何とも言えぬ虚しい気持ちになった。その気持ちを引きずったまま土日に入った。
その土曜の朝の新聞で漫画家・楳図かずお氏が建てようとしている家についての記事を読んだ。近隣の人達が建築中止の仮処分を東京地裁に求めているその家は、外壁を赤と白の横ストライプに塗る計画である。楳図かずお氏は普段から赤と白の縞柄のシャツを着たりしており、それを彼のトレードマークのようにしている。その色の組み合わせが好きなんだそうだ。建設予定地の近隣の人々は、その外壁の計画に対して、「乱痴気」であり「身の毛もよだつ」建物であり耐えられない・・と、訴えているのである。楳図氏はそれに対して、「家は作品」であって「あんまり普通すぎても世間への貢献にならない。表現の自由は譲れない・・」と話しているということだ。この記事を読んで、俺はしばらく考え、二人の人物の言説を思い出した。一人はアレックス・カーであり、もう一人は妹島和世である。
アレックス・カーは俺より少し年上の日本に在住する米国人で、「美しき日本の残像」や「犬と鬼」という著作で知られている。「犬と鬼」の方は俺もこれから読もうとしているところだが、「美しき日本の残像」の方は先ごろ読み終えた。あまりにも美を価値の上位に置きすぎているのではないか・・と思えるところもあるが、大体においては俺が相当若い頃から抱いていた日本の景観に対する評価を、外国人の目から見てもそうであったかと裏付けている。要するに日本の景観は都市も、農村も、いや京都ですらもはや美しくはなく、むしろ醜さに拍車をかけている・・という事実の指摘だ。一例を引用しよう。
京都と奈良を色々と遊び回りましたが、それは目の前で破壊されつつあります。特に京都の場合、その破壊は凄まじいものであって、「今の日本人は昔の美に対して何らかの恨みを持っているのではないか」と思えるようになりました。
右の話のつまるところは、日本の自然と日本の伝統文化はもう駄目だという結論です。
もう駄目だと言われても、我々日本人はここに住み続けるしかない。確かに諸外国を訪れてみて、日本に目を向けると、日本人は実に色んな実用的理由をつけて、貴重な景観を破壊していることに気が付く。便利であること・・は大事だけれど、例えば赤ん坊を育てる時にロボットが授乳してくれるのならば、それを買って赤ん坊のそばに置くのだろうか?戦後の日本では美しいことはいつも無駄であり、金をかけてまで守るべき価値ではないのだろう。俺には人が生きる場所に対する愛情の不足と思えるが。
それから、表現の自由は守らなければならない・・という言説は本当に正しいのだろうか?便利であること、表現が自由であること・・これらを理由に、日本の景観はどれだけ情けなく毀損されてきただろう。建築家はどれだけそのような景観破壊に手を貸してきただろう。表現の自由のために。もういい加減に気が付かなければならない時期なのだが・・・。
妹島和世の名を出すのは、彼女が唯一悪いからではない。彼女は正直言って、我々世代の建築家の中ではやはり、稀有の感覚(あえて才能と言わない)を持った人である。ここで彼女の名を出すのは、先日何かの記事で、彼女が「『建築は自由である』ということを伝えるのが自分の建築の目的」だと考えているらしい・・ことを読んだからである。はたして建築は自由なのだろうか。「建築は自由である」という言葉はとても英雄的に響き、ほとんど反論できないほどである。だけれども疑わなければならない・・と俺は思う。もしそれが正しいのなら、それは楳図氏の言う「表現の自由」と、理論上どこがどのように違っているのだろうか。俺には分からぬ。
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