茂木健一郎から教わる建築の意味
建築学会の機関誌は「建築雑誌」という名前で、「そのまんまやんけっ!!」というつっこみを入れる人は俺を始めとして約10万人いる。その雑誌がどうもあまり面白くない、かつ役に立たないという議論も相当あるようで、最新の建築雑誌は建築雑誌のあり方云々を論ずる特集であったように記憶する。記憶するだけで確かめようが無い。なぜなら、役に立たないので捨てたからだ。
すぐに捨てることの多い建築雑誌だが(ところで、ここでの建築雑誌は建築の雑誌という一般名称のことではなく、建築学会が出している機関誌であるところの「建築雑誌」という建築の雑誌のことだ)、どういうわけか古いものが残っていることがある。2005年10月号の建築雑誌が出てきたので、ぱらぱらとページをめくっていたら、寄稿者の中に茂木健一郎の名前を見つけた。脳科学者としての茂木健一郎は最近随分有名になって、テレビでもよく見る文化人になったが、2005年当時はまだそれほどではなかったと思う。有名になった茂木健一郎だが、俺は彼の書いた本を読んだことが無いので、何をする人なのかいまいちよく分からない。だが、この度発見した建築雑誌の中で、彼はとても面白いことを書いてくれているので要約して書きとめておこう。
まず彼は、1972年にローマにあるシンクタンク「ローマクラブ」が「成長の限界」というレポートを発表して、大きな反響を呼び起こしたことから論を始める。資本主義社会において経済成長が無限に続くというシナリオは、地球の自然のキャパシティが有限であることに着目すれば、いずれその限界に至るという、極めて当然と思える結論を、そのことから目を背けている人間に突きつけたのがこの報告書である。しかし茂木は、人間社会がより高度に組織化される中で、この単純なマスとしての限界は乗り越えてきたと言う。ところが、近年、いわゆるIT(情報技術)がポスト工業化社会を誕生させ、情報、知識を扱うこと自体が経済活動の主要な目的になってきたこと、そしてITにはローマクラブが指摘したような制約はもともと存在しないと思われてきたことを紹介した上で、しかし限界は思わぬところから顕在化して来たと言うのだ。
それは、人間の脳の情報処理能力、容量の制約による限界である
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今後、大容量のブロードバンドが普及し、テクストだけでなく好きな音楽、映像がインターネットをとおして容易に得られる時代が来たとしても、果たして私たちはそれを味わう時間と心の余裕を持つのだろうか。
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現在の状況は、過剰なデジタル情報が人間の脳の有限の可処分時間、可処分注意を奪い合う、情報過剰の時代への突入を予感させるのである。
この指摘は、俺も何となく心の底にあった「IT社会への疑念」に符合するもので、「なるほどそうだよな」と肯かせるものである。我々は今や情報の洪水の中ですでに溺れており、快適というよりもむしろオーバーヒートする脳の機能不全に悩まされているのではないか。それを俺は「情報過多に起因する精神の故郷喪失」と呼びたい。そして茂木は「最後の1メートル」について述べる。
一生を終えるときに、「ああ、毎日メールをたくさん読んで、ネットサーフィンして、いい人生だった」と思うのと、「毎日庭で草花の手入れをしていい人生だった」と思うのの、どちらがよいか。ムーアの法則に従ってデジタル情報が爆発的に増大したとしても、それに人間が付き合う筋合いは毛頭ない。
2002年にノーベル経済学賞を受賞したカーネマンらの「行動経済学」の研究の過程において、人間は、必ずしも外部的に規定された経済的合理性に従って行動するとは限らないことが示された。・・・
・・・検索エンジンをはじめとするウェブ上のデジタル情報からのマイニング技術は、論理的操作の積み重ねによって、人間にとって価値のある情報をユーザーのパーソナル・コンピューター画面まで持ってくる。しかし、ユーザーの知覚品質までの「最後の1メートル」をどのように設計するかによって、その情報が最終的に人間のよりよき生き方に寄与するかどうかは大きく左右される。
知覚というものが人間による情報の受容であるとすると、確かに機械的に膨大な量の情報を発信できるかもしれないが、その受容の段階では人間の脳という極めて情動的で限界のあるスクリーニングを経ることになるのである。この一連の機械・人間システムの中から良くも悪くも「生きている人間」という古い概念を排除することなど、そもそもできないのではないか。建築の側に引き寄せて考えれば、「ITが建築に影響を与えて、建築そのものの概念を覆す」と考えるのは、あまりに能天気な思考だと思えるが、どうだろう。茂木の論を追おう。
もちろん、われわれはITなしでは、もはや生きていくことはできない。人間がITに合わせるのではなく、ITの側が人間に合わせるように進化することによって、ITの「成長の限界」を乗り越えることは可能なはずだ。
建築もまた、今やIT抜きで考えることは難しい。しかし、建築は本来、人間の為にあるのであり、ITの為に変容していかねばならない義理は無い。建築を考える出発点は依然として人間であり、人間以外にあり得ないということになる。変わらなければならないのはITの方であって、人間がITの側に擦り寄ってどうする。
茂木はここで、彼の専門の脳科学の知見から、人間の情報認識は「クオリア」と呼ばれるある質によって行われていると述べる。それは心理学あるいは認識論に通ずる議論であり、脳を研究することで、哲学的思考が科学的に裏付けられているように思える。
私たち人間の意識のなかでは、すべての情報はある質感を持った「クオリア」(qualia)として認識されている。それが、シンボリックな記号であれ、抽象的な数字であれ、あるいは赤や青といった色であれ、ある情報が意識のなかで、他と区別される形でユニークに把握されるとき、それはひとつのクオリアとして立ち上がるのである。
そして、脳の中でクオリアが生成されるメカニズムを考えると、一つの重要な性質が指摘される。それは「クオリアの非可算性」である。
例えば、「メロンを食べる」という体験は、メロンの「香り」、「甘み」、咀嚼し、飲み込むときの「テクスチャ」のクオリアをそれぞれ単独で味わったものの単純可算以上の新しい質感をもたらしている。
建築、あるいは空間を体験することは、このようなクオリアによる認識の特性によりうまく説明されるように思う。建築の最も重要な部分は、技法的に考えるならば、造形ではなく組み合わせの妙味である。
短い論文の結論部分で、茂木は建築の可能性について、脳科学者の立場からエールを送っている。それは極めて示唆的で、また建築に関わる者に勇気を与える。長くなるが引用する。
・・・空間は、並列性を展開することが本来的なメディアである。空間の設いをその本分とする建築が、人間に固有のクオリア体験を与えるうえで特権的な可能性を占めていることは言うまでもない。
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IT全盛の現在だが、人間の体験の質という視点から見たITの限界はすでに今ここにある危機である。この踊り場を乗り越えることは、空間設いのアートとしての建築がITにすり寄ることではなく、ITの限界を建築をはじめとする人間の全体性を扱う知恵が、発展的に補足することで初めて可能になる。
人間の内なる自然に論理的、シンボル的な演算を持ち込むという意味での陳腐な「サイバー」を超えた地点に、ITと建築融合の真の可能性があるのである。
茂木健一郎か、・・見直した。
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