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2008年1月20日 (日)

小堀遠州/建築家

先週のことだが、松屋銀座店の催場で小堀遠州の展覧会をやっていたので足を運んだ。NHKの日曜美術館で紹介されたこともあるのだろう、大変な混みようである。なかでも中年以上の女性の数が多い。そうして、展示物を見ていると、「ああ、これこれ高取よっ。いい形ね」などと、小声で、しかもサラッと話しているオバサンの会話が聞こえてくる。負けた・・。高取焼きってそんなに有名?俺は正直知らんかった。こんな会話ができるオジサンがどれほど日本にいるであろう。日本の中年女性の文化度は相当に高い。

日本の女性の文化度の高さを支えているのは、いわゆるお稽古事のシステムだろう。確かめた訳ではないが、お稽古事をやる女性の数は同年代の男性よりはるかに多いと思われる。お稽古事というのは一種の教育システムであり、それによって日本の古典文化などを学んでいけるようになっている。茶道は総合芸術だろうから、これを学ぶ女性が、いつの間にか陶芸や書画の知識を広めて行くのは当たり前である。俺が「やられた」と思ったオバサン達も、おそらく茶道を学ぶ方なのであろう。女性は仕事に就いている年代でもお稽古をする。一般論だが、仕事で時間とエネルギーを使い切ってクタクタの男性と比べ、女性の方が余力を残し、お稽古事にその余力をつぎ込むことができるのであろう。そういうことを何十年も続けた後、平均的な男性は濡れ落ち葉になって行く。日本の文化を下支えしているのが、こういう小堀遠州の展覧会などに大挙して足を運ぶオバサン達であるというのは間違いないだろう。

01で、小堀遠州のことである。

俺が大徳寺孤篷庵の忘筌を始めて訪れたのは、もう30年ほど前のことになる。そしてそれ以来、一度も訪れていない。だいたい孤篷庵は普段は公開していないので、特別公開の時を狙うしかないのだが、勤め人にはそのために会社を休み、わざわざ京都へ行くのは難しい。そうして30年ほどが過ぎた。だが、この孤篷庵忘筌よりの庭の眺め。建築をかじったことのある人なら知らないとは言わせない。それほどに有名な茶室であり、庭園である。

明治より以前、日本には西洋の建築家といういう概念にあてはまる職業はなかったのではないかと言われるが、小堀遠州だけは建築家という呼称が当てはまるように思う。この人はもちろん大工棟梁ではない。だが、この人が関わった建物や庭は、遠州好みという独特の美意識に、しかも遠州以前と較べて独創性あふれる美意識に統べられている。遠州抜きには成立しなかったであろう空間なのである。そういう意味では千利休も建築家であったと言えるが、利休があくまで茶道という枠の中で、その道具立てとしての茶室の建設に関わったの対し、遠州は作事奉行として城や寺、そしてもちろん茶室の建設という、幅広い用途の建設に関わり、また相当に建設そのものの知識を持った技術者であったということから、建築家という呼称によりふさわしいと考えるのである。

桂離宮も小堀遠州の作であろう・・というのは50年ぐらい前の学説で、今日では施主である八条宮智仁親王が直接の指示を与えたとする。小堀遠州が大工や庭師を差配したという記録がついに出てこなかったからである。であれば、桂離宮という日本建築の最高峰を生み出した建築家は八条宮になるが、実際のところ、桂離宮というのはいわゆる遠州好みが色濃く現れていて、「遠州が全く関わっていなかった」と断ずることがむしろ不自然に思えるのである。少なくとも小堀遠州が八条宮に相当のアドバイスを与えたのではないか。こういうことは磯崎新も言っていて、また八条宮と小堀遠州のつきあいがあったことは証拠もあることである。だから、やはり桂離宮造営における建築家としての一番重要な役割、つまり構想し、最も重要な細部について指示するという部分は、小堀遠州がたとえ口頭であれ八条宮智仁親王に伝えたことなのではないか・・と、俺も思うのである。

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