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2008年2月17日 (日)

小堀遠州/綺麗キツハ

小堀遠州を論ずるのに、やはり当時の茶道の継承と変化のことを抜きにはできないと、この間、銀座松屋で開催された小堀遠州展によって学んだ。室町時代あたりから江戸初期にかけて、茶道が日本文化に果たした役割はとてつもなく大きい。建築のことで言うと、茶道以前の日本の空間は、宗教的なもの、仏教とか神道との関係において概ね説明できるように思うが、室町時代から戦乱を経て完成していく数寄の世界などの極めて日本的な空間的美意識の成立は、茶道を抜きにはあり得なかったのだろう。

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銀座松屋の「小堀遠州 美の出会い展」で俺の目を引いたのはこの茶釜である。写真ではよくわからないだろうが、小ぶりの茶釜で、それがこのような釜の上を包丁ですっぱり水平に切ったような造形である。現代作家の手になるものである・・と言われても何の疑いも持つまい。それが400年も前の遠州好みと伝えられる釜なのだ。

「織理屈、綺麗キツハハ遠江、お姫宗和ニムサシ宗旦」と伝えられている。千利休は言うまでもなく茶の湯の大成者であり、秀吉より死を賜って自刃したことは皆知っていることだ。戦国の世とは言え、「死ね」と言われて「死にましょう」と、腹を切って死んだような人だから、その人が完成した茶の湯というものの本質は尋常ならざるものだ。利休においては茶の湯の空間と時間は、例えば妙喜庵待庵のような薄暗くて狭い部屋の中で、亭主によって茶が点てられ、客がそれをいただく一連の流れの中で、極めて非日常的な時間を共有することにあろうが、そこにある美学はただ美しいということではなく、土なら土、光なら光をそれそのものとして観照する態度であると思われる。

古田織部は千利休の高弟であって、利休の後継者としての自負もあったことだろう。しかし、一言で言えば偏屈の人だったらしい。織部焼きと称される織部好みの焼物は、形は歪み、模様もわざと下手で、まずは自然の形を最上としたらしい。ちなみに古田織部も大阪夏の陣の後、切腹を命じられる。だから織理屈である。

高森宗和はお姫様好みというから、女性的な感じがしたのだろう。よく知らないが・・・。ムサシ宗旦というのは、宮本武蔵みたいな宗旦か・・と、ふと思ったのだが、そんなわけあるはずもない。調べると、ムサシとは「むさくるしい」ということらしい。それぐらいに千宗旦は祖父である千利休の「わび」を推し進めたらしい。乞食宗旦とも呼ばれている。清貧を上とする人であった。

それで小堀遠州は大名であり小堀遠江守なのだが、この遠江守は綺麗キツハだという。綺麗は分かるが、キツハはどういう意味か。茶道史研究の熊倉功夫博士は「キツハは『ぎっぱ』で立派という意味であろう」と書いているのだが、先月のNHKの番組では「きっぱりしていることだろう」と解説していた。織部は理屈、宗和はお姫、宗旦はむさい・・・と評する中で、遠州は綺麗で立派とするのは、ちょっと凡庸な表現に思う。だから「綺麗できっぱりしている」とするNHKの解説が正しいと思う。当時から、小堀遠州の好みは「綺麗であり、きっぱりして、つまりシャープな印象を与えるもの」と認識されていたのだろう。小堀遠州にはとりわけ知性的なものを感じる。

今から晩飯の仕度をする。小堀遠州については、つづく・・・だ。

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