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2008年3月30日 (日)

麗しのキャンパス?/同志社

同志社大学の今出川キャンパスのことを続ける。

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重要文化財に指定されている有終館。「有終の美を飾る」の「有終」だ。元々は図書館であった。それが新しい図書館ができたので、その役目を終えた・・ということから「有終館」と名付けられたらしい。この建物に限らず、同志社大学の建物は何かしら名前が付いている。黒色の煉瓦と白い石の帯がアクセントになっていて、遊び心が感じられる。建物の設計時には米国からの派遣宣教師が指導したと、建物正面に貼り付けてあるパネルに書いてあった。その宣教師の名前までは記してない。明治18年(1885年)に定礎が置かれ、2年後の明治20年(1887年)に竣工している。

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有終館の南側外壁詳細です。

なかなかに凝ったデザインで、良いと思う。19世紀末に建てられた建物として革新的なものはないかもしれないが、軒蛇腹のデザインや柱の面取り、あるいは窓下の腰壁が黒煉瓦を交えた斜め張りになっているところなどは見所である。この建物の設計者はこの建物が皆に愛されることを願っていたんだろうな。そういうことが感じられる建物である。

この当時、米国の宣教師や伝道師は、キリスト教の布教と同時に、西洋建築の技法を日本に伝えることにおいて相当重要な役割を果たしたらしい。W.ヴォーリズは20世紀前半に建築家として実に多数の建物を日本各地に残したが、元々は伝道師を兼ねた英語教師として来日している。ヴォリーズの建物はファンが多いと思う。こんな優秀な建築家が20世紀前半に日本に住みついて、数多くの名建築を生み出したことは奇跡的なんじゃないかな。ま、これは余談だが。

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次の建物はクラーク記念館だ。これは同志社大学のシンボル的存在で元は神学館として建てられた。やはり重要文化財に指定されている。ドイツ人建築家R.ゼールの設計で、明治26年(1893年)に竣工している。ドイツ人らしい重厚館のある建物で、美しい。

建物玄関の前にある説明書きには「ドイツ・ネオ・ゴチック調」とあるのだけれど、これって正しいの?全体の印象はロマネスクに思える。ネオ・ロマネスク。ただ、俺は西洋建築史の専門家じゃないからね。

時代から言えば、そろそろ過去の洋式建築からの離脱が始まる頃。しかしそういう歴史上での位置づけは抜きにして、よくできていると思う。ずっしりとした存在感で、構成がしっかりしており、本物の匂いがする。中も見たいのだが、黙って入るのは憚られる。2階には礼拝堂もあるらしい。

01_3もう一つ写真入れておこう。ハリス理化学館だ。

アメリカ人実業家J.N.ハリス氏の寄付金で建てられた建物で、設計は英国人建築家のA.N.ハンセル氏。1890年(明治23年)の竣工である。これも重要文化財指定である。

全景を撮るには木が邪魔になる。でもこうして見ると、綺麗なキャンパスだね。ただ、こういう建物が、キャンパスの主たる構内道路に面してまるで展示品のように行儀良く建っている。それがやや俺には物足りない。これらの建物で構成される同志社大学今出川キャンパスは、魅力的であると同時に排他的である。attractiveであると同時にexclusiveであるというのはどういうわけか?

大学のキャンパスというのは一つの街のようなものだ。その構成や意味を問い、解釈していくのは都市を問うことと似ている。一つはっきりさせておこう。都市は建築の陳列場ではない。

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2008年3月23日 (日)

同志社大学今出川キャンパス

Photo_2同志社大学の今出川キャンパスは、同志社大学発祥の地である。今出川通りの北側に位置し、通りを挟んだ南側には御所、北側には相国寺があり、航空写真で見ると実に緑が多い所で、大学の立地としては申し分ないように思えるのだが、実際に行って見るとちょっと印象が違う。御所にせよ同志社にせよ、構内に入ればそれなりに落ち着いた雰囲気になるのだけれど、それぞれの繋がりというものが無い。御所、同志社、相国寺という3つのエレメントがただ隣り合っているだけで、ばらばらな感じを受けるのはどういうわけだろう。このあたり一帯の魅力を増すには、これらの場所の連携を強化する必要があるように思う。

写真で見れば分かるように、御所の側も大学の側も歩道が狭すぎである。このため、御所も同志社も構内に入れば貴重な都市の緑があるのだけれど、その外を歩く人達はゆっくりとこの都市空間を楽しむことができない。同志社大学の塀も問題だ。普通で言えば、漆喰で塗られた土塀は「さすが京都」と褒められるべきかもしれないが、この狭い歩道に面して歩行者に圧迫感を与えているのは考え物である。古ければ良いというものでもない。そもそも同志社大学は、この今出川通りに対して裏側を見せる構えなのである。しかし、もし俺がこのあたりの景観を改良する提案を求められたなら(それはあるわけもないが)、この同志社キャンパスが今出川通りに放つ裏感覚を何とかして打ち破りたいと考えるだろう。

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同志社大学の構内である。

メインの構内道路に面して、いくつもの外装煉瓦の建物が並ぶ。また各々の建物の主玄関はこの構内道路に面する。かくのごとく、このキャンパスは基本的に内向きである。ただし日本の大学は一般にこの傾向が強いのであり、このキャンパスだけを責めているわけではない。

同志社大学今出川キャンパスには重要文化財に指定されている建物が5つある。いずれも煉瓦の外装であり、著名な建築家の設計ではないが良くできている。ある様式というか、文法に従ってデザインすれば、相当のレベルまで質が得られるということの証明になるだろう。こういう時代の建物は、才能のある人の手になるものとそうでないものとの差は小さいのかもしれない。また都市景観的な観点からすれば、文法があるということによって全体の秩序は間違いなく保証される。それを今求めてもしょうがないのだけれど。ではどうすべきなのだろう・・・?

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2008年3月16日 (日)

2008年3月16日/京都より戻る

Xivバイキング料理を食った。それも相当に豪華なやつである。左の写真は俺が自分のためにまず取り揃えた料理の皿である。大皿には酢豚、蒸し鶏、くらげの酢の物がのっている。バイキングだから自分で皿に盛った。このような時にも美しく盛る。欲しいだけ山のように皿に盛って来るような、はしたないことはしてはいけない。 酢豚がよくできており美味かった。黒酢を用いてある。豚肉が香ばしく、プロの技が生きている。左端の小皿にあるのは生麩の田楽だ。これもなかなかのもので、舌を楽しませてくれた。写真には写ってないが、冷えた生ビールのグラスがこれらの横に鎮座している。こうして俺は、前の席にいる妹の旦那や横にいる姉とグラスを合わせた。「チーンッ」。それはその後2時間におよぶ晩餐の、まさに開始のゴングとなるのである。「もうこれ以上無理だ・・」と、胃が叫ぶまで・・・。

実は金曜の夜に京都の実家に帰った。正月以来である。今日、3月16日にこちらに戻ってきた。今回は2泊しただけで、慌ただしかったのだが、たまたま妹夫婦とその子供達も土曜日に訪ねて来ることになっており、母が手配して八瀬の方にあるホテルのバイキング料理を申し込んだのである。随分と張り込んだものである。

今回の記事はこれまで。今日の昼頃には再び関東に戻るために京都駅へ向かったが、その途中、同志社大学の今出川キャンパスを訪れた。美しい煉瓦の建物がいくつかある。写真を撮ったので次回の記事に載せようと思う。

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2008年3月 2日 (日)

小堀遠州/覚悟の上の綺麗

Photo 岡山県にある頼久寺の庭園は、小堀遠州の好みを凝縮していてすごく興味深い。実は1月のNHKの日曜美術館で紹介されるのを見るまで、俺もうっすらと知ってはいたのだが、これほどのものとは認識していなかった。岡山県に行く機会があれば是非訪れてみたい場所である。

遠州がこの庭園を構想したのは1614年、大阪冬の陣の頃で、彼が36歳の時であると伝えられる。遠州はもちろん武家の人であるから、戦にも出ており、つまり命のやりとりをしていた人である。そういう人が一方でこういう美の創出者、クリエーターだったというのが、この時期の日本文化の凄さである。俺の考えが間違っているかもしれないが、数寄などというこの時期の日本文化を表す言葉をそう軽々と捉えてはいけない。そのバックボーンには当時の日本の死生観、無常観、そしてそういうところを突き抜けたところに初めて現れるウィットというものが控えているように思う。室町から戦国を経て江戸初期の頃までの美術や建築こそが、日本文化を極めてユニークなもの、同じ儒教文化圏でも中国、朝鮮と異なったものにしているのだ。

頼久寺の庭園では植え込みを刈り、波を表現している。それはまあそういうことなのだろう。この植え込みの刈り方は、大刈り込みといわれる大胆な刈り方で、刈ることで幾何学的な造形を作り出す。小堀遠州はこれを好んで(というか、そもそもこういうのはこの人が始めたのではないか?)用いたのだが、このようなやり方は誰に学んだのだろうか?想像するに、当時、宣教師などを通じて西洋の庭園についての情報がいくらかは伝わっていたのではないか。ただ、小堀遠州の庭園は、西洋の庭園とは異なり、左右対称ということはあまりない。だから幾何学的なマスが自由に構成されている・・・という、非常に現代的な手法に近い。遠景には山が借景として取り入れられており、全体の印象は、まさに綺麗できっぱりしている。踏み石の構成も見ればいかにも遠州の好みで、切り出した石と、自然な形の石がまるで抽象画のように組み合わされている。あらためて見させられると、とても400年前の日本庭園とは思えない。計算された構成。知性を感じるとはこのことである。

Photo_2桂離宮の御輿寄せ前の庭を見てみると、ここには遠州の好みが色濃く出ていることが分かる。桂離宮古書院の造営は、頼久寺で遠州が作庭を行っていた時期に近い。もちろんこちらは親王の別邸であり、そこに使われる金も大きかったから、使う材料や手間は頼久寺の比ではなかっただろう。そして、この日本建築・庭園の至宝は八条宮智仁親王の指図によるものと、今日考えられているが、今回あらためて調べると、小堀遠州と八条宮智仁はなんと同い歳ではないか!

遠州と八条宮に交流があったのは確かだが、思うに、それは本当に趣味を同じくする者同士の心を許し合った交流だったのではないか。桂離宮の古書院を造営するに当たり、智仁親王は遠州から頼久寺庭園の造り方も聞いたことであろう。

一方、遠州の好みが綺麗なのは、こういう親王や公家との交わりの中で、遠州の先天的な美的才能が刺激を受けたからであろう。小堀遠州は武家の人である。いざとなれば命がけで敵と切り結ぶ、激烈な職業の人である。そういう人が公家文化と交わり、その華やかさ、明るさと接した時、この感性豊かな右脳はどのように反応したのか。その人の気持ちは推して知るべし。「わび、さび」という利休以来持ち上げられた美意識に、「綺麗」というものがもたらされ、綺麗できっぱりとしている、あるいは大胆であるが明るく軽く、色気のある小堀遠州の世界が、公家文化に接することで開かれていったのであろう。

小堀遠州についてはまだまだ書けるように思う。特に、八条宮との交流が本当のところどういうものであったのか、どのような友情があったのかについて、いろいろと思い巡らすこともできる。また遠州における自由な造形とその意味についも考えるところがある。しかし、今回、遠州について少しばかり書いていく中で、何故自分が小堀遠州に魅かれるのか分かったように思う。小堀遠州は愛すべきキザな人である。

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