50 Years After 1960/丹下の再評価
八束はじめ氏の小論「50 Years After 1960」の1960とはどういう年なのかということについては、次のようにはっきりと書かれている。
「50 Years After 1960」と題されているのは、丹下健三の「東京計画1960」を出発点としているからである。
八束さんはここで、都市計画家としての丹下健三やそれに続くメタボリスト(腹囲85センチ以上の建築家集団・・というのはウソ。大高正人や菊竹清訓、黒川紀章、槙文彦ら、丹下研究室出身者を中心に『成長と新陳代謝する都市』のアイデアを提示した建築家のこと)の仕事を再評価しようとしている。
建築家、丹下健三はコルビジェに影響を受けながらも、生まれ持った造形力によって、幾多の現代建築の傑作を生み出し、戦後の日本建築界に絶大なる影響を残した・・・というのが大方の認めるところで、丹下さんが都市計画的な構想を抱いていたというのはコルビジェなんかの影響だろうけど、「ほぅ、すごいこと考えていたんだね」、ぐらいの感想しか持てない。なにぶん、実現していないし、実現しそうもない案でもあり・・・。それゆえに丹下さんの都市計画については、藤森照信なんかも次のように総括する。
都市に関して、丹下の真骨頂はデザインにあり、リサーチにはなかった・・・
けれどもこの点こそ、八束はじめ氏が反論し、「お前らぜんぜん見えてないなぁ」、と言いたい部分なのであろう。
東大建築学科での丹下の立場は建築ではなく都市計画の助教授であった。前川事務所から大学に戻ったのも都市計画を学ぶためで、大学での講義や演習もデザインをめぐるものではなかった。
そうして八束さんは丹下が当時提示したものを、歴史的に位置づけ、その意義を実証していく。またその時に、彼はレム・コールハースを幾度も持ち出す。レム・コールハース・・・今日、世界で最も影響力のある建築家にして建築理論家とされる人間。八束はじめは明らかに彼の影響を受け、それを隠しもしない。
丹下のみならずメタボリストのプロジェクトの背景は、すぐ後に論じるように日本の人口増加に伴う大都市への集中、端的には量の問題である。デザイン=質の問題には留まらない。この問題は、「作品」の提出ばかりに余念がない50年後の日本の建築家たち(及び建築ジャーナリズム)は触れようともしないが、依然現実としてわれわれの眼前にある。別掲のコールハースのシンガポール論が、ここを捉えているのはさすがというべきだ。この点でコールハースは日本の建築家よりも『日経ビジネス』のほうに関心を多く共有している・・・
現代の日本の建築家と建築ジャーナリズムに対する鋭い批判である。正直に言って、俺の問題意識と重なる部分はある。結論は相当に違いそうだが。
ちょっと話題を変えるが、ミースはコルビジェと違って、都市レベルの計画というものがない。敢えて言えば、IITのキャンパス計画が都市的と言えば言える。これにはミースを取り巻く人的な環境というものがあるように思える。忘れてはいけないのは、ミースにはバウハウス人脈というのがある。コルビジェは一人で建築家であり、都市計画家であり、時には画家という役割を演じたし、すべてを行うことで彼が目指す建築・都市・芸術の統一的世界が示されていた。すべてを自らが行うことで方向を示したコルビジェと異なり、ミースにはカンディンスキーもいたし、モホイ・ノディもいた。なによりも都市計画家としてのヒルベルザイマーが、常に彼の傍らにいた。ミースはその中で、自分の役割を規定していたのであろう。
ではあるが・・・、ここで一つの問いを提示しよう。今日の世界の都市を見るに、ミースの影響はコルビジェより小さい・・であろうか?
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