« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »

2008年5月25日 (日)

50 Years After 1960/丹下の再評価

八束はじめ氏の小論「50 Years After 1960」の1960とはどういう年なのかということについては、次のようにはっきりと書かれている。

「50 Years After 1960」と題されているのは、丹下健三の「東京計画1960」を出発点としているからである。

1960 八束さんはここで、都市計画家としての丹下健三やそれに続くメタボリスト(腹囲85センチ以上の建築家集団・・というのはウソ。大高正人や菊竹清訓、黒川紀章、槙文彦ら、丹下研究室出身者を中心に『成長と新陳代謝する都市』のアイデアを提示した建築家のこと)の仕事を再評価しようとしている。

建築家、丹下健三はコルビジェに影響を受けながらも、生まれ持った造形力によって、幾多の現代建築の傑作を生み出し、戦後の日本建築界に絶大なる影響を残した・・・というのが大方の認めるところで、丹下さんが都市計画的な構想を抱いていたというのはコルビジェなんかの影響だろうけど、「ほぅ、すごいこと考えていたんだね」、ぐらいの感想しか持てない。なにぶん、実現していないし、実現しそうもない案でもあり・・・。それゆえに丹下さんの都市計画については、藤森照信なんかも次のように総括する。

都市に関して、丹下の真骨頂はデザインにあり、リサーチにはなかった・・・

けれどもこの点こそ、八束はじめ氏が反論し、「お前らぜんぜん見えてないなぁ」、と言いたい部分なのであろう。

東大建築学科での丹下の立場は建築ではなく都市計画の助教授であった。前川事務所から大学に戻ったのも都市計画を学ぶためで、大学での講義や演習もデザインをめぐるものではなかった。

そうして八束さんは丹下が当時提示したものを、歴史的に位置づけ、その意義を実証していく。またその時に、彼はレム・コールハースを幾度も持ち出す。レム・コールハース・・・今日、世界で最も影響力のある建築家にして建築理論家とされる人間。八束はじめは明らかに彼の影響を受け、それを隠しもしない。

丹下のみならずメタボリストのプロジェクトの背景は、すぐ後に論じるように日本の人口増加に伴う大都市への集中、端的には量の問題である。デザイン=質の問題には留まらない。この問題は、「作品」の提出ばかりに余念がない50年後の日本の建築家たち(及び建築ジャーナリズム)は触れようともしないが、依然現実としてわれわれの眼前にある。別掲のコールハースのシンガポール論が、ここを捉えているのはさすがというべきだ。この点でコールハースは日本の建築家よりも『日経ビジネス』のほうに関心を多く共有している・・・

現代の日本の建築家と建築ジャーナリズムに対する鋭い批判である。正直に言って、俺の問題意識と重なる部分はある。結論は相当に違いそうだが。

ちょっと話題を変えるが、ミースはコルビジェと違って、都市レベルの計画というものがない。敢えて言えば、IITのキャンパス計画が都市的と言えば言える。これにはミースを取り巻く人的な環境というものがあるように思える。忘れてはいけないのは、ミースにはバウハウス人脈というのがある。コルビジェは一人で建築家であり、都市計画家であり、時には画家という役割を演じたし、すべてを行うことで彼が目指す建築・都市・芸術の統一的世界が示されていた。すべてを自らが行うことで方向を示したコルビジェと異なり、ミースにはカンディンスキーもいたし、モホイ・ノディもいた。なによりも都市計画家としてのヒルベルザイマーが、常に彼の傍らにいた。ミースはその中で、自分の役割を規定していたのであろう。

ではあるが・・・、ここで一つの問いを提示しよう。今日の世界の都市を見るに、ミースの影響はコルビジェより小さい・・であろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月18日 (日)

50 Years After 1960/八束はじめの立ち位置

八束はじめという建築家がいる。今は芝浦工業大学教授をやっているが、この人が雑誌「10+1」の最終号に「50 Years After 1960」という小論を寄稿している。これは俺にはかなり面白い記事であった。現代の建築論や都市論の流れの、それもかなり主流のところを手短に教えてくれる。俺自身の考えと近いところもあり、違うところもあるけれど、この論文を読みながら建築や都市について考えることは、間違いなく知的な楽しみとなるであろう。

八束はじめという人は、俺が学生の頃、いろんな建築のアイデアコンペでそこそこ入賞を果たしていた人だ。その意味では若い頃から知る人ぞ知るという人であり、また当時は東大の博士課程に在学中で、勘ぐるに、建築理論家として磯崎新の後を襲おうという野心は並々ならずあったのではないか。

まあしかし、建築家というのは、理論はともあれ、美的な才能はあるレベル以上持ち合わせていないとどうしても限界がある。八束さんの建築作品というのはいつもそういう限界を感じさせてしまう。頭は超いい人だ。だけども実作には人の心をつかむものが無い。

ま、人物評はこれぐらいで、50 Years After 1960 のことだが、八束はじめ氏はそういう自分の才能のことをかなり自覚しているのであろう・・・などと、読む方は少し「痛い」思いを感じながら読むことになる。だが、今この世界に起きている事に対する立ち位置は(一つの立場として)的確である。

昨年の正月に『日経ビジネス』誌が「もう止まらない 東京大膨張」と題する特集を行なった。建築界がコンパクト・シティとかシュリンキング・シティとかいっているのとは正反対である。・・・

・・・このビジネス誌のテーマはどうだ?ディベロッパーに色目を使うがごときものではないか?しかし、建築界の主流(?)のほうがより客観的に現実を見ており、後者(日経ビジネスの特集)は商業主義的に「誤った」ものだという根拠が本当にあるのかどうか?・・・

・・・つまり、私にとって(「正しい」ではなく)「面白い」テーマは「大膨張」都市であって、コンパクト・シティではない、とまず宣言しておく。

建築を論ずる時に、大膨張する都市-東京に限らず-を前にして、その功罪を挙げていたところでなんになろう。そんなこととは関わりなしに、経済活動として都市は変化し続ける。その事実から目を背けて、一つ一つの建築の「作品としての」出来不出来を論ずることの時代錯誤。八束氏は「面白い」テーマは膨張し続ける都市そのものである・・と言う。そのように自分の立ち位置を宣言する。

余談だが、日本の不動産業界のトップ、三井不動産とか三菱地所の社員の給与は、日本の建設業のトップ、鹿島とか清水建設とかよりかなり高い。下請け業者の給与はもちろんずっと低い。下請け業者の雇う日雇い労働者の年収は、不動産トップの会社の平均的社員の10分の1よりちょっとだけ多いという程度だろう。川上にいる者が川下にいる者を収奪しているという今の日本の構図は、悲しくもK.マルクスが130年前に指摘したとおりである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月11日 (日)

建築家・伊東豊雄のこと

気になってコピーしておいた雑誌のページがある。いい加減に捨てたいと思うのだが、せっかくコピーしたのだから、その時何を考えていたのか記しておこう。

日系アーキテクチュアの2007年9月10日号の記事、「PEOPLE FILE 011 伊東豊雄」、というのがコピーしておいたページだ。伊東豊雄さんというのは、素人よりも玄人、つまり建築家や建築評論家の間では評価が高い。安藤忠雄よりか・・か?そうだ、安藤忠雄よりだ。安藤忠雄は肉食動物のような臭いがするが、伊東豊雄は菜食主義者・・かどうかは知らないが、そういう雰囲気だ。頭は安藤よりよっぽど良さそうに見える。菜食主義者が肉食する者より頭が良いというデータは無い。鯨を食うやつは野蛮だ・・というのに根拠がないのと同じだ。

伊東豊雄は近頃では知性的建築家として磯崎新を凌ぐ。磯崎新が最近益々爺さん臭くなってきたからだ。人は誰しも、もう終わりの近いやつより、今まだ盛りの権威にすり寄るものだ。黒川紀章の例を挙げるまでもない。黒川が死んで、「とういうことは、磯さんも近いのでは」、などと不謹慎に考えたやつもかなりいるはずだ。その点、伊東さんはまだまだ元気だろう・・・一寸先は闇ではあるが。

僕が80年代から90年代にかけて興味を持ったことは、軽くて透明で、実体のない建築をつくることだった。社会的にもそうした流れにあった。だけど僕は今、現実だけに合わせるのではなく、『こうなったらいいな』という希望を込めたものをつくりたいと思うようになった

今や、巨匠の域に達しつつある伊東豊雄のこの言葉を、皆は真剣に聞いているのであろうか。「軽くて透明」であることにいかなる価値があったのか?・・・ストリップ劇場の踊り子嬢の衣装のことを意味していたのではないか・・・いや、それなら最初は透明でない方が良い・・・などという不謹慎な議論をしてはならない。「実体のない建築」というけれど、建物は建ったら最後、とてつもなく重いものである。軽い紙やプラ板で作った模型は、軽々と持てるけれど、これで実際に作ったら、同じように軽いはずだ・・・などと考えていたのなら、アホである。いやいや、伊東豊雄がアホのわけないだろう。かの東京大学建築学科卒業である。それで最近は「現実だけにあわせるのでなく、『こうなったらいいな』という希望をこめ」て建築するようにしているようだ。あの人、現実にあわせていたのか!?・・などとここへ来て驚くようでは何もわかっていない。いったい伊東豊雄の何を見ていたのだ。現実とは実体のない世界、色即是空、空即是色である。まことに(ほとんど死にかけの)深い境地におられた。

しかし我々俗人がこの境地に達するのは至難である。伊東氏もようやくそのことが分かられたのであろう。仙台メディアテーク以来の伊東氏の作品が、良し悪しは別にして、確かに変わったように思えるのは俺だけか?そこには伊東氏の「こうなったらいいな」が、込められているのである。我らは今こそ、伊東氏の教えるところをよく学ぶべきである。

これでやっと雑誌のコピーを一枚捨てることができる。捨てることで、また新しいものを拾えるというものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月10日 (土)

我が身体

一昨日のことだが、人間ドックを受けた。予想した通り、腰周り95センチを計測し、問診の医者から「どう思われます?」と聞かれたから、「立派な数字ですね」、と答えた。この医者はこの検診センターの専属で、女医である。毎年決まったように、「体重を減らす必要があります。毎日運動をしてください」と言う。ある時など、「ちょっとぐらい食べなくとも死にゃぁしませんから」、と言われた。しゃらくさい女である。

01 こっちだって何もしていない訳ではない。最近では休みの日の朝早く、自転車で和光市の樹林公園まででかけ、そこで柔軟体操とジョギングをするようにしている。さほど効果が出ていないのは冒頭の通りだ。

子供の頃、運動が苦手だった。体が小さかったこともあるのだが、小学校3、4年の頃から太りだして、6年生の頃は立派な「小太り少年」になっていた。体育の時間が内心は嫌で、ある時などドリブルを上手にできない俺を見て、「豚が饅頭を追いかけているみたいだ」と笑う友人がいた。それでもひがむことなく、そいつのことを許し、明るい好青年に育っていった。立派なものである。

水泳の北島康介なんかがテレビの画面に出てくると、男の俺でもその美しい肉体に感心する。休日の朝の運動を終え、家に帰ってシャワーを浴びながら、俺は自分の腹の脂肪を手でつまみ、彼と我との差を推し量る。「あぁ、この脂肪を取りたい!」でも、食べるのは止められない。ただ、運動した後のシャワーは気持ちよい。

樹林公園の森に佇み、俺は、木や草や、それらを顕わにしている光を見る。そしてそれを見ている自分を意識する。あぁ、こういうことか・・・と思う。こういうことかというのは、メルロ・ポンティの「眼と精神」の中に書かれていたようなことだ。

謎は、私の身体が<見るもの>であると同時に<見えるもの>だという点にある。・・・

見えるものであり、動かされるものである私の身体は、物の一つに数え入れられ、一つの物である。私の身体は世界の織目のなかに取り込まれており、その凝集力は物のそれなのだ。・・・

世界は、ほかならぬ身体という生地で仕立てられていることになるのだ。・・・

正確に言うなら、俺は建築というものが重要だと思ってはいない。ただ、人間というものが世界と関わるその関わり方の一つの方便として、建築という行為はその正統性を主張できるかもしれないとは思っている。

シャワーを浴びている時に俺の両手につままれている俺の脂肪は、しかし決して俺の身体から簡単に離れるつもりはないようだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 2日 (金)

北大古河記念講堂/洋風建築のこと

札幌に行く機会があった。1時間ほどの空き時間ができたので、急ぎ足で北大を訪ねた。薄れかけた記憶だが、大学の確か2回生の時に北海道を旅行し、こちらにも来たように思う。当時は建築学科の学生であるにもかかわらず、建物にはほとんど興味が無く、クラーク博士の銅像を見て、「よし、北大も制覇したぞ」とばかり、記念写真を撮って帰ったように思う。この度は北大のキャンパスに寄れるとは思っても見なかったので、下調べもせず、人から借りたデジカメを持ってキャンパスに突入したのである。下調べしていないのでどういう建物があるのか見当がつかない。01 おまけにここのキャンパスはやたら広い。1時間に満たない時間で、あてどもなく歩いていたのではそれ程の発見もできず、戦果が薄いのは当然なのだが、キャンパスに入る前から自分の頭には、「下見板張りの建物」を見たいという漠然としたイメージはあった。そういう意味では今回唯一つの戦果が「古河記念講堂」ということになる。

藤森照信著の「日本の近代建築」によれば、下見板張り、それも南京下見板張りの洋風建築は、明治初期に日本に移入され、日本のコロニアル風洋風建築の一つの源流となっている。しかもその重要なものの多くが札幌を中心とする北海道にある。それというのも明治の新政府が北海道の開拓を計画し、明治2年に北海道開拓使を設置するのだが、開拓の技術指南役としてアメリカから50名を超える開拓顧問団を札幌に迎えたことに端を発するからだ。これによってアメリカの開拓地で発達した木造技術がもたらされ、その技術とスタイルによって例えば有名な札幌農学校演武場(現札幌市時計台)が建てられたのだ。そしてこの南京下見板張りによる洋風建築はその後日本の各地で(時には擬洋風の建築へと形を変えながらも)建設され、日本人の頭の中には「洋館」の一つの典型的イメージとして定着していく。

02 古河講堂は明治42年の竣工で、この手の下見板張り建築として最も古い部類には属さない。設計も文部大臣官房建築課の技術者である新山平四郎が行ったのであり、当時すでにこのような木造洋風建築の技術が十分に日本人技術者のものとなっていたことを証明するのだろう。札幌時計台などはこれよりずっと前、明治11年の竣工で、設計はウィリアム・ホイラーというアメリカ人が行っている。ウィリアム・ホイラーというのは農業土木の技術者であり、札幌でのこういう下見板張りコロニアル建築について指導的役割を果たした人だ。ホイラーの活躍した頃から約30年後、日本人技術者は米国人技術者の指導無しに、独力でこの程度の建物を建てられるようになっていたということだ。

南京下見板張りの建物でもっと古いもの、建築史的に重要なものも北大の中にあるようだが、今回は見ることができなかった、というかとてもそこまでたどり着けなかった。北大のキャンパスは広い。ただ、雑然としている印象を受けた。敷地の広さに甘えて、夫々の建物(特に新しく建てられたもの)がだらしなく広がっているように見える。新しい建物はデザインレベルも低い。観光客も大勢来る有名大学なのに、残念なことだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »