我が身体
一昨日のことだが、人間ドックを受けた。予想した通り、腰周り95センチを計測し、問診の医者から「どう思われます?」と聞かれたから、「立派な数字ですね」、と答えた。この医者はこの検診センターの専属で、女医である。毎年決まったように、「体重を減らす必要があります。毎日運動をしてください」と言う。ある時など、「ちょっとぐらい食べなくとも死にゃぁしませんから」、と言われた。しゃらくさい女である。
こっちだって何もしていない訳ではない。最近では休みの日の朝早く、自転車で和光市の樹林公園まででかけ、そこで柔軟体操とジョギングをするようにしている。さほど効果が出ていないのは冒頭の通りだ。
子供の頃、運動が苦手だった。体が小さかったこともあるのだが、小学校3、4年の頃から太りだして、6年生の頃は立派な「小太り少年」になっていた。体育の時間が内心は嫌で、ある時などドリブルを上手にできない俺を見て、「豚が饅頭を追いかけているみたいだ」と笑う友人がいた。それでもひがむことなく、そいつのことを許し、明るい好青年に育っていった。立派なものである。
水泳の北島康介なんかがテレビの画面に出てくると、男の俺でもその美しい肉体に感心する。休日の朝の運動を終え、家に帰ってシャワーを浴びながら、俺は自分の腹の脂肪を手でつまみ、彼と我との差を推し量る。「あぁ、この脂肪を取りたい!」でも、食べるのは止められない。ただ、運動した後のシャワーは気持ちよい。
樹林公園の森に佇み、俺は、木や草や、それらを顕わにしている光を見る。そしてそれを見ている自分を意識する。あぁ、こういうことか・・・と思う。こういうことかというのは、メルロ・ポンティの「眼と精神」の中に書かれていたようなことだ。
謎は、私の身体が<見るもの>であると同時に<見えるもの>だという点にある。・・・
見えるものであり、動かされるものである私の身体は、物の一つに数え入れられ、一つの物である。私の身体は世界の織目のなかに取り込まれており、その凝集力は物のそれなのだ。・・・
世界は、ほかならぬ身体という生地で仕立てられていることになるのだ。・・・
正確に言うなら、俺は建築というものが重要だと思ってはいない。ただ、人間というものが世界と関わるその関わり方の一つの方便として、建築という行為はその正統性を主張できるかもしれないとは思っている。
シャワーを浴びている時に俺の両手につままれている俺の脂肪は、しかし決して俺の身体から簡単に離れるつもりはないようだ。
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