2008年6月22日 (日)

コクーンタワー/2008年西新宿

とある晴れた日のことである。俺は西新宿を何事もなく歩いていた。まったく油断していたと言えば油断していた。それは突然に俺の眼前に現れた。「な、な・・」と、俺はつぶやき、思わずあたりを見渡した。こんなものが・・大衆の目に堂々とさらされているのか。日本人もおおらかになったものだ・・いいやっ、羞恥心も地に落ちたものだ。俺の狼狽をよそに、皆何事もないかのごとく道を行く。

俺が大学に入って間もない頃、家族旅行をした。その時のことだが、どういうわけか親父が俺をとある秘宝館に誘った。自分一人で入るのが恥ずかしかったのか、それとも年頃の俺に親父なりの性教育を施そうとしたのか、よくわからないが、とにかくその秘宝館なるものに親父と二人で入った。色んな絵や写真もあったが、あれやあそこやに似た石や木の根っこなども展示してあった。そんなものに似ているのがどうというのか、俺にはさっぱり理解できなかった。しかし、そのような石や木が時には御神体になり、祭られたりすることもある。大概は安産や豊饒のご利益ありというふれ込みでだが。

02 この度の御神体、それは見事に天に向けそそり立っておる。それにまあ、これは書くのは憚られるが、書いておかぬと気づかない人もおるだろうから、羞恥心を捨てて書いておくと、この御神体はあれのように見えるだけではなく、あそこのようにも見えるのである。されば両性具有の御神体であったか・・・。

遥拝所と賽銭箱を設けるのなら、野村ビルの前辺りが良い。これほどの立派な御神体、日本の少子化にも歯止めがかかるかもしれん。はたして、東京モード学院はそこまで考えていたのか・・・立派だ。

惜しむらくは、足元に作られる予定の球体。何が入っているのか知らんが、一つじゃ足らんだろ。これは二つあるもんだ。

嫌いなのか?いや、好きだよ。けっこう好きな建物だ。ここまでやってくれるとね、面白いと思う。丹下健三亡き後、丹下事務所の最高ケッサクだ。丹下憲明よ、これで(血はつながっていないらしいが)父の丹下健三をやっと乗り越えた・・か。

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2008年3月 2日 (日)

小堀遠州/覚悟の上の綺麗

Photo 岡山県にある頼久寺の庭園は、小堀遠州の好みを凝縮していてすごく興味深い。実は1月のNHKの日曜美術館で紹介されるのを見るまで、俺もうっすらと知ってはいたのだが、これほどのものとは認識していなかった。岡山県に行く機会があれば是非訪れてみたい場所である。

遠州がこの庭園を構想したのは1614年、大阪冬の陣の頃で、彼が36歳の時であると伝えられる。遠州はもちろん武家の人であるから、戦にも出ており、つまり命のやりとりをしていた人である。そういう人が一方でこういう美の創出者、クリエーターだったというのが、この時期の日本文化の凄さである。俺の考えが間違っているかもしれないが、数寄などというこの時期の日本文化を表す言葉をそう軽々と捉えてはいけない。そのバックボーンには当時の日本の死生観、無常観、そしてそういうところを突き抜けたところに初めて現れるウィットというものが控えているように思う。室町から戦国を経て江戸初期の頃までの美術や建築こそが、日本文化を極めてユニークなもの、同じ儒教文化圏でも中国、朝鮮と異なったものにしているのだ。

頼久寺の庭園では植え込みを刈り、波を表現している。それはまあそういうことなのだろう。この植え込みの刈り方は、大刈り込みといわれる大胆な刈り方で、刈ることで幾何学的な造形を作り出す。小堀遠州はこれを好んで(というか、そもそもこういうのはこの人が始めたのではないか?)用いたのだが、このようなやり方は誰に学んだのだろうか?想像するに、当時、宣教師などを通じて西洋の庭園についての情報がいくらかは伝わっていたのではないか。ただ、小堀遠州の庭園は、西洋の庭園とは異なり、左右対称ということはあまりない。だから幾何学的なマスが自由に構成されている・・・という、非常に現代的な手法に近い。遠景には山が借景として取り入れられており、全体の印象は、まさに綺麗できっぱりしている。踏み石の構成も見ればいかにも遠州の好みで、切り出した石と、自然な形の石がまるで抽象画のように組み合わされている。あらためて見させられると、とても400年前の日本庭園とは思えない。計算された構成。知性を感じるとはこのことである。

Photo_2桂離宮の御輿寄せ前の庭を見てみると、ここには遠州の好みが色濃く出ていることが分かる。桂離宮古書院の造営は、頼久寺で遠州が作庭を行っていた時期に近い。もちろんこちらは親王の別邸であり、そこに使われる金も大きかったから、使う材料や手間は頼久寺の比ではなかっただろう。そして、この日本建築・庭園の至宝は八条宮智仁親王の指図によるものと、今日考えられているが、今回あらためて調べると、小堀遠州と八条宮智仁はなんと同い歳ではないか!

遠州と八条宮に交流があったのは確かだが、思うに、それは本当に趣味を同じくする者同士の心を許し合った交流だったのではないか。桂離宮の古書院を造営するに当たり、智仁親王は遠州から頼久寺庭園の造り方も聞いたことであろう。

一方、遠州の好みが綺麗なのは、こういう親王や公家との交わりの中で、遠州の先天的な美的才能が刺激を受けたからであろう。小堀遠州は武家の人である。いざとなれば命がけで敵と切り結ぶ、激烈な職業の人である。そういう人が公家文化と交わり、その華やかさ、明るさと接した時、この感性豊かな右脳はどのように反応したのか。その人の気持ちは推して知るべし。「わび、さび」という利休以来持ち上げられた美意識に、「綺麗」というものがもたらされ、綺麗できっぱりとしている、あるいは大胆であるが明るく軽く、色気のある小堀遠州の世界が、公家文化に接することで開かれていったのであろう。

小堀遠州についてはまだまだ書けるように思う。特に、八条宮との交流が本当のところどういうものであったのか、どのような友情があったのかについて、いろいろと思い巡らすこともできる。また遠州における自由な造形とその意味についも考えるところがある。しかし、今回、遠州について少しばかり書いていく中で、何故自分が小堀遠州に魅かれるのか分かったように思う。小堀遠州は愛すべきキザな人である。

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2008年2月17日 (日)

小堀遠州/綺麗キツハ

小堀遠州を論ずるのに、やはり当時の茶道の継承と変化のことを抜きにはできないと、この間、銀座松屋で開催された小堀遠州展によって学んだ。室町時代あたりから江戸初期にかけて、茶道が日本文化に果たした役割はとてつもなく大きい。建築のことで言うと、茶道以前の日本の空間は、宗教的なもの、仏教とか神道との関係において概ね説明できるように思うが、室町時代から戦乱を経て完成していく数寄の世界などの極めて日本的な空間的美意識の成立は、茶道を抜きにはあり得なかったのだろう。

01

銀座松屋の「小堀遠州 美の出会い展」で俺の目を引いたのはこの茶釜である。写真ではよくわからないだろうが、小ぶりの茶釜で、それがこのような釜の上を包丁ですっぱり水平に切ったような造形である。現代作家の手になるものである・・と言われても何の疑いも持つまい。それが400年も前の遠州好みと伝えられる釜なのだ。

「織理屈、綺麗キツハハ遠江、お姫宗和ニムサシ宗旦」と伝えられている。千利休は言うまでもなく茶の湯の大成者であり、秀吉より死を賜って自刃したことは皆知っていることだ。戦国の世とは言え、「死ね」と言われて「死にましょう」と、腹を切って死んだような人だから、その人が完成した茶の湯というものの本質は尋常ならざるものだ。利休においては茶の湯の空間と時間は、例えば妙喜庵待庵のような薄暗くて狭い部屋の中で、亭主によって茶が点てられ、客がそれをいただく一連の流れの中で、極めて非日常的な時間を共有することにあろうが、そこにある美学はただ美しいということではなく、土なら土、光なら光をそれそのものとして観照する態度であると思われる。

古田織部は千利休の高弟であって、利休の後継者としての自負もあったことだろう。しかし、一言で言えば偏屈の人だったらしい。織部焼きと称される織部好みの焼物は、形は歪み、模様もわざと下手で、まずは自然の形を最上としたらしい。ちなみに古田織部も大阪夏の陣の後、切腹を命じられる。だから織理屈である。

高森宗和はお姫様好みというから、女性的な感じがしたのだろう。よく知らないが・・・。ムサシ宗旦というのは、宮本武蔵みたいな宗旦か・・と、ふと思ったのだが、そんなわけあるはずもない。調べると、ムサシとは「むさくるしい」ということらしい。それぐらいに千宗旦は祖父である千利休の「わび」を推し進めたらしい。乞食宗旦とも呼ばれている。清貧を上とする人であった。

それで小堀遠州は大名であり小堀遠江守なのだが、この遠江守は綺麗キツハだという。綺麗は分かるが、キツハはどういう意味か。茶道史研究の熊倉功夫博士は「キツハは『ぎっぱ』で立派という意味であろう」と書いているのだが、先月のNHKの番組では「きっぱりしていることだろう」と解説していた。織部は理屈、宗和はお姫、宗旦はむさい・・・と評する中で、遠州は綺麗で立派とするのは、ちょっと凡庸な表現に思う。だから「綺麗できっぱりしている」とするNHKの解説が正しいと思う。当時から、小堀遠州の好みは「綺麗であり、きっぱりして、つまりシャープな印象を与えるもの」と認識されていたのだろう。小堀遠州にはとりわけ知性的なものを感じる。

今から晩飯の仕度をする。小堀遠州については、つづく・・・だ。

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2008年2月10日 (日)

朝飯そして天才舞踏家のこと

三連休の真中の日曜日である。会社の俺の部署の者達は、今日も何人かは仕事に出ているだろう。そのことが気がかりである。連日の長時間労働を続けなければこなせない仕事の量と期日。それにも関わらず、意外と低賃金の業界である。そういうことに俺は、怒りに近いような感情を持つ。そしてそう感じること自体がすでに俺のストレスの種になっている。

2008210 とは言うものの、俺自身はこの三日間は職場へ行かない。日曜日の今日も朝7時ごろまで寝ていた。普段は5時半の起床だから、7時に目覚めるのは俺にしては遅い目覚めだ。それから犬の散歩、犬の餌づくりなどをして、やっと自分の腹もすいてくるので自分の朝食をしたくする。日曜日などは家族もてんでばらばらに朝飯を食う。ほとんど一緒には食べない。

左の写真、青い皿の上に載っているのはキャベツのおひたしに鶏ささ身の酒蒸しのっけだ。俺がけっこうよく作るおかずで、昨日の夕食に作ったものの残りを盛った。黒胡椒を上からかけることで風味が良くなる。メインはビーフシチューでこれも昨日の残り。ビーフシチューはデミグラスソースから作る・・・というのは真っ赤な嘘で、もちろん市販のビーフシチューのルーを使う。ただ牛肉は近くのスーパーから豪州産のスネ肉を買ってきて、赤ワインで数時間煮る。これが柔らかくなって、しかしスネ肉のスジ状の感触が残り、肉食ってるぞー、という食感が良い。右上のヨーグルトは缶詰の桃の上にのっけている。ご飯は上に乾燥わかめを振ってある。富山の名産で、人からもらった。香ばしくてけっこううまい。左上のビンは、わかめの茎の佃煮で、上野のなんとかいう店のものだ。これも人からもらった。もらって言うのもなんだが、この店の佃煮はあまり美味しくない。俺から言わせると、味が工業生産品になっている。店の名前は有名なんだろう。だが店の名前だけで売っている感じがする。それで、デパートとかを通じてある程度売れるのだろう。しかし、俺のような食通の舌をごまかすことはできないよ・・・などとつぶやきながら、朝食をいただく。けっこう豪華でしょ。

昨夜のテレビでだが、またまたすごい人のことを知ったなぁ。ヤン・リーピンという中国少数民族出身の女性舞踏家だ。こういう人を真に天才と言うのだろう。インターネットで調べた。いくつかの動画もある。それだけでもかなり感動できる。3月の渋谷Bunkamura日本公演、行きたいと思ったが、どこを探してももうチケットは完売している。あぁ残念だ。

小堀遠州について書こうと思って、またも別のこと書いてしまったなぁ。やっぱり、ブログは第一義的には日記だからね。次回は必ず小堀遠州について書こうと思う。

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2008年1月31日 (木)

茂木健一郎から教わる建築の意味

建築学会の機関誌は「建築雑誌」という名前で、「そのまんまやんけっ!!」というつっこみを入れる人は俺を始めとして約10万人いる。その雑誌がどうもあまり面白くない、かつ役に立たないという議論も相当あるようで、最新の建築雑誌は建築雑誌のあり方云々を論ずる特集であったように記憶する。記憶するだけで確かめようが無い。なぜなら、役に立たないので捨てたからだ。

すぐに捨てることの多い建築雑誌だが(ところで、ここでの建築雑誌は建築の雑誌という一般名称のことではなく、建築学会が出している機関誌であるところの「建築雑誌」という建築の雑誌のことだ)、どういうわけか古いものが残っていることがある。2005年10月号の建築雑誌が出てきたので、ぱらぱらとページをめくっていたら、寄稿者の中に茂木健一郎の名前を見つけた。脳科学者としての茂木健一郎は最近随分有名になって、テレビでもよく見る文化人になったが、2005年当時はまだそれほどではなかったと思う。有名になった茂木健一郎だが、俺は彼の書いた本を読んだことが無いので、何をする人なのかいまいちよく分からない。だが、この度発見した建築雑誌の中で、彼はとても面白いことを書いてくれているので要約して書きとめておこう。

まず彼は、1972年にローマにあるシンクタンク「ローマクラブ」が「成長の限界」というレポートを発表して、大きな反響を呼び起こしたことから論を始める。資本主義社会において経済成長が無限に続くというシナリオは、地球の自然のキャパシティが有限であることに着目すれば、いずれその限界に至るという、極めて当然と思える結論を、そのことから目を背けている人間に突きつけたのがこの報告書である。しかし茂木は、人間社会がより高度に組織化される中で、この単純なマスとしての限界は乗り越えてきたと言う。ところが、近年、いわゆるIT(情報技術)がポスト工業化社会を誕生させ、情報、知識を扱うこと自体が経済活動の主要な目的になってきたこと、そしてITにはローマクラブが指摘したような制約はもともと存在しないと思われてきたことを紹介した上で、しかし限界は思わぬところから顕在化して来たと言うのだ。

それは、人間の脳の情報処理能力、容量の制約による限界である

・・・・・

今後、大容量のブロードバンドが普及し、テクストだけでなく好きな音楽、映像がインターネットをとおして容易に得られる時代が来たとしても、果たして私たちはそれを味わう時間と心の余裕を持つのだろうか。

・・・・・

現在の状況は、過剰なデジタル情報が人間の脳の有限の可処分時間、可処分注意を奪い合う、情報過剰の時代への突入を予感させるのである。

この指摘は、俺も何となく心の底にあった「IT社会への疑念」に符合するもので、「なるほどそうだよな」と肯かせるものである。我々は今や情報の洪水の中ですでに溺れており、快適というよりもむしろオーバーヒートする脳の機能不全に悩まされているのではないか。それを俺は「情報過多に起因する精神の故郷喪失」と呼びたい。そして茂木は「最後の1メートル」について述べる。

一生を終えるときに、「ああ、毎日メールをたくさん読んで、ネットサーフィンして、いい人生だった」と思うのと、「毎日庭で草花の手入れをしていい人生だった」と思うのの、どちらがよいか。ムーアの法則に従ってデジタル情報が爆発的に増大したとしても、それに人間が付き合う筋合いは毛頭ない。

2002年にノーベル経済学賞を受賞したカーネマンらの「行動経済学」の研究の過程において、人間は、必ずしも外部的に規定された経済的合理性に従って行動するとは限らないことが示された。・・・

・・・検索エンジンをはじめとするウェブ上のデジタル情報からのマイニング技術は、論理的操作の積み重ねによって、人間にとって価値のある情報をユーザーのパーソナル・コンピューター画面まで持ってくる。しかし、ユーザーの知覚品質までの「最後の1メートル」をどのように設計するかによって、その情報が最終的に人間のよりよき生き方に寄与するかどうかは大きく左右される。

知覚というものが人間による情報の受容であるとすると、確かに機械的に膨大な量の情報を発信できるかもしれないが、その受容の段階では人間の脳という極めて情動的で限界のあるスクリーニングを経ることになるのである。この一連の機械・人間システムの中から良くも悪くも「生きている人間」という古い概念を排除することなど、そもそもできないのではないか。建築の側に引き寄せて考えれば、「ITが建築に影響を与えて、建築そのものの概念を覆す」と考えるのは、あまりに能天気な思考だと思えるが、どうだろう。茂木の論を追おう。

もちろん、われわれはITなしでは、もはや生きていくことはできない。人間がITに合わせるのではなく、ITの側が人間に合わせるように進化することによって、ITの「成長の限界」を乗り越えることは可能なはずだ。

建築もまた、今やIT抜きで考えることは難しい。しかし、建築は本来、人間の為にあるのであり、ITの為に変容していかねばならない義理は無い。建築を考える出発点は依然として人間であり、人間以外にあり得ないということになる。変わらなければならないのはITの方であって、人間がITの側に擦り寄ってどうする。

茂木はここで、彼の専門の脳科学の知見から、人間の情報認識は「クオリア」と呼ばれるある質によって行われていると述べる。それは心理学あるいは認識論に通ずる議論であり、脳を研究することで、哲学的思考が科学的に裏付けられているように思える。

私たち人間の意識のなかでは、すべての情報はある質感を持った「クオリア」(qualia)として認識されている。それが、シンボリックな記号であれ、抽象的な数字であれ、あるいは赤や青といった色であれ、ある情報が意識のなかで、他と区別される形でユニークに把握されるとき、それはひとつのクオリアとして立ち上がるのである。

そして、脳の中でクオリアが生成されるメカニズムを考えると、一つの重要な性質が指摘される。それは「クオリアの非可算性」である。

例えば、「メロンを食べる」という体験は、メロンの「香り」、「甘み」、咀嚼し、飲み込むときの「テクスチャ」のクオリアをそれぞれ単独で味わったものの単純可算以上の新しい質感をもたらしている。

建築、あるいは空間を体験することは、このようなクオリアによる認識の特性によりうまく説明されるように思う。建築の最も重要な部分は、技法的に考えるならば、造形ではなく組み合わせの妙味である。

短い論文の結論部分で、茂木は建築の可能性について、脳科学者の立場からエールを送っている。それは極めて示唆的で、また建築に関わる者に勇気を与える。長くなるが引用する。

・・・空間は、並列性を展開することが本来的なメディアである。空間の設いをその本分とする建築が、人間に固有のクオリア体験を与えるうえで特権的な可能性を占めていることは言うまでもない。

・・・・・

IT全盛の現在だが、人間の体験の質という視点から見たITの限界はすでに今ここにある危機である。この踊り場を乗り越えることは、空間設いのアートとしての建築がITにすり寄ることではなく、ITの限界を建築をはじめとする人間の全体性を扱う知恵が、発展的に補足することで初めて可能になる。

人間の内なる自然に論理的、シンボル的な演算を持ち込むという意味での陳腐な「サイバー」を超えた地点に、ITと建築融合の真の可能性があるのである。

茂木健一郎か、・・見直した。

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2008年1月20日 (日)

小堀遠州/建築家

先週のことだが、松屋銀座店の催場で小堀遠州の展覧会をやっていたので足を運んだ。NHKの日曜美術館で紹介されたこともあるのだろう、大変な混みようである。なかでも中年以上の女性の数が多い。そうして、展示物を見ていると、「ああ、これこれ高取よっ。いい形ね」などと、小声で、しかもサラッと話しているオバサンの会話が聞こえてくる。負けた・・。高取焼きってそんなに有名?俺は正直知らんかった。こんな会話ができるオジサンがどれほど日本にいるであろう。日本の中年女性の文化度は相当に高い。

日本の女性の文化度の高さを支えているのは、いわゆるお稽古事のシステムだろう。確かめた訳ではないが、お稽古事をやる女性の数は同年代の男性よりはるかに多いと思われる。お稽古事というのは一種の教育システムであり、それによって日本の古典文化などを学んでいけるようになっている。茶道は総合芸術だろうから、これを学ぶ女性が、いつの間にか陶芸や書画の知識を広めて行くのは当たり前である。俺が「やられた」と思ったオバサン達も、おそらく茶道を学ぶ方なのであろう。女性は仕事に就いている年代でもお稽古をする。一般論だが、仕事で時間とエネルギーを使い切ってクタクタの男性と比べ、女性の方が余力を残し、お稽古事にその余力をつぎ込むことができるのであろう。そういうことを何十年も続けた後、平均的な男性は濡れ落ち葉になって行く。日本の文化を下支えしているのが、こういう小堀遠州の展覧会などに大挙して足を運ぶオバサン達であるというのは間違いないだろう。

01で、小堀遠州のことである。

俺が大徳寺孤篷庵の忘筌を始めて訪れたのは、もう30年ほど前のことになる。そしてそれ以来、一度も訪れていない。だいたい孤篷庵は普段は公開していないので、特別公開の時を狙うしかないのだが、勤め人にはそのために会社を休み、わざわざ京都へ行くのは難しい。そうして30年ほどが過ぎた。だが、この孤篷庵忘筌よりの庭の眺め。建築をかじったことのある人なら知らないとは言わせない。それほどに有名な茶室であり、庭園である。

明治より以前、日本には西洋の建築家といういう概念にあてはまる職業はなかったのではないかと言われるが、小堀遠州だけは建築家という呼称が当てはまるように思う。この人はもちろん大工棟梁ではない。だが、この人が関わった建物や庭は、遠州好みという独特の美意識に、しかも遠州以前と較べて独創性あふれる美意識に統べられている。遠州抜きには成立しなかったであろう空間なのである。そういう意味では千利休も建築家であったと言えるが、利休があくまで茶道という枠の中で、その道具立てとしての茶室の建設に関わったの対し、遠州は作事奉行として城や寺、そしてもちろん茶室の建設という、幅広い用途の建設に関わり、また相当に建設そのものの知識を持った技術者であったということから、建築家という呼称によりふさわしいと考えるのである。

桂離宮も小堀遠州の作であろう・・というのは50年ぐらい前の学説で、今日では施主である八条宮智仁親王が直接の指示を与えたとする。小堀遠州が大工や庭師を差配したという記録がついに出てこなかったからである。であれば、桂離宮という日本建築の最高峰を生み出した建築家は八条宮になるが、実際のところ、桂離宮というのはいわゆる遠州好みが色濃く現れていて、「遠州が全く関わっていなかった」と断ずることがむしろ不自然に思えるのである。少なくとも小堀遠州が八条宮に相当のアドバイスを与えたのではないか。こういうことは磯崎新も言っていて、また八条宮と小堀遠州のつきあいがあったことは証拠もあることである。だから、やはり桂離宮造営における建築家としての一番重要な役割、つまり構想し、最も重要な細部について指示するという部分は、小堀遠州がたとえ口頭であれ八条宮智仁親王に伝えたことなのではないか・・と、俺も思うのである。

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2008年1月 6日 (日)

2008年1月6日ようやく

年が明けて、今日が今年の最初の日曜日である。昨夜遅く、年賀状をいただいた方の内、こちらが年賀状を出していない方への年賀状20数枚をポストに入れた。これでだいたいこの正月の年賀状戦線は終結したはずである。深夜の街は交通量も少ない。一仕事終えた気持ちで、歩きながら深呼吸を繰り返した。年末から正月にかけて、毎日やらなければならない用事がある。ブログの方はしばらく手が付けられなかったなぁ。

2007_001この正月も京都に帰った。その証拠に写真を一つ載せておくことにする。大晦日の錦市場だ。錦市場と言えば、日本でも最もはやっている商店街ということになる。この写真は御幸町通りから撮ったもので、錦市場の東の入口になる。この中へ入って行くと大変な人出で、まさにイモを洗う状態になる。ここへは正月に使う鰹節を買いに来た。小ぶりなものを選んで買ったが、一本2520円もした。錦市場はちょっと値段高めだ。これは錦市場というブランド料らしい。はやらない商店街からすれば、実にうらやましい話であろう。2007_003

もう一枚の写真はそこで売っていた白みそを撮っている。京都では正月は白みそ雑煮を食べる。味噌の味が決め手で、だから味噌がミソなのだ。良い白みそを使った雑煮は実に美味いもので、京都の雑煮がやっぱり俺には一番美味い。これを手前味噌と言う。

慌ただしい帰省であった。1月3日にはこちらに戻って来た。家族4人と1匹なので車で移動する。それが一番安いからだが、運転手を務める俺は、目一杯疲れる。3日の日は神奈川まで戻ってから、大きな事故渋滞に巻き込まれた。たった20キロを抜けるのに2時間以上もかかった。途中でも渋滞に会ったから、京都の家を出て、埼玉の俺の家に帰り着くのに都合12時間かかったのだ。途中休憩も入れてだが・・・。調子よく走れる時は7時間ぐらいだ。今回は疲れた。だから今、こうしてブログ記事を書いているのは、本当に「ようやく」という感じなのだよ。

さて、次回からまた少し建築について論考しようと思う。今日のNHKの日曜美術館という番組で小堀遠州のことを取り上げていた。小堀遠州。実にすごい建築家にして造園家、かつ先進的茶人にして有能な官吏(作事奉行)である。この人の残したものをテレビで見ていたら、建築における自由についてもう少し書いておきたくなった。つまり建築は自由である・・ということについてである。

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2007年11月18日 (日)

吉田鉄郎の建築

先週のことだが、姉が大学の同窓会やなんやかやで東京に出てきた。日曜の夜には京都に帰るということで、帰る日の夕方に少し早い晩飯を丸の内のあたりで一緒に食べることにした。この頃は陽も早く沈むので、5時前にはもうすっかり夕刻の雰囲気だ。夕暮れの丸の内を少しの時間だが眺めまわした。この辺りはここ10年ぐらいで随分変わって、現代的なビルが林立する情景になっている。常日頃、俺は新しい開発を批判しがちなんだけど、丸の内周辺のこの変化は嫌いではない。東京の表玄関としての丸の内は、なかなか良くなってきたと正直思っている。これで東京駅の姿が建築当初の形を復元できれば、世界の他の大都市の表玄関と較べても、けっこう良い線行っているのじゃないかと思う。

Photo_2 昔の逓信省営繕部は今のNTTファシリティーズの源流になる組織で、山田守や岩元禄などの優秀な建築家を擁した名門である。吉田鉄郎もそうした建築家の一人で、東京駅のそばにある東京中央郵便局はその代表作といわれる。

この東京中央郵便局が取り壊されるかもしれないという話がある。建築学会などを中心に、保存の要望が出ているようだ。これについては、「残せるものなら残した方が良い」というのが俺の気持ちだ。どうしても残さねばならない・・・という程ではない。東京生まれの人間でないのでよく分からんのだが、これが無いと丸の内という場所のアイデンティティが損なわれるという・・・そういうことは無いんではないかと感じている。建築や都市に関係が無い人達もだいたいそういう意見なのではないだろうか。

建築の作品としてこれが名建築と言えるのか?・・・についても、正直、評価が難しいと思う。1931年に完成し、かのブルーノ・タウトがモダニズムの傑作と称えた・・というのだが、どうなんだろうね。このブログでは、自分の感覚でしか物を見ないことにしている。誰が何と言おうと、ピンと来ないものはピンと来ない。確かに悪くはないけれど、世界に目を転ずれば、1930年にはコルビジェ設計のサヴォア邸が完成し、1933年にはアルヴァ・アアルト設計のパイミオのサナトリウムがその美しい姿を現している。Cpscott この東京中央郵便局と同様のシンプルなグリッドによるファサード表現は、ルイス・サリヴァン設計の百貨店カーソン・ピリー・スコットに見られ、しかもどう見てもこちらの方が完成度が高い。カーソン・ピリー・スコットの完成年は1904年だ。

結局、当時の日本の近代建築のレベルはその程度だったのじゃないか・・・と思うんだ。ブルーノ・タウトが「モダニズムの傑作」と評したというのは、日本を案内してくれた吉田鉄郎に対する多分に社交辞令的なものだったのではないか・・・と疑えば疑える。

だから壊してよいとは思わない。この東京中央郵便局の建物が、丸の内という場所の記憶に重要な位置を占めているのなら、それはやはり保存の道をさぐるべきだとは思っている。

Photo

京都にも吉田鉄郎の作品がいくつか残っている。京都中央電話局上京分局は1924年の完成で、東京中央郵便局より古い。こちらは「カーニバル・タイムズ」という名前で、レストランおよび結婚式場として改修利用されている。中には入ったことないが、外を見る限り、鴨川にかかる橋のたもとに堂々とした存在感を示している。これは残したい。

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2007年10月13日 (土)

楳図かずお勝ったどぉ

10月13日土曜の朝の新聞を丹念に読んだ。幾つかの記事について書きとめておこう。

黒川紀章が亡くなった。年齢は73歳だから、今時の平均から言えばまだ若いだろう。この人のことはまた時間のあるときに書こう。妻である若尾文子との最期の会話は、ちょっと感動もの。

漫画家の楳図かずお邸の建設差し止め請求に対して、東京地裁が結論を出した。近隣住民2人による訴えは却下されたのである。近隣住民2人は、計画の建物外壁を赤と白のストライプで塗るなどの「奇矯な」デザインは景観破壊であるとし、耐えられないと訴えたのだが、裁判所は、そんなもんは個人の自由なので、法でその自由を縛ることはできないと、我ら民主国家として当然の結論を下したわけである。人のやることにいちいち口出しをする近所のババア二人も、この国における自由を尊重する気風を深く学び取ったことであろう。第一、楳図かずお氏が計画しているこの家は、彼の作品なのである。何が作品かって?作品というからには、「作られた品」のことだから・・・まさか、芸術作品のことだとかってに思い込んではいないだろうな。要するに、この国ではどんなものを作ろうと作品であるから、それを近所のババア二人ごときに阻止されるいわれは無い。

今朝は愛犬キャロを連れて散歩に出、道端の芝生の上にウンコをさせた。太さと言い、艶と言い、みごとなウンコである。この小さな犬がかくも立派なウンコをするのは、飼い主である俺が愛情を注いで餌を食わせているからだ。してみればこのウンコは俺の作品である。そのまま道端に残してみんなに見てもらうことにした。見たく無いって?なんて失礼な。だったら見ないようにしろ。これは私の「作品」であって、表現の自由はユ・ズ・レ・ナ・イ。

Hal 筑波大学教授の山海嘉之さんが開発したHAL。人が装着することで、筋肉を補助する。重いものを軽々と持ち上げられるので、介助の現場などでの利用が期待されている。こういう人と機械と情報技術を融合するテクノロジーを「サイバニクス」と呼ぶ。覚えとこぅ。以前にテレビで紹介されているのを見て、「面白いなぁ」と、思っていたのだが、山海さんはこの技術を実用化するため、ベンチャー企業「サイバーダイン」を立ち上げている。大和ハウス工業が主な出資者だそうだ。良いとこに目をつけてるよ。さすがだ。

山海教授の言葉。「サイバニクスを思索していたころから、一本、筋を通したのは人を支援する技術という、その一点だけ」。学ぶべし。

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2007年9月 2日 (日)

楳図かずおの家/建築における自由

特段の理由も無く気持ちが沈んで、何もやる気がなくなる時がある。それも休日にそうなることが多い。忙しい日が続いた後にそうなりやすいようだ。愚痴になるけれど、忙しいのは大概つまらない(と言ったら怒られるかもしれない)雑用のせいだ。盆明けからこの2週間ほど、建築業界の某協会から来ている複数のアンケートに回答することや、前期の(7月から新しい事業年度に入っている)支店の受注に関するデータを集計すること、あるいは部下に人事評価のための目標を立てさせる・・という、この時期に特有の仕事が普段の仕事に加わった。業界のアンケートの回答を8月31日、締め切りぎりぎりに送付した後、何とも言えぬ虚しい気持ちになった。その気持ちを引きずったまま土日に入った。

Photo その土曜の朝の新聞で漫画家・楳図かずお氏が建てようとしている家についての記事を読んだ。近隣の人達が建築中止の仮処分を東京地裁に求めているその家は、外壁を赤と白の横ストライプに塗る計画である。楳図かずお氏は普段から赤と白の縞柄のシャツを着たりしており、それを彼のトレードマークのようにしている。その色の組み合わせが好きなんだそうだ。建設予定地の近隣の人々は、その外壁の計画に対して、「乱痴気」であり「身の毛もよだつ」建物であり耐えられない・・と、訴えているのである。楳図氏はそれに対して、「家は作品」であって「あんまり普通すぎても世間への貢献にならない。表現の自由は譲れない・・」と話しているということだ。この記事を読んで、俺はしばらく考え、二人の人物の言説を思い出した。一人はアレックス・カーであり、もう一人は妹島和世である。

アレックス・カーは俺より少し年上の日本に在住する米国人で、「美しき日本の残像」や「犬と鬼」という著作で知られている。「犬と鬼」の方は俺もこれから読もうとしているところだが、「美しき日本の残像」の方は先ごろ読み終えた。あまりにも美を価値の上位に置きすぎているのではないか・・と思えるところもあるが、大体においては俺が相当若い頃から抱いていた日本の景観に対する評価を、外国人の目から見てもそうであったかと裏付けている。要するに日本の景観は都市も、農村も、いや京都ですらもはや美しくはなく、むしろ醜さに拍車をかけている・・という事実の指摘だ。一例を引用しよう。

京都と奈良を色々と遊び回りましたが、それは目の前で破壊されつつあります。特に京都の場合、その破壊は凄まじいものであって、「今の日本人は昔の美に対して何らかの恨みを持っているのではないか」と思えるようになりました。

右の話のつまるところは、日本の自然と日本の伝統文化はもう駄目だという結論です。

もう駄目だと言われても、我々日本人はここに住み続けるしかない。確かに諸外国を訪れてみて、日本に目を向けると、日本人は実に色んな実用的理由をつけて、貴重な景観を破壊していることに気が付く。便利であること・・は大事だけれど、例えば赤ん坊を育てる時にロボットが授乳してくれるのならば、それを買って赤ん坊のそばに置くのだろうか?戦後の日本では美しいことはいつも無駄であり、金をかけてまで守るべき価値ではないのだろう。俺には人が生きる場所に対する愛情の不足と思えるが。

それから、表現の自由は守らなければならない・・という言説は本当に正しいのだろうか?便利であること、表現が自由であること・・これらを理由に、日本の景観はどれだけ情けなく毀損されてきただろう。建築家はどれだけそのような景観破壊に手を貸してきただろう。表現の自由のために。もういい加減に気が付かなければならない時期なのだが・・・。

妹島和世の名を出すのは、彼女が唯一悪いからではない。彼女は正直言って、我々世代の建築家の中ではやはり、稀有の感覚(あえて才能と言わない)を持った人である。ここで彼女の名を出すのは、先日何かの記事で、彼女が「『建築は自由である』ということを伝えるのが自分の建築の目的」だと考えているらしい・・ことを読んだからである。はたして建築は自由なのだろうか。「建築は自由である」という言葉はとても英雄的に響き、ほとんど反論できないほどである。だけれども疑わなければならない・・と俺は思う。もしそれが正しいのなら、それは楳図氏の言う「表現の自由」と、理論上どこがどのように違っているのだろうか。俺には分からぬ。

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2007年4月 1日 (日)

水飲み場のデザインから

このブログでは今まで、自分が設計に関わったものを題材にして来なかった。たいしたものを作ったという自負が無い・・・のも理由だが、自分のことを語る気恥ずかしさというのがいずれにせよある。しかし、これからは少しずつ自分がやってきた仕事も取り上げてみようと思っている。心境の変化というやつかな。

Photo_4

この水飲み場は、まぎれもなく俺のデザインだ。こういうのを俺がやったということを知っている人は、俺を良く知っている人の中でも少ない。今から15年以上も前にスケッチをチョロッと描き、それを建設現場の施工担当の誰かに手渡した。世間ではまだポストモダンのデザイン傾向が名残をとどめている頃で、どちらかというとモダニストだと自分を思っている俺にも、なんとなくそういうのが出ている。

どうしてこういう水飲み場の設計をやったかというと、当時、俺は大きな建物の建設現場で設計監理をしていた。その建物の敷地の一角には提供公園というのがあり、そこにはどういう訳か水飲み場が必要なのである。それで最初は、付き合いのある設計事務所に公園のデザインごとさせたのだけれど、水飲み場のデザインだけは陳腐で気に入らなかった。それで、いざ作るという段になって、自分でスケッチしたのである。そうして出来上がったのが写真のものだが、始めて見た時はがっかりした。自分の意図した通りに作られていない。だいたいの形は、そりゃ合っているよ。しかし、ディテールが全然駄目でね。しかし、スケッチを渡したきり、製作図も見て無かったから・・・というか、いつ図面が出てくるのだろうと思っていたら、いきなり「出来ました」って、そりゃないよね。でも当時は若くて、文句も言えず、そのままその場に置かれて15年以上が経つ。その当時も今もあまり使われている様子は無い。

少しだけ作品解説しておくと、これは幼い、そう2~3歳の子供に水を飲ませている親子の姿をイメージしているの。そういう子供はね、抱きかかえて水を飲ませるでしょ。それは子供としても不満だと思ったわけ。それで足を載せられる段を作った。そう思って、この写真を見てもらうと、水を飲む幼子と、それを支えている父親の姿が見えて来るでしょ。当時、俺にもやはりそういう幼い娘がいた。今はそれが大学生になっているけどね。

昨日の朝日新聞 be on Saturday に、アートディレクター佐藤可士和が取り上げられていた。今、注目の人らしい。単なる工業デザイナーやイラストレーターといった枠に入らないということで、楽天やユニクロのCI(会社の個性を造り出すこと)を任されている。最近では黒川紀章がやった国立新美術館のロゴマークもこの人の作だそうだ。歳は俺より10歳以上も若い。しかし、昨日のインタビュー記事を読んで、学ぶところがある。一つ引用しておく。

-そんなにアウトプットを続けて、アイデアが枯れたり疲れたりしませんか。

佐藤 その不安はまったくありませんね。僕の仕事は、相手から答えを引き出すことだから。

彼の父親は建築家だそうである。それも、俺の記憶に間違いなければ、某大手設計事務所に所属する人である。佐藤可士和は子供の頃、その父親の影響を受けて絵が好きになったということである。引用した彼の発言、そのまま建築の仕事に当てはまると思うのだが。

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2007年3月31日 (土)

黒川紀章の作品二つ

都知事選が近づいているが、黒川紀章の当選の目は無いようだ。だけれど、建築家・黒川紀章と言ったって若い人の中には知らない人も多かったみたいだが、今回の出馬ですっかり知名度が向上したらしい。それが最初から目的だったのなら、見事な読みである。国立新美術館がオープンして間もない。なかなか評判が良い。俺も黒川さんの作品の中では最も良い部類だと思っている。都知事選のことでもマスコミに取り上げられ、まさに相乗効果を生んだことになろう。これでまた新しい大仕事につながれば、都知事選出馬のかいがあったと言うものだ。

建築家の悲しいのは、設計料という形でしか収入が無いことだ。どういうことかというと、小説家なら原稿を書いて本を出版すれば、売れ行きに応じて印税が入る。歌だってカラオケで歌ってもらうと、作曲家や作詞家には著作権のある限り、使用料みたいなのが入る仕組みだ。しかし建築家の方は、設計した建物がどんなに評判を取ろうと、何千人、何万人の人がその建物を使おうと、入る収入は設計時に契約で決めた設計料だけである。しかも設計やその監理というのはものすごい労力と時間を費やす仕事で、まあ、著名建築家・黒川紀章といえども、仕事が無くなれば明日から所員を養うことはできない。設計事務所はだいたい自転車操業である。

01_8俺の下の娘は美術系の高校に通っている。埼玉の美術系の高校の作品展が埼玉県立近代美術館であったので、先日、見に行ってきた。この美術館は黒川紀章建築都市設計事務所の設計である。

ウーン、どうだかね。前にも入ったことあるのだけれど、今回も「オーッ、美しい」という感じはなかった。どうということない建物だね。同時代に磯崎新の群馬県立美術館があるだろ。そういうのの影響を受けてるのは否定できないのじゃないか?あまり調べないで言うのだけれど・・・。

Photo_3数日前に沖縄へ行った。ほとんど興味は無いのだが、今回は沖縄県庁の写真を撮った。車で通りかかったので、車中からなのだけれどね。以前には中に入ったことがある。建築家として何が言いたいのか?さっぱり解からない建物であった。黒川紀章に本当に後世の批判に耐えられるだけの建築の才能があるのか?疑問に思った建物である。

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2007年1月13日 (土)

福井県の建築/福井県立図書館

Fukuitosho01_1福井県立図書館は槙総合計画事務所の設計だ。年末に福井に行く機会があり、連れて行ってくれる人があったので訪ねた。福井市の街中にあるのではなく随分郊外にあって、ちょっと不便な場所にあるように思った。

何枚か写真を撮ったが帰ってみてみると、あまり良いのが無い。この写真は建築よりもランドスケープを撮っている。この写真を撮っている時、北欧の建築家、グンナール・アスプルンドの名作、「森の墓地」を思い出していた。槙文彦さんはもちろんグンナール・アスプルンドの影響を受けていると思う。福井県立図書館のランドスケープデザインは槙さんが直接構想したのかどうかわからないが、こうしてもらいたいぐらいの意向はランドスケープデザイナーに伝えたんじゃないかな。

Asplund01ただアスプルンドの「森の墓地」(世界遺産でもある)の方がスケールが大きく、福井県立図書館はそこまでのすばらしさを獲得できていないが、これから木が育てば相当なものになると見た。

ところで、アスプルンドは俺が本当に好きな建築家だ。ミースも好き、カーンも好き、コルビジェも尊敬する、バラガンも素敵。でも今一人だけ挙げるのなら、アスプルンド。

建築は最後は詩作だと思う。

福井県立図書館は槙総合計画事務所らしいデザインでかなり良いのだが、こういう手馴れたデザインにこちらもちょっと飽きているところがある。うなるほどの感動は正直無かった。この図書館についてももう少し感想を書きたいが、また次の機会にする。それにしても、槙文彦は仮にもプリッカー賞受賞の世界的建築家だ。その彼がデザインしたことを、この図書館のどこにも(少なくとも目につくところには)記してなかった。日本では建築家の扱いはこの程度だということが悲しい。

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2006年12月 2日 (土)

12月になったということで

ここんとこ、ブログ記事を書く気がおきなくて、間が空いてしまった。このブログは部分的には俺の日記であり、部分的には公開している随筆みたいなものである。題材はある程度限定していて、日々の生活や社会で起きている事件に関する雑感、建築や街のこと、食い物のこと、犬のことなどであり、あまりにプライベートなこと、自分の人格を疑われるようなことは書かないようにしている。というか書けない。なぜなら、このブログを読んでいる人の中には俺のことを知っている人もいるからだ。で、全く誰にも知られないブログを別に設け、それこそ知っている人にはとても言えないようなことを書こうか・・・とも思ったりする。ただ、それに取られる時間ももったいないような気がするので、今は思案中だ。

さてさて、ひさしぶりのブログはあたり障りのない事から書こう。

12月になった。早いものである。今朝の新聞に新しく芸術院会員になる方達の名前が、そう大きくではないが報じられていた。選ばれた6名の中に古谷蒼韻(ふるたにそういん)先生の名前を見つけ、懐かしい気持ちになった。実は俺は小学校の3,4年の頃から中学生のいつ頃かまで、この先生に書道を習っていた。俺だけではなく、俺の姉、妹もこの先生に期間の長い短いはあれ書を習ったのである。しかし、子供にとって、書を書くということは退屈なことである。それゆえに、そろそろ受験に備えなければならないので・・という理由で辞めたのであるが、本当は毎週毎週けっこう時間をかけて習いに行くのが面倒だったのだ。

中学の書道の授業でのことだが、俺の書いた書を見て先生の方が良い字だと感心し、書道の師である古谷先生の名を俺から聞き出した。自分も古谷先生に教わりたい・・・とのことである。その女教師がその後、本当に古谷先生の門をたたいたかどうかは知らない。古谷先生の教える書は、文部省の定める書道教科書に載っているような字とは確かに味わいの違う字であった。俺は惜しいことをしたのかもしれない。

その道の一流に師事することは一つの幸運であろう。

Gion03

ブログに絵がないとつまらないと思い、写真一枚載せておく。祇園の一力だ。逆光で撮ったあまり良くない写真だが。

一力はその昔、主人の名を万屋何某と言い、万という字をしゃれて一力と呼んだのが、一力という名の由来だと聞く。耳学問であり、真偽のほどは確かめぬままだよ。ガセかも。

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2006年11月11日 (土)

太田光と中沢新一

爆笑問題の太田光を嫌う人は結構多いらしい。俺も実は多少の不快感無しに彼を見ることができないでいる。「憲法九条を世界遺産に」という新書本を書店で手に取り、その議論に引き込まれるところがあったので、そのまま購入し読んだ。宗教学者の中沢新一との対談を中心とした本だ。憲法九条のことは俺自身考えるところもあるが、それはさておき、何故、俺が太田光に対して不快感を感じるのかな・・ということを、この度は考えてみた。

一言で言うと、狂気である。太田の中にある狂気。電車の中に時々いるでしょ、あきらかに普通じゃないやつ。近寄らんほうがええな・・というやつである。この太田の持つ狂気のことは、「憲法九条を世界遺産に」の中で、太田自身ほとんど白状してしまっている。

九条を守る。特別な国であり続ける。という思考をする時に、私の中に確かに”恍惚”がある。

狂気が許されるのは芸術の世界ぐらいかな。芸術についてはね、俺も感動したいと思う。それはエクスタシーよ、恍惚よ。しかし、政治の世界に感動は要らない・・というのが俺の考え方なの・・・。そういう意味では安倍晋三にも期待してない。「うつくしい国を目指す」などと臆面もなく言う人間に期待してはいない。爆笑問題の太田がちょっと危ない眼をしながらシュールなボケをかますのは良い。笑えるね。でもその同じ眼でね、平和とか政治の話をしだすと、ちょっとね、引く。太田光はね、小泉さんのことも随分批判してたのだけど、彼は他ならぬ小泉さんに近い部分がある。ただ小泉純一郎には愛嬌があるのだが、太田光にはそれが無い、もしくは少ない。そりゃ太田光の負けだよ。

中沢新一は麻原彰晃に騙された宗教学者ということで、評判を下げた人だ。父親、祖父、そして叔父も学者という一家に育った。そこから想像される通りの頭の良さと(思考の)ひ弱さを併せ持った人物だと思われる。

狂気についてはこう思う。右へ行こうが、左へ行こうが、真中を突き進もうが、狂気へ至ればそのどの方向であろうと、薄壁一枚で隣り合っている・・・と。

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2006年10月21日 (土)

黒川紀章について

Shinkokuritu01黒川紀章の最新作ということになるのかなあ。新国立美術館を見る機会があった。これまだオープンしてないのだよね。この日は黒川さん自身による解説付きだった。

俺達の世代にとって、黒川紀章という建築家は特別な意味があるのではないかな。自分が高校時代に名前を知っていた建築家というのは、丹下健三とこの黒川紀章の二人しかいない。コルビジェやミースはおろか、村野藤吾や磯崎新も大学に入って、それも3回生ぐらいになるまで知らなかったな。黒川紀章がいなかったら俺は建築の道に入らなかっただろうという気がする。世の中に建築家という職業があるということを知ったのは、受験時代に買った受験雑誌に彼のことが載っていたからだ。当時の黒川さんはカッコよかった・・・ように見えた。・・で、高校1年の頃は電気エンジニアになり、ソニーに入るつもりだったのに(何故ソニーだったのか?)、建築学科に志望を変えた。俺の同世代にはそういう人が多いはずだ。

Shinkokuritu02それにも関わらず、黒川紀章という建築家を好きと言う人を寡聞にして聞かない。実は俺もそうだ。しかし、今回の新国立美術館は作品としてかなり良い・・と、俺は思う。72歳か。いつの間にか歳とったね。爺さんだろ、普通。でもこの人、愛嬌あるよね、ある種の。田村正和に感じるような漫画的なカッコよさね。この度、黒川さんの語りを聞いてそう思った。

空間を二つの軸で分類してみよう。一つの軸は「秩序-混沌」。もう一つの軸は「均質-偏在」である。言うまでもなく、ミース後期の作品は秩序・均質の空間。カーンは秩序・偏在かな。東京という街は混沌・均質。混沌・偏在となるのは宇宙・・ということでどぉ?

最近の流行はね、混沌・均質だったの。それが新しい建築空間ということらしい。見てごらん、この頃の建築雑誌を。斬新、新鮮と評価されているのはだいたいそういう傾向だから。ところが今回の黒川さんの新作は、どうも秩序・偏在らしい。カーンに近い。そう言えば、かなり前だが、黒川さんがカーンへのシンパシーを吐露してたことがあったな。20年以上も前のことだが。

ついでに言うと、建築デザインの前衛での傾向も最近微妙に変わってきている。混沌・偏在に向かいつつあるのじゃないかな。

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2006年9月 9日 (土)

大隈講堂-追記

Okumakodo06早稲田大学大隈講堂は大学の正門の外にある。また、大隈重信像のある大学構内メインストリートの軸線上にはあるが、角度が振られている。写真のように構内から見ると少し斜めを向いている。これは早大通りに沿う向きに講堂が配置されたからだが、その結果、安田講堂や京大時計台と大変違った印象を与えることになる。威厳のようなものはやはりあるけれど、強圧的な権威主義からは免れている。

Okumakodo07大学の正門を出ると、この斜めに配置された講堂前に広場があり、学生達が楽器の練習をしていたり、カップルが散歩していたりする。とても豊かで、落ち着いた都市の景観だと思う。

建物の姿の良さは説明不要だろう。また、ディテールの良さも百聞は一見に如かずだから、ここに二枚だけ写真を掲げておく。

Okumakodo08

細部まで丁寧にデザインされているのだが、素材の扱い、組み合わせなど学ぶべきところが多い。

正面のアーチは正確なゴシックのようではないのだが、わずかに尖塔アーチになっている。スクラッチタイルと石との取り合いには現代的なものを感じる。アーチの形状そのものは美しいとすなおに思う。

タイルの目地は深目地ではなく、斜め目地となっている。建て目地は小さくとってあり、したがって横方向が強調されていることになる。機能的な意味でこうなったのか、それとも美的な理由なのかはわからない。多分その両方の意味があるのだろう。

ここに最後に掲げる写真は、建物の目立たぬ場所にある窓である。このような窓が、脇役でありながら、しっかりとしたディテールを持っていることに、この建物の質の高さを感じるのである。

Okumakodo09

大隈講堂は大正時代初期において建てられた名建築である。この後も永く伝えていくべき文化財なのだ。そのように俺は思っている。

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2006年2月26日 (日)

荒川静香と建築

荒川静香から建築の話に結びつけようというのは、普通に考えるとかなり強引な話なのだけれど、実際俺はそのことを考えてしまったので、素直に記事に残しておこうと思う。

一昨日、荒川静香が金メダルを取って以来、テレビでもあちらこちらでこの話題を取り上げている。彼女が金メダルを決めた演技を始める頃、俺は朝飯の途中であった。いよいよ荒川選手が演技するというので、テレビの前に座りなおし最初から最後まで見せてもらった。後に、「会場にいただれもが荒川の勝利を確信した」と報道されたが、俺もこの時の荒川の演技には内心、「これは行けたんじゃないか」と思った。いや、フィギアスケートのことはよくわからないのだけれど、あの時の荒川の演技は神がかっていたように思う。その神は、勝利の女神だったのか美の女神だったのか判らぬが、とにかくこの場所、この大事な時に、かくも人を惹きつける演技をできたこと、それは尋常ではない。そこで建築の話である(強引やなー)

建築は芸術なのであろうか?いや、そもそも芸術とは何なのであろうか。荒川静香は一昨日のトリノでの演技において、一つの芸術作品を現し、確かに芸術家となり得たと思う。彼女はスポーツ選手であると同時に芸術家である。しかし、彼女が芸術家であるのはその作品においてであり、彼女が芸術家であることを職業にしている故ではない。

建築は芸術ではない・・・。ましてや建築家は芸術家ではない(いかに建築家として成功を収めた人が時に芸術院会員になった実例があるとしても、「建築家」という言葉が職業を表す限りにおいては)。しかし、俺が今から二十数年前にシカゴにあるクラウンホールを前にして、涙が出るほどに深く感動したのは何であったのか。そこに作品が、つまり芸術作品が現象として立ち現れたとしか言いようのない経験である。芸術とは現象であり、真実の立ち現れる時と場所である。その瞬間において、ミースは芸術家として俺の前に現れたのである。建築家なる者が、いつか芸術家として成就することがあるとすれば、それは長きにわたる修練と、物と時に向かいあう謙虚なる精神と忍耐の延長でしかあり得ないのではないだろうか。俺は残念ながら自分自身そのように生きることが出来ず、ここまで来てしまった。しかし、今日のように春雨の降る休みの日には、窓から見える林の梢が黒く湿り気を帯びる朝には、この凡夫も建築の芸術性について、いささか考えを巡らせてみたのである。

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