2008年6月22日 (日)

コクーンタワー/2008年西新宿

とある晴れた日のことである。俺は西新宿を何事もなく歩いていた。まったく油断していたと言えば油断していた。それは突然に俺の眼前に現れた。「な、な・・」と、俺はつぶやき、思わずあたりを見渡した。こんなものが・・大衆の目に堂々とさらされているのか。日本人もおおらかになったものだ・・いいやっ、羞恥心も地に落ちたものだ。俺の狼狽をよそに、皆何事もないかのごとく道を行く。

俺が大学に入って間もない頃、家族旅行をした。その時のことだが、どういうわけか親父が俺をとある秘宝館に誘った。自分一人で入るのが恥ずかしかったのか、それとも年頃の俺に親父なりの性教育を施そうとしたのか、よくわからないが、とにかくその秘宝館なるものに親父と二人で入った。色んな絵や写真もあったが、あれやあそこやに似た石や木の根っこなども展示してあった。そんなものに似ているのがどうというのか、俺にはさっぱり理解できなかった。しかし、そのような石や木が時には御神体になり、祭られたりすることもある。大概は安産や豊饒のご利益ありというふれ込みでだが。

02 この度の御神体、それは見事に天に向けそそり立っておる。それにまあ、これは書くのは憚られるが、書いておかぬと気づかない人もおるだろうから、羞恥心を捨てて書いておくと、この御神体はあれのように見えるだけではなく、あそこのようにも見えるのである。されば両性具有の御神体であったか・・・。

遥拝所と賽銭箱を設けるのなら、野村ビルの前辺りが良い。これほどの立派な御神体、日本の少子化にも歯止めがかかるかもしれん。はたして、東京モード学院はそこまで考えていたのか・・・立派だ。

惜しむらくは、足元に作られる予定の球体。何が入っているのか知らんが、一つじゃ足らんだろ。これは二つあるもんだ。

嫌いなのか?いや、好きだよ。けっこう好きな建物だ。ここまでやってくれるとね、面白いと思う。丹下健三亡き後、丹下事務所の最高ケッサクだ。丹下憲明よ、これで(血はつながっていないらしいが)父の丹下健三をやっと乗り越えた・・か。

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2008年5月 2日 (金)

北大古河記念講堂/洋風建築のこと

札幌に行く機会があった。1時間ほどの空き時間ができたので、急ぎ足で北大を訪ねた。薄れかけた記憶だが、大学の確か2回生の時に北海道を旅行し、こちらにも来たように思う。当時は建築学科の学生であるにもかかわらず、建物にはほとんど興味が無く、クラーク博士の銅像を見て、「よし、北大も制覇したぞ」とばかり、記念写真を撮って帰ったように思う。この度は北大のキャンパスに寄れるとは思っても見なかったので、下調べもせず、人から借りたデジカメを持ってキャンパスに突入したのである。下調べしていないのでどういう建物があるのか見当がつかない。01 おまけにここのキャンパスはやたら広い。1時間に満たない時間で、あてどもなく歩いていたのではそれ程の発見もできず、戦果が薄いのは当然なのだが、キャンパスに入る前から自分の頭には、「下見板張りの建物」を見たいという漠然としたイメージはあった。そういう意味では今回唯一つの戦果が「古河記念講堂」ということになる。

藤森照信著の「日本の近代建築」によれば、下見板張り、それも南京下見板張りの洋風建築は、明治初期に日本に移入され、日本のコロニアル風洋風建築の一つの源流となっている。しかもその重要なものの多くが札幌を中心とする北海道にある。それというのも明治の新政府が北海道の開拓を計画し、明治2年に北海道開拓使を設置するのだが、開拓の技術指南役としてアメリカから50名を超える開拓顧問団を札幌に迎えたことに端を発するからだ。これによってアメリカの開拓地で発達した木造技術がもたらされ、その技術とスタイルによって例えば有名な札幌農学校演武場(現札幌市時計台)が建てられたのだ。そしてこの南京下見板張りによる洋風建築はその後日本の各地で(時には擬洋風の建築へと形を変えながらも)建設され、日本人の頭の中には「洋館」の一つの典型的イメージとして定着していく。

02 古河講堂は明治42年の竣工で、この手の下見板張り建築として最も古い部類には属さない。設計も文部大臣官房建築課の技術者である新山平四郎が行ったのであり、当時すでにこのような木造洋風建築の技術が十分に日本人技術者のものとなっていたことを証明するのだろう。札幌時計台などはこれよりずっと前、明治11年の竣工で、設計はウィリアム・ホイラーというアメリカ人が行っている。ウィリアム・ホイラーというのは農業土木の技術者であり、札幌でのこういう下見板張りコロニアル建築について指導的役割を果たした人だ。ホイラーの活躍した頃から約30年後、日本人技術者は米国人技術者の指導無しに、独力でこの程度の建物を建てられるようになっていたということだ。

南京下見板張りの建物でもっと古いもの、建築史的に重要なものも北大の中にあるようだが、今回は見ることができなかった、というかとてもそこまでたどり着けなかった。北大のキャンパスは広い。ただ、雑然としている印象を受けた。敷地の広さに甘えて、夫々の建物(特に新しく建てられたもの)がだらしなく広がっているように見える。新しい建物はデザインレベルも低い。観光客も大勢来る有名大学なのに、残念なことだ。

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2008年3月30日 (日)

麗しのキャンパス?/同志社

同志社大学の今出川キャンパスのことを続ける。

01

重要文化財に指定されている有終館。「有終の美を飾る」の「有終」だ。元々は図書館であった。それが新しい図書館ができたので、その役目を終えた・・ということから「有終館」と名付けられたらしい。この建物に限らず、同志社大学の建物は何かしら名前が付いている。黒色の煉瓦と白い石の帯がアクセントになっていて、遊び心が感じられる。建物の設計時には米国からの派遣宣教師が指導したと、建物正面に貼り付けてあるパネルに書いてあった。その宣教師の名前までは記してない。明治18年(1885年)に定礎が置かれ、2年後の明治20年(1887年)に竣工している。

02

有終館の南側外壁詳細です。

なかなかに凝ったデザインで、良いと思う。19世紀末に建てられた建物として革新的なものはないかもしれないが、軒蛇腹のデザインや柱の面取り、あるいは窓下の腰壁が黒煉瓦を交えた斜め張りになっているところなどは見所である。この建物の設計者はこの建物が皆に愛されることを願っていたんだろうな。そういうことが感じられる建物である。

この当時、米国の宣教師や伝道師は、キリスト教の布教と同時に、西洋建築の技法を日本に伝えることにおいて相当重要な役割を果たしたらしい。W.ヴォーリズは20世紀前半に建築家として実に多数の建物を日本各地に残したが、元々は伝道師を兼ねた英語教師として来日している。ヴォリーズの建物はファンが多いと思う。こんな優秀な建築家が20世紀前半に日本に住みついて、数多くの名建築を生み出したことは奇跡的なんじゃないかな。ま、これは余談だが。

01_2

次の建物はクラーク記念館だ。これは同志社大学のシンボル的存在で元は神学館として建てられた。やはり重要文化財に指定されている。ドイツ人建築家R.ゼールの設計で、明治26年(1893年)に竣工している。ドイツ人らしい重厚館のある建物で、美しい。

建物玄関の前にある説明書きには「ドイツ・ネオ・ゴチック調」とあるのだけれど、これって正しいの?全体の印象はロマネスクに思える。ネオ・ロマネスク。ただ、俺は西洋建築史の専門家じゃないからね。

時代から言えば、そろそろ過去の洋式建築からの離脱が始まる頃。しかしそういう歴史上での位置づけは抜きにして、よくできていると思う。ずっしりとした存在感で、構成がしっかりしており、本物の匂いがする。中も見たいのだが、黙って入るのは憚られる。2階には礼拝堂もあるらしい。

01_3もう一つ写真入れておこう。ハリス理化学館だ。

アメリカ人実業家J.N.ハリス氏の寄付金で建てられた建物で、設計は英国人建築家のA.N.ハンセル氏。1890年(明治23年)の竣工である。これも重要文化財指定である。

全景を撮るには木が邪魔になる。でもこうして見ると、綺麗なキャンパスだね。ただ、こういう建物が、キャンパスの主たる構内道路に面してまるで展示品のように行儀良く建っている。それがやや俺には物足りない。これらの建物で構成される同志社大学今出川キャンパスは、魅力的であると同時に排他的である。attractiveであると同時にexclusiveであるというのはどういうわけか?

大学のキャンパスというのは一つの街のようなものだ。その構成や意味を問い、解釈していくのは都市を問うことと似ている。一つはっきりさせておこう。都市は建築の陳列場ではない。

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2008年3月23日 (日)

同志社大学今出川キャンパス

Photo_2同志社大学の今出川キャンパスは、同志社大学発祥の地である。今出川通りの北側に位置し、通りを挟んだ南側には御所、北側には相国寺があり、航空写真で見ると実に緑が多い所で、大学の立地としては申し分ないように思えるのだが、実際に行って見るとちょっと印象が違う。御所にせよ同志社にせよ、構内に入ればそれなりに落ち着いた雰囲気になるのだけれど、それぞれの繋がりというものが無い。御所、同志社、相国寺という3つのエレメントがただ隣り合っているだけで、ばらばらな感じを受けるのはどういうわけだろう。このあたり一帯の魅力を増すには、これらの場所の連携を強化する必要があるように思う。

写真で見れば分かるように、御所の側も大学の側も歩道が狭すぎである。このため、御所も同志社も構内に入れば貴重な都市の緑があるのだけれど、その外を歩く人達はゆっくりとこの都市空間を楽しむことができない。同志社大学の塀も問題だ。普通で言えば、漆喰で塗られた土塀は「さすが京都」と褒められるべきかもしれないが、この狭い歩道に面して歩行者に圧迫感を与えているのは考え物である。古ければ良いというものでもない。そもそも同志社大学は、この今出川通りに対して裏側を見せる構えなのである。しかし、もし俺がこのあたりの景観を改良する提案を求められたなら(それはあるわけもないが)、この同志社キャンパスが今出川通りに放つ裏感覚を何とかして打ち破りたいと考えるだろう。

Photo_3

同志社大学の構内である。

メインの構内道路に面して、いくつもの外装煉瓦の建物が並ぶ。また各々の建物の主玄関はこの構内道路に面する。かくのごとく、このキャンパスは基本的に内向きである。ただし日本の大学は一般にこの傾向が強いのであり、このキャンパスだけを責めているわけではない。

同志社大学今出川キャンパスには重要文化財に指定されている建物が5つある。いずれも煉瓦の外装であり、著名な建築家の設計ではないが良くできている。ある様式というか、文法に従ってデザインすれば、相当のレベルまで質が得られるということの証明になるだろう。こういう時代の建物は、才能のある人の手になるものとそうでないものとの差は小さいのかもしれない。また都市景観的な観点からすれば、文法があるということによって全体の秩序は間違いなく保証される。それを今求めてもしょうがないのだけれど。ではどうすべきなのだろう・・・?

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2007年11月18日 (日)

吉田鉄郎の建築

先週のことだが、姉が大学の同窓会やなんやかやで東京に出てきた。日曜の夜には京都に帰るということで、帰る日の夕方に少し早い晩飯を丸の内のあたりで一緒に食べることにした。この頃は陽も早く沈むので、5時前にはもうすっかり夕刻の雰囲気だ。夕暮れの丸の内を少しの時間だが眺めまわした。この辺りはここ10年ぐらいで随分変わって、現代的なビルが林立する情景になっている。常日頃、俺は新しい開発を批判しがちなんだけど、丸の内周辺のこの変化は嫌いではない。東京の表玄関としての丸の内は、なかなか良くなってきたと正直思っている。これで東京駅の姿が建築当初の形を復元できれば、世界の他の大都市の表玄関と較べても、けっこう良い線行っているのじゃないかと思う。

Photo_2 昔の逓信省営繕部は今のNTTファシリティーズの源流になる組織で、山田守や岩元禄などの優秀な建築家を擁した名門である。吉田鉄郎もそうした建築家の一人で、東京駅のそばにある東京中央郵便局はその代表作といわれる。

この東京中央郵便局が取り壊されるかもしれないという話がある。建築学会などを中心に、保存の要望が出ているようだ。これについては、「残せるものなら残した方が良い」というのが俺の気持ちだ。どうしても残さねばならない・・・という程ではない。東京生まれの人間でないのでよく分からんのだが、これが無いと丸の内という場所のアイデンティティが損なわれるという・・・そういうことは無いんではないかと感じている。建築や都市に関係が無い人達もだいたいそういう意見なのではないだろうか。

建築の作品としてこれが名建築と言えるのか?・・・についても、正直、評価が難しいと思う。1931年に完成し、かのブルーノ・タウトがモダニズムの傑作と称えた・・というのだが、どうなんだろうね。このブログでは、自分の感覚でしか物を見ないことにしている。誰が何と言おうと、ピンと来ないものはピンと来ない。確かに悪くはないけれど、世界に目を転ずれば、1930年にはコルビジェ設計のサヴォア邸が完成し、1933年にはアルヴァ・アアルト設計のパイミオのサナトリウムがその美しい姿を現している。Cpscott この東京中央郵便局と同様のシンプルなグリッドによるファサード表現は、ルイス・サリヴァン設計の百貨店カーソン・ピリー・スコットに見られ、しかもどう見てもこちらの方が完成度が高い。カーソン・ピリー・スコットの完成年は1904年だ。

結局、当時の日本の近代建築のレベルはその程度だったのじゃないか・・・と思うんだ。ブルーノ・タウトが「モダニズムの傑作」と評したというのは、日本を案内してくれた吉田鉄郎に対する多分に社交辞令的なものだったのではないか・・・と疑えば疑える。

だから壊してよいとは思わない。この東京中央郵便局の建物が、丸の内という場所の記憶に重要な位置を占めているのなら、それはやはり保存の道をさぐるべきだとは思っている。

Photo

京都にも吉田鉄郎の作品がいくつか残っている。京都中央電話局上京分局は1924年の完成で、東京中央郵便局より古い。こちらは「カーニバル・タイムズ」という名前で、レストランおよび結婚式場として改修利用されている。中には入ったことないが、外を見る限り、鴨川にかかる橋のたもとに堂々とした存在感を示している。これは残したい。

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2007年11月 4日 (日)

京都という都市の生き方

一つのことに集中できないタイプの性格である。あれやこれやと手を出しては、中途半端に投げ出す。自分のことを言っているのだが・・・。だから大成しないのかもしれんな。

中学生の頃に、周りにギターを始める奴らがいる。それで俺もギターをやりたいと思ったが、どうもあの、コードを覚えてジャジャーンとやるのは好きじゃない。ナルシソ・イエペスの「禁じられた遊び」というのを聞いて、あーいうのをやりたいのだが、それならマンドリンで近い感じが出せるだろうと実に安易な考えで、親にマンドリンを買わせた。2ヶ月ぐらいは練習したが、まあ続いた方だ。それから、10年も経って、フランス人の友達がすばらしく上手にフルートを吹くのを聴いた。プロの音楽家でもない化学が専攻の男が奏でるメロディーに感動した。それでまた、親にフルートを買わせた。結婚した時に、これは持って行けと、親からそのフルートを押し付けられた。爾来、自分の家の押入れの奥にしまってある。当時10万もしたそうだ。このフルートはまともな音を出してもらったことが無い。「フヒェー」という、「風邪でもひいたんか、爺さん」みたいな音しか、ついに出してもらえなかったフルートが不憫である。

京都の景観というのは、俺のそういう苦い経験からすれば、集中すべきこの一点である。これをうまくやらなければ、京都は世界に誇れる街になれない。人の才能も様々、企業の持ち味も色々。小泉元首相も「人生いろいろ」と言ったではないか。都市も同じである。京都が東京になる必要は無い。むしろ京都が「他の街と違うところは何か?」をはっきりとさせ、そのことを自分達の強みとして育てていくのが、経営理論の教えるところである。京都が景観の問題でしくじれば、そう時間を経ずして、他所と変わらぬ「ただの人口100万都市」になるだろう(もうかなりつまらん都市になりつつあるのだろうが)。

01 朝日新聞2007年11月1日朝刊には京都に於いて、この9月に以前より厳しい「新景観政策」が開始されたことを報じている。これにより、京都市の市街地ほぼ全域で建物高さは31m以下(以前は45m)に抑えられる。市街中心部の幹線道路内側では更に厳しく、15m以下となる。また、市街地のほぼ全域を景観地区や風致地区に指定し、屋根は傾斜屋根として瓦か金属板で葺くことになる。これらの規制が、私の財産権を制限していることになるというのは、その通りだ。おそらく京都の住民の中でも、建設や不動産に従事している人はもちろん、自分の住んでいる土地の値段が下がると危惧する人も、この規制が京都の経済に悪影響を与えるだろうと批判するかもしれない。だが重ねて言うが、マクロ的に見るならば、京都の生きる道は、「その特色を強調していくこと」につきる。それがこの街のとるべき戦略というものである。

上の写真は西陣の中心部、大宮通沿いの街並みを撮ったものだ。観光客が訪れているのも窺えるが、街は古い町屋のデザインを踏襲したものから、新建材に覆われた建物まで混在しており、かなり混乱した印象を与える。遠くにはかなりの高さのマンションも見える。電信柱、電線の醜さはここでもひどい。

02

少し離れた場所には、このように新しい3階建ての木造住宅が並ぶ。住んでいる人達には悪いが、これら新建材で包まれた「新しいデザイン」の住宅は、まったくの景観破壊と言うしかない。写真ではこれらが古い街並みを侵食しながら建てられているのが見て取れるだろう。これらの新しい住宅も、新たな高さ規制、傾斜屋根の基準はクリアできる。京都市の新しい規制によっても、なお京都の街並みを守るのには不十分だと、俺が考える所以である。

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2007年10月21日 (日)

東京のアジア

01 清澄通りを深川から両国の方にぶらぶら歩いて行くと、清澄公園というのが道路の左側にある。東京という都市の中での貴重な緑だが、中に入ろうとすると入場料を取られる。この程度の庭に、けっこうな入場料を払ってまで見ようという心とフトコロの余裕を持ち合わせていないものだから、その公園の東側を歩いて両国へ向かった。そうするとどうだ、この公園の東側、つまり道路側には奇妙な建物群、いやいや群ではなく連なっているのを発見した。

写真で見るといくつもの建物が建ち並んでいるように見えるかもしれないが、これはもともとは一棟の建物だ。つまり長屋になっている。そうして今は塗装で塗り分けられている。それだけでなく、塗り分けたそれぞれの部分は、住み手によっていろいろ付け加えられているようだ。屋上部分にも、それぞれ建て増しているのがわかる。もちろん違法だろうが、行政も今さら何も言わないのだろう。これらの建物の裏側は清澄庭園である。どういう経緯でこのようになっているのか?だが、都市景観としてはなかなか味がある。こういうのアジア的・・と思うんだけど、どうかな・・現代東京の中のアジア。生きられる空間・・と、言っても良いな。

02 近寄って見上げてみた。オォッ!デザインしている。これ、その誕生の時は、それなりの建築家が関わっていたんじゃないの。

だがこの写真を撮って一月、いまだに調べはついていない。

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2007年10月 9日 (火)

西陣電話局

01 油小路今出川を南へ下がっていくと、やがて右手に楽焼の本家、楽家の屋敷に至る。そこをもうちょっと下がり、中立売通りまで来ると、その通りの角にあるのが西陣電話局だ。大正11年の完成だから、建ってから85年ぐらいか。名建築・・という誉の高い建物で、そのことを良く知っている(はずの)NTTは、さすがにこれを取り壊さず、何とか再利用しているらしい。設計者の岩元禄は当時、逓信省建築部の技師で、この建物が完成した後、29歳の若さで亡くなった。この建築家を語るときはいつも、「夭折の天才建築家」という修飾語が付く。そうは言っても、そういうことを知っているのはだいたい建築の専門家ぐらいで、一般の人はあまり知らないだろう。

この建物は一応、表現派という潮流に属するのだろう。その後の分離派、ヨーロッパではゼセッションやデスティルなどに繋がる流れかと思う。

02 そんなに名建築か?なんてことを言ったら張り倒されそうだな。岩元禄は建築の芸術性を高らかに表現した建築家・・ということになっている。この有名なレリーフを見よ。

で、本当のところ俺の感想は・・・まあまあ。なにがどうというのはないが、この建物、内部空間は見るところ無い。外部はこの有名なレリーフに尽きる。天気も悪かったからね。でも、味のある建物ではある。名作というより秀作。

03 給水塔を隠す壁にはライオンのレリーフ。しかしどう写真を撮っても電線が邪魔だな。電信電話局の傑作と言われる建物がこうして電線に囲まれて、その雄姿を損なわれているのは因果応報か?

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2007年9月29日 (土)

京都の景観/西陣

200701 夕日が沈む直前に夕日に向かって空を七分、建物を三分の割合で写真を撮ると、ドラマチックな写真になるというのでやってみた。なかなかいいぞ。手前の伝統的な町屋の前も横も、新建材で建てられた新しい家に囲まれている。手前の古い町屋を引き立ててくれている。空を縦横に横切る電線はどうだ。アブストラクトな模様がクールだ。何時空を見上げても、この電線でできた抽象美を楽しめるのは、戦後一貫して日本国中に電線を張り巡らせてきた技術者達のおかげだ。このおかげで日本国中、電気が自由に使える。道に面した駐車場・・というか、駐車場に挟まれた道。京都だって車は必要だ。これは文明の象徴だぞ。この国がいかに文明国になったか、世界中に知らしめようではないか。世界中の人に見てもらおう!!これが、世界に誇る日本の歴史都市、京都、その西陣織で有名な西陣だ。どうです、手前の伝統的家屋。現代的な物達に囲まれて、その美しさが際立っていません?

我々はかく鈍感になり、その遺伝子は次世代に継がれつつある。

200702 すでにかなり有名な三上長屋を訪れた。日も暮れかけるこの時間、外からランドセルを背負った男の子が帰って来るのに出くわした。自分の子供の頃に出会った気がして、懐かしさで涙が出そうになった。本当はこういう人が住んでる場所に、他所から来た人が大勢見物に来るというのはどうかと思う。しかし、敢えて見に来てもらいたい。大勢来るということが、この場所への賛成投票になると思うから。

200703 時間はあまり残されていない。この三上長屋のすぐ隣には、この写真のように木造モルタル3階建ての住宅が並ぶ。またすぐ近くにもやはり、こういう建売住宅が建設されつつあった。このような住宅を作り、売り続ける人たちがいる。商売は自由だ。だが、おそらくその人たちには西陣という場所に対する愛情は無い。

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2007年9月24日 (月)

黒胡麻担々麺/門前仲町

01 「万豚記」という店がチェーン店とは知らなかった。建物に引かれて門前仲町店に入った。店員も全員中国人のようで中国語が飛び交っていた。それですっかり日本に在住の中国人がやっている店に違いないと思ったが、際コーポレーションという会社が展開している四川料理の店だということは後で分かった。この会社は日本料理やイタリアンなど様々のレストランを運営している。なかなか店作りのうまいプロ集団のようだ。この万豚記も店員を全員中国人にしているのは意図的であろう。

02 のれんが可愛いよね。「らーめんいただきます」か・・じゃ、いただきます。

豚が楽しげにラーメン食っている。間違ってはいけないが、店の中では豚を食わせているので、豚が食っているわけではない。だから豚が楽しそうに描かれているのはもちろん嘘だな。もっともこののれんの絵を見て、中で豚がラーメン食ってると思う奴はいないだろうが。

03 黒胡麻担々麺。なかなかの面構えで出てきた。ここの担々麺はこってりし過ぎと嫌う人もいるようだが、俺はけっこう美味しく食った。10点満点で8点ぐらい。腹減ってる時に近くを通ったらまた入ると思う。強めの辛味噌味が麺にからむ。大量の黒胡麻が香ばしい。汗が噴出した。

チェーン展開している店ではあるが、古い建物を再利用し、この深川の街に、下町らしい雰囲気を醸し出しているのはGOODだ。堅苦しい言葉で言うと「地霊」またはゲニウス・ロキ。軽く言うとコンテキスト。そういうの、街のデザインに於いては「個性」以前に尊重した方が良いと思う。

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2007年8月26日 (日)

ぜんざい/沖縄

那覇市は首里の方にある沖縄そばの店に連れて行ってくれる人がいた。8月の最初の頃である。「しむじょう」というその店は地元では知る人ぞ知る店らしい。しかしそこへ着くには、細い道を山に向かってくねくねと上らなくてはならない。観光客でここに来る人は少ないようである。

沖縄のそばを始めて食ったのは建設現場の食堂であって、最初はあまり美味いと思わなかった。中華そばとウドンを足して二で割った感じでね。出汁も超薄味。中華そばをウドン出汁で食っていると言えば近いかな。現場の食堂のは、建設現場だというのに調味料を節約しているのか、お湯に近い味だったね。だが後に、おいしい店に連れて行ってもらったのをきっかけに好きになった。今回の「しむじょう」の店も美味しかったよ。でも食後に庭に出て食べた「ぜんざい」のことを書いておこう。感動。

Photo沖縄のぜんざいは熱くない。温かいそばを食った後、庭に出て東屋の屋根の下に入ると、そこには沖縄の夏の風が吹いていた。 東京よりはよっぽど気持ち良い。そこに出てきたのがこれ。氷アズキじゃん・・・て。この写真は少し食べたあとのもの。最初は氷が全面にかぶっていて真っ白なの。そこをスプーンでほじくると、下に金時アンと餅が現れる。その色の取り合わせが美しい。沖縄というと金とか朱色とか、あざやかな色合いのイメージがあるのだけれど、このぜんざいは最初白色で出てくるの。ただのみぞれ・・って感じ。白無垢の純真な奴が恥じらいながら出てきたと思って、そこを情け容赦なくスプーンでほじくると、中から金時豆のアンと餅という老練なコンビが出てくる。しかもその純真な奴と老練なコンビが力を併せて味覚を攻めてくる。おのれ謀ったか・・と気が付いた時は、スプーンがとまらぬ。久々に甘いものに感動した。

01せっかくだから「しむじょう」の建物についても少し書いておく。この建物は首里にある民家を利用して店にしたもの。沖縄の典型的、とは言ってもかなり上流階級の家の形を見られる。

アプローチはこの通り。正面にヒンプン(屏風)がある。邪鬼はまっすぐにしか入って来れないため、これで遮る・・・ということなのだが、建築計画的にも効果が出ている。アプローチに奥行きをもたらしている。屋敷に向かって入って行くとヒンプンにあたる。そこで右に折れ、まずは庭に出ることになる。この家ではそこから左に少し上ると家の玄関に至る。視界がさほど長くない距離の間に次々と変わって行く。これは京都の禅寺などでも似たような手法が見られる。

家の周りは日本の本土と違って、白い砂が敷かれている。草木を生やさない。ここに本土の文化との違いを見ることができる。02

白い砂に反射した光が室内を明るくするという効果も狙ったのだろう。しかしその他におそらく、草木を生やしたならそれは制御不能のものとなり、あっという間にジャングル化するという南国の事情もあったと思う。 ハブのような危険な動物もいる。草がぼうぼうでは蛇が潜んでいても分からない事になり、危険だったであろう。

沖縄では自然は本土のように優しくない。沖縄が自然豊富で、人々は自然を友として生きている・・・というのはちょっと単純に過ぎる見方だと気づかされた。

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2007年8月19日 (日)

自由学園明日館/つづきのつづき

今日は8月19日だ。今月に入ってから、ブログを書くのに飽きてしまって、しばらく間を空けた。実は昨日、京都の実家からこちらに戻ったばかりだ。京都のことについて書く材料もあるが、自由学園明日館について今少し書き足しておこう。

明日館のホールで、俺は四半世紀も前のことを思い出していた。俺は語学研修のため確か5月の末に米国南部の田舎町を訪れた。それからの3ヶ月は多分、俺の人生における最も美しい日々だったろう。学校は深い緑に包まれており、夏の花は咲き乱れていた。空は青く、空気は澄んでいた。だのに時々激しい雷雨が襲い、そのあとは決まって日没前の太陽が南部の田舎町を赤く染め上げたんだよ。学校ではいろんな国の奴と話した。ドイツ、ベルギー、オランダ、メキシコ、コロンビア、ブラジル、台湾、韓国、そうそうガーナから来ていた奴とも仲が良かった。皆それぞれに魅力的だったし、第一若かった。Kちゃんだけじゃなく若い女の子も多かったからね、今思い出すとバラの花の香りにむせたような息苦しさを感じるよ。50過ぎたオヤジがね・・・。そうして8月の今頃にね、研修は終わった。俺は北へ、Kちゃんは西へ、他の仲間もそれぞれの目的地に向かって別れて行った。

05夢想にふけっていたのは、ほんの10分か15分のことだったであろう。 自由学園明日館のホールには、そういうセンチメンタルな思い出に浸らせる魔力のようなものが満ちていた。このホールの床は周りより40~50センチ下げられている。このホールの椅子に座ると、高い窓を通して目線は低く外の景色を眺めることになる。これはライトが仕掛けた建築的テクニックであろう。そのためかこの空間は、なにか『包み込まれる』ような安心感を与えているように思う。ライトは目線を低くすることによる効果を十分に意識してここに用いたに違いない。

06

窓の向うには、明日館の敷地境界沿いに植えられた桜が望まれる。これらの桜は竣工当時には無かったように思われるが、それにしても桜満開の頃は、縦長の窓から見える桜がこのホールを包み込み、この空間をまた一段と特別な時間の流れる場所にすることであろうと思われる。空間が詩を唄う時節が訪れる。桜の頃にまた訪れたいものである。

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2007年7月22日 (日)

鰹そして自由学園明日館のこと

デパートの地下の魚屋で、鰹のさくを安く売っていた。本日の目玉商品というやつか?そいつは買わねばならんだろう・・という天の声に従った。天の声が間違っていたこともあるにはある。しかし今回の天の声は、日頃悩み多いこの凡夫を救おうという有難い神の所業であったと知るのである。

玉ねぎスライスとミョウガの千切りを冷水にさらし、大葉を用意する。生姜、ニンニクをすりおろして小さい器に別に入れておく。ポン酢は市販のものでよい。鰹のさくを厚めの切り身に切り分け、先の玉ねぎ、ミョウガ、大葉とともに皿に盛る。なんという美味しそうな色合いだ。鰹の一切れを少量の玉ねぎとミョウガとともに大葉で包み、生姜とニンニクを混ぜたポン酢につけ、口に含む。大葉が前歯によりピシッと破れ、玉ねぎ、ミョウガがシャキッとつづく。そして思いの他、軟らかい鰹の身が俺の歯に噛まれるままジワッ、ジワッと旨味を口の中に広げるのだ。ピシッ、シャキッ、ジワッである。たまらずもう一切れを同じく、ピシッ、シャキッ、ジワッとやる。ここでビールをグイッである。旬のものを旬に食うのが食の極意だと・・なぜか得意げにうんちくを垂れる昨夜の夕餉であった。

自由学園明日館のことについて書くつもりであったが、昨夜の鰹の美味さは書き留めておきたかった。それはともかく自由学園明日館のことである。

01_16 自由学園は東京は池袋駅に近いこの場所、西池袋(昔は雑司が谷と言ったらしい)に、大正10年、羽仁吉一、もと子夫妻によって創設された。羽仁夫妻は雑誌『婦人の友』の創刊者でもあり、婦人の友社の社屋もこのすぐそばにある。自由学園は最初、キリスト教に基づく教育を行う女子のみの学校として作られたが、後に初等部や男子部が設けられる。そういうことは自由学園のホームページに詳しく書いてある。それよりも創設時の校舎が、当時帝国ホテルの設計のため来日中のフランク・ロイド・ライトによって設計されたことは、建築に興味を持つ者には広く知られている。

時間が無いので、詳しくは次回の記事に続ける。

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2007年7月14日 (土)

立教大学のキャンパス/つづき

大型の台風、台風4号が近づいている。幸いにして今日は土曜日だから会社へ行くこともなく、こうしてブログ記事をしたためているのであれば、俺は雨が嫌いではない。これが混んだ電車で都心へ出かけ、ネクタイもして、しかもズボンの裾が濡れていたりするというのでは、いっきょに話はサラリーマン無残の次第となる。だが今日はこうして、窓からは湿り気を帯びた涼しい風が入って来ており、そういう薄暗い部屋(こういう日こそ電灯を明々とつけるのでなく)で、一人静かにキーボードをたたいていると、なんかこう、生きる気力が蓄えられてくるように思う。

05立教大学のきれいなネエチャンじゃなくて、建物の話のつづきを書こう。

食堂へ向かう道にはその途中に藤棚があり、藤棚の向うに食堂入口が見える。ああ麗しき学生生活、とりわけ食事の場所はどんなに大事な場所であろう。 だいたい飯を食うという行為は、少々その人の本性が出ても許されるシチュエーションで、食事を共にすることで相手の人柄が見え、またプライベートなことも話しやすくなるという大事な行為だ。当然、食堂は大学の中では重要な施設である。一つの教育施設だと言ってよい。教室の中より食堂の中でこそ多分、より重要な人間形成は行われるのである。

06 近頃見た中では最も印象的な食事の場である。学生達もこの食堂で友人や先生と食事したことは、生涯の思い出となるのだろうな。建物としては、天井が高く、それだけで贅沢だ。今時、こんな風な食堂は作れない。いろんな規制の中で、目一杯床面積を取ろうとすると、こんなに天井を高くするのは無駄というものなのだ。また、構造体としてもどうしても金がかかってしまうだろう。だから天井が高いというだけで、これは本当に贅沢。けれども、こういう空間で毎日学生生活を送れる学生達は幸せであろう。現代の経済的理屈が人間の精神性を犠牲にしている・・というのは、建築の世界でも往々にして真実である。

07 「ツタのからまーるチャペールでぇ、祈りぃをささぁげた日ぃー♪♪」などと思わず口ずさむようでは、だいたい歳がばれる。ペギー葉山の「学生時代」という歌を知っているのは、50歳より上の人間だろう。このチャペルを見て、俺はまさにこの歌を、不覚にも口ずさんでしまった。

そうか、この教会のことだったのか、あの歌は。大学の中にあるツタのからまるチャペル。立教大学だったのかい。かの歌を覚えて数十年、やっと出会えたのである。

08 教会の中では、折しもミサをやっていて、さすがに入っていくのははばかられたので、外からこの、ネオゴシック風の窓を撮影させていただくにとどめた。

レンガはこういう風に積むのだぞ・・という見本みたいな積み方。今時、レンガ構造の建物は無いけれど、レンガタイルをコンクリートの壁に貼るときも、せめてこういう本物を参照したい。戦前のあるいは戦後のある時期まで、日本でも建築家の素養としてレンガの積み方が学ばれたようである。俺はさすがにそこまで古くない。だが、一応調べてみた。レンガの長手と小口を交互に積むこの積み方、フランス積みというのである。マーフィ・アンド・ダナ建築事務所というのは米国の設計事務所だったのだろうが、フランス積みを用いたのか・・・。一番エレガントな積み方だそうである。

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2007年7月 7日 (土)

池袋西口の辺り/立教大学

池袋西口を出て自由学園明日館を目指したのだが、道に迷ってしまった。この辺りの道は迷路のようになっていて、適当に歩いていると全然違う場所に出てしまったりする。

Photo_10 公園に出てしまった。どこだここは?とりあえず小便しておくか・・・と、入ったのがこの公衆便所。昔の公衆便所のイメージは、とにかく臭い、不潔。公衆便所に入る人間は慌てているのか、○○コが便器のまわりにべっとりついていたりして、そういうところで自分も○○コするのは、勇気が要ったよね。だが、この便所はよく掃除がしてあり、清潔であった。洗剤の匂いがした。その点は合格である。

デザインはどうなのか?公衆便所のデザインで感心したことはない。普段は脇役のトイレを主人公にした建物だからね、あまり一流の人が設計することはないと思われる。また、こういうのを名作に仕立て上げるのは至難の業であろう。この便所の場合は良い方だと思うよ。公衆便所・・これからも注目して行きたい。

さて、自由学園を目指していたのだが、この辺りで立教大学に向かう道案内を見つけたので、先にそちらに向かうことにした。

01_15 立教大学の正門前の通りを立教通りという。分かりやすい命名だ。ここらあたりは池袋駅前の猥雑感がやや薄れ、立教ボーイズ、ガールズの闊歩するシャレた街を装っている。とはいうものの、俺の評価点ではやっと60点ぐらいの感じで、欧米の有名大学の学生街とはまだ比べ物になりません。まず電信柱と電線、なんとかなりませんかね。

だが、立教大学のキャンパスはかなりいけてますよ。キャンパス内の女子学生のセンスが良さそうなのも評価点プラス。

02_5 まずキャンパス正門を入ると目に入るのが本館(モリス館)である。大正7年竣工ということで、90歳ぐらいの建物である。ご覧のように、敷地奥に向かって軸線がズーッと通っている。いかにもっていう感じだけれど、実際、奥への期待を抱かせる。この建物の前庭も古典的な左右対称の芝生の庭だけど、スケール感が良く、効いている。このモリス館、設計はマフィー&ダナ建築事務所ということらしいが、基本設計はJ.M.ガーティナーがやったと伝えられる。ガーティナーは教師として来日していたのだが、建築について造詣が深く、日本で幾つかの建物を設計している。建築は余技なのだけれど、上手い。

03 日本じゃないみたいな(これが褒め言葉だってことが悲しいね)美しいキャンパスだ。今の若い人だってきっとこういうキャンパスで青春を過ごしたいんだよ。

立教大学についてはもう少し写真がある。

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2007年7月 3日 (火)

池袋西口の辺りを歩く

仕事を休んで、池袋西口の近辺をウロついた。仕事を休んだのには一応理由がある。例の年金問題。俺も一つの会社にずっと勤め続けてきた訳ではないので、気になっていたのだ。社会保険庁のずさんな仕事ぶりが明らかになる前から気にしていたのだが、ここのところ年金記録を確かめるために社会保険事務所に人が殺到しているとの報道に恐れをなし、しばらく沈静化するのを待っていた。ようやく今日、自分の年金記録を確かめることができた。いや、社会保険事務所だけど、思ったより空いていたよ。すぐに終わった。そして池袋にね、ちょっとマーキングすることにした。

01_12池袋の西口を出た辺りはね、かなり猥雑な感じがあるんだよね。特に北の方。飲食店、パチンコ屋、風俗店などが入り混じっている。こういうところを普通の日にだよ、仕事を休んでうろついている・・・っていう感じが良いんだな。ただ、美的な意味ではひどいもんだよ。しかし、昔のことだけど、シカゴやニューヨークでこういう感じのところを歩くと、身の危険を感じた・・というか、危なそうな人がたくさんいて油断できない雰囲気だったけれど、日本の場合は、少なくとも昼間は、そういう危険な感じは無い。この頃治安が悪くなったと言われるけど、日本はまだまだ安全な国なんだろうな。新宿はどうかな。もうちょっと危ない感じ。でも午後9時ごろまでは大丈夫なんじゃない。ポン引きに引っかからなければね。

池袋を南に下っていくと目白に近づき、次第に上品な感じになってくる。そっちの方へ行ってみることにした。お目当てはある。立教大学と自由学園だ。01_14 だがその前に撮ったのが この写真。東京芸術劇場。

芦原義信、晩節を汚した作品。氏の代表的な著作「街並みの美学」が泣くね。芦原さんの全ての作品が悪いわけではない。駒沢体育館などは俺は嫌いではない。丹下健三のような天才的な切れ味は感じないが、芦原さんの育ちの良さみたいなものは伝わってくる。品が良いのである。

だが、この東京芸術劇場、品が無い。しかも巨大だ。ヤメテほしい。しかし建物は一度建ったらそう簡単に無くならない。そういう意味では、この次の写真の建物なども俺には許せない部類に属する。

02_3

東京都税事務所・・らしい。東京芸術劇場の向かいに道を挟んで建っている。誰の設計かは知らない。しかし、こういうのは結構名の知れた建築家の設計の可能性がある。ここに見えるのは自己顕示欲。これが建ち続けるのは犯罪的であろう。道を行く人々の目に否応なく飛び込んでくる醜悪。

これらの俺の嫌いな建物と、これから尋ねようとしている建物との違いこそ、建築に関わる者がよく観察しなければならないものだろうと思うのである。  つづく。

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2007年6月24日 (日)

2007年6月24日

特に書くことは無いのだが、このところの生活の記録を少々。

梅雨入り宣言後も雨があまり降らない。雨は嫌だけれど、降るべき時期に降らなければ、それはそれで困るよな。今日も曇り空だけれど雨は降っていない。実は数日前から窓がビニールシートで覆われている。住んでいるマンションの大規模修繕工事で外壁の塗装工事が始まり、塗装部位以外を塗材から守るためシートで覆われてしまった。当然窓は開けられない。部屋内はなんとなくジメッとしているのだが、ただ我慢している。窓を開けるという何でもないことで、気持ちも開け放つことができたのだと、実は大事なことなんだと、自分で自分に頷いている。

相変わらず仕事を持って帰っている。スッキリ休めない。どこへも行けない。窓は塞がっている。気持ちも塞がる。そういう日曜日だということ。

これで終わるとあまりに面白味が無いブログなので、京都の写真をひとつ載せておこう。

01_11

北野天満宮は菅原道真を祭る神社で、学問の神様、受験の神様ということで賑わっている。牛はこの神社では神のお使いとして特別の意味を持つ。神社の境内には「お牛様」が祭られていて、京都の受験生は受験の前にお参りに来る。いや、京都だけでなく、他府県からも来ているようだ。

この写真はその「お牛様」ではない。御手洗の手水鉢に置かれている。なんかいいね・・・と、俺は思ったが。正月の初詣の折である。ここには幾つかのキーワードがある。水、それも神聖な水、神、動物、自然。心の深いところに働きかけるイメージ。そういうものが大事なんだな・・と、ここのところずっと思っている。

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2007年5月13日 (日)

旧朝香宮邸あんどWATERLINE

ゴールデンウィークだというのに、どこへ行く予定も無かった。上の娘は友達やボーイフレンドと忙しく遊びに出かけている様だが、下の娘はだいたいパジャマのまま一日中家にいる。何か絵を描いているようだが、こまごま聞くとうるさがられる。子供がある程度成長するとこんな感じで、それぞれがパラバラに時間を過ごすようになる。どこの家もこういうのだろうか。わからない。俺はというと、気になる仕事がいくつかあり、休みの日も何日かは仕事に出た。神経はあまり休まらない。

先週の日曜のことである。妻が、「一日ぐらいどこか行きましょう」と言うので、東京都庭園美術館へ出かけることにした。東京都庭園美術館、すなわち旧朝香宮邸である。結婚する前に目黒にしばらく住んでいたのだが、その時に一度行った記憶がある。それからもう20年以上経つ。本当に久しぶりに旧朝香宮邸を見ることになった。

01_10目黒の駅を降りて、方向を間違えそうになった。二十数年前には住んでいた町なのに、方向感が狂っている。人間の記憶とはかくもいい加減なものか、それともただ俺の物覚えが悪いだけか。後者かもしれない。昔から記憶力に自信が無い人間である。

旧朝香宮邸はアールデコの代表作と言われている。しかし、それは内装のことであろう。昔もそう思ったのだが、外観はさほどのことはない建物である。もちろん建った当時(昭和8年)は、宮邸にしてはすごいモダンな建物だったろうが、今見て、全体にこなれていない現代建築に見えないか。この立面、なんか下手な学生の宿題を見せられている感じが俺にはするのだが。

しかし、この建物、中が良いのである。フランス人デザイナーのアンリ・ラパンがデザインしている。アールデコの傑作といわれている。ただ今は美術館として使われている為か、中の写真を撮らせてもらえない。ウーン、悔しい。

02_2裏にまわると、このころの金持ちの家によくあるように、芝生の庭に面している。裏側の立面の方が俺は好きかな? 表のデザインはそれまでの様式建築の影響から脱しきれてない。脱しきれていないならいないで、そこをうまく構成して見せてくれると良いのだが、設計者がそれを意識できていないのではないか。ちょっと中途半端に思えるのだが、裏の方は一応、現代建築になっているように思う。ただ、同時代の世界的レベルからいうとどうだろう。凡作だろうな、やっぱり。

ここでは「大正シック」と名うった展覧会をやっていたので、それを見た。妻はそっちの方が関心があったみたいだ。

Waterline02目黒を後にして天王洲アイルにむかった。レストランT.Y.Harborで妻に飯をおごる約束だ。ここには運河に浮ぶ「WATERLINE」という船上レストランが付設されている。実はこの船上レストランは俺の事務所のN君が実施設計から監理までやったのである。構造設計はやはり事務所のI君がやった。I君はこの仕事が終わって半年ほどで会社を辞めた。そして俺自身はこの設計の統括ということで、最初の頃にいろいろ議論に参加したが、N君を担当に決めてからは大したことはしていない。でもまあ、妻に一応、俺の関わった仕事を見せようと思って連れて行ったのである。T.Y.Harborのパスタは美味かった。妻はすごい感激してくれたよ。だがWATERLINEについては、「ふーん」てな感じだった。大変だったんだぞ、建てるの(浮かべるの)。大変だったことについては、次回の記事にでも書いてみよう。

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2007年4月22日 (日)

東京・・・ミッドタウン

見学会があるという