2008年6月28日 (土)

50 Years After 1960/巨大高密度都市は誤りか?

朝、テレビを見ていたら、ドバイの若い夫婦の生活を紹介していた。夫は28歳の建築家、妻は22歳。住んでいるマンションは170㎡の3LDK。現代的なインテリアで、高そうな家具やアートに彩られている。おまけに彼は現在、別に自邸を設計中だ。というのも、ドバイでは18歳になる男子には国から100坪ほどの土地が与えられる。彼はすでに土地を有している。このような特権はもちろんドバイ国民のためのもので、他国から出稼ぎに来ている人々には関係の無い話である。そういうことに、俺はなんとなく嫌な感じがした。まだ28歳の、青二才と言っていいような若造が、何の努力もしないうちに、日本だったら大金持ちというような生活を手に入れる。「これで良いのか?」という気持ちを持ったのは倫理的なものだ。もっとも、彼の妻が超美人だということは認めよう。

八束はじめ氏の小論、「50 Years After 1960」の解読を続ける。

BIGNESSは建築家の意図=コントロール可能性を超えている-だからBIGNESSとは都市とほぼ同義語だ-と主張するコールハース・・・

丹下の東京計画1960にせよ、磯崎の丸の内空中都市計画にせよ、丹下やその弟子達が提示したのは「巨大な」都市の構想だったと思うが、今日の東京はそれらの構想をなぞっている。高密度、高層化した都市はかつての建築家(それも丹下をはじめとするスター建築家の)夢だったのではないか?それなのに、今現実に東京に出現している巨大高密都市を、建築家の側が批判しようとするのは筋が通っていない。

丸の内の最初の超高層は前川國男の東京海上火災ビルだが、これを皇居を見下ろすという理由で政治的干渉が行われ上部をカットされた時に一斉に抗議の声を上げたのは建築界ではなかったのか?

思うに、建築家の側がこれらの巨大高密都市のコンセプトに今さらながら反対するとすれば、その最大の理由は、「彼らがもはやこのことに影響力を持たない」ということであろう。主役は彼らではない。

もちろん、このような状況に何の問題も無いわけではない。東京への集中は加速し、地方は過疎化する。東京の一人勝ち。しかし東京の人々が幸せ・・という訳でもない。だからといって地方への拡散を政策的に行うことが正しい選択なのだろうか?八束はむしろ巨大高密度のモデルの可能性に乗ろうとする。

コールハースは、BIGNESSに乗るのはそこにエベレストがあるからという登山家と同じ理由しかないという。・・・・

・・それ(巨大高密度都市)が例えばコンパクト・シティやサスティナブル・コミュニティという別種の仮説より望ましい未来を示すものかどうかという議論をしようとも思わない。それらに根拠がないともいわないが、これを議論の余地のない前提と見なすことにも同意しない。それらの仮説に胸ときめかないことは正直に認めよう。

そして八束は、1960年に丹下が東京計画1960を提出したように、東京計画2010を提出することに意義を見出さない。

私たちの研究はあくまでリサーチである。デザイン中毒者たちが望むかもしれないように、「東京計画2010」を立てるつもりはない。提示されるのはあくまで「可能態」(ありうる姿)であり、最終の姿(あってほしい姿)ではない。50年後の今の時期の流行の建築語彙に置き換えただけのデザインが相応しいとは思えない。何でも形の問題にしてしまい、それを正当化したがる建築家の習性は嘆かわしい。

では巨大高密度都市の存在理由とは何なんだろう。リサーチはそれを立証するのだろうか。

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2008年6月15日 (日)

50 Years After 1960/それで?

休みの日ぐらいは自由に時間を使いたいものだが、たいがい何か「やらねばならないこと」がある。土日の飯作りは、もはや趣味ではなく義務である。義務となったとたん喜びは失われる。料理するだけならさほどではないが、持ち帰った仕事などがある時は、休みの一日などはたちどころに消えてしまう。これは愚痴だ。

「50 Years After 1960」の解読はまだ終わっていない。

都市計画家としての丹下健三の問題意識は何処にあったのか。

丹下の仕事の起源を辿ると、戦前の日本の海外侵略、とりわけ大陸進行に行き当たる。・・・学生時代の丹下は当時の満州帝国の首都新京での坂倉準三のプロジェクトを手伝い、前川事務所勤務時代には新京に赴いて現地の都市造営の熱気に煽られているし、・・・

丹下健三という人はそういう時代の人だったのか・・・という理解は、今を生きる我々からは抜け落ちているかもしれんな。そういえば、俺の親父は丹下より一世代下の人間だが、「中国で馬賊になる」のが子供の頃の夢だったと話していたことがある。その頃、すでに建築家としてのスタートを切っていた丹下健三らの世代は、中国大陸は広大な手付かずの処女地に見えたかもしれんな。レム・コールハースなどが使う言葉、タブララサ(磨かれた板)だったわけだ。そうすると、なぜ彼らがしきりと誇大妄想的-我々にとっては-な都市計画を立てようとしたのかも理解できる。だが日本は戦争に負け、大陸を失う。

そもそも侵略戦争は後者(都市人口の飛躍的な増大)の打開のために「レーベンスラウム(生活圏)」を海外に求める所業でもあった。この帝国主義的な野望が敗戦によって挫折した状況をどう考えるかは丹下の課題であった。

戦災復興に関わった丹下の嘆きは既存の都市が権益で身動きならないことにあったが、であれば新しいレーベンスラウムを求めるべき場所は二つである。海上と空中。60年代前後に発表される丹下やメタボリストの都市プロジェクトはこのどちらか、つまり海上都市か空中都市である。

ごく簡単に言えば、増え続ける(と思われた)人間を収容するため、東京湾にスーパーストラクチャーによる人工大地を作り、そこに高層の建物を建て並べたものが、丹下健三の東京計画1960である。丹下研究室に籍を置き、しかしメタボリズム運動には直接関わらずにいた磯崎新も、1962年には空中都市計画である「丸の内計画」を1962年に作成している。

その当時、建築基準法は31mを超える建物の建設を認めていなかった。丸の内のオフィイス街も31mの高さで抑えられた建物が軒を連ねていた。都市の形態がマクロ的に見るならば法規によって作り出されていたことになる。丹下健三や高山英華を頭目とする建築家、都市計画家の願いはこの規制の撤廃であったろう。

1955年に建築学会では「建築の高層化に関する委員会」が開かれている。委員長は、満州で首都新京の都市計画局長を務めた笠原敏郎で、副委員長は高山英華である。しかし最も重要な役割を果たしたのは会議のワーキンググループのリーダー、丹下研究室を離れたばかりの浅田孝であった。

そして1963年の建築基準法改正により31mの絶対高さ制限は撤廃され、今日、我々が眼にする東京のスカイラインを導くことになったのだ。建築基準法(このようなルールのことをやはりコールハース風に言うならば、アルゴリズム)が街のプロファイルを作り上げてきた。そのようなアルゴリズムを正当化するのは(丹下健三らが行ったような)リサーチである。そこにはデザインは抜きだ。八束はじめはここでコールハースばりのニヒリズムを示す。

デザイン抜きだとすれば建築的な質はどうなるのかという反問は予想している。ディベロッパーの論理とどこが違うのか、という反問も。答えはこうだ。WHO CARES?

都市のアウトラインを決定するのは法規だ・・・個々の建築は限りなく無力だ・・・としたら、その問題を意識した建築家の採る道は、かつての磯崎新のように「都市が見えない」、と宣言し、「手法」へと走るか、あるいは今日コールハースやMVRDVらが唱導するようにリサーチやアルゴリズムに向かうか・・・。八束はじめは後者を選んだという。それは丹下健三の都市計画家としての再評価にもつながる。デザインは問題じゃないのか?ディベロッパーの思うがままじゃないか・・・WHO CARES?(それで?)

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2008年5月25日 (日)

50 Years After 1960/丹下の再評価

八束はじめ氏の小論「50 Years After 1960」の1960とはどういう年なのかということについては、次のようにはっきりと書かれている。

「50 Years After 1960」と題されているのは、丹下健三の「東京計画1960」を出発点としているからである。

1960 八束さんはここで、都市計画家としての丹下健三やそれに続くメタボリスト(腹囲85センチ以上の建築家集団・・というのはウソ。大高正人や菊竹清訓、黒川紀章、槙文彦ら、丹下研究室出身者を中心に『成長と新陳代謝する都市』のアイデアを提示した建築家のこと)の仕事を再評価しようとしている。

建築家、丹下健三はコルビジェに影響を受けながらも、生まれ持った造形力によって、幾多の現代建築の傑作を生み出し、戦後の日本建築界に絶大なる影響を残した・・・というのが大方の認めるところで、丹下さんが都市計画的な構想を抱いていたというのはコルビジェなんかの影響だろうけど、「ほぅ、すごいこと考えていたんだね」、ぐらいの感想しか持てない。なにぶん、実現していないし、実現しそうもない案でもあり・・・。それゆえに丹下さんの都市計画については、藤森照信なんかも次のように総括する。

都市に関して、丹下の真骨頂はデザインにあり、リサーチにはなかった・・・

けれどもこの点こそ、八束はじめ氏が反論し、「お前らぜんぜん見えてないなぁ」、と言いたい部分なのであろう。

東大建築学科での丹下の立場は建築ではなく都市計画の助教授であった。前川事務所から大学に戻ったのも都市計画を学ぶためで、大学での講義や演習もデザインをめぐるものではなかった。

そうして八束さんは丹下が当時提示したものを、歴史的に位置づけ、その意義を実証していく。またその時に、彼はレム・コールハースを幾度も持ち出す。レム・コールハース・・・今日、世界で最も影響力のある建築家にして建築理論家とされる人間。八束はじめは明らかに彼の影響を受け、それを隠しもしない。

丹下のみならずメタボリストのプロジェクトの背景は、すぐ後に論じるように日本の人口増加に伴う大都市への集中、端的には量の問題である。デザイン=質の問題には留まらない。この問題は、「作品」の提出ばかりに余念がない50年後の日本の建築家たち(及び建築ジャーナリズム)は触れようともしないが、依然現実としてわれわれの眼前にある。別掲のコールハースのシンガポール論が、ここを捉えているのはさすがというべきだ。この点でコールハースは日本の建築家よりも『日経ビジネス』のほうに関心を多く共有している・・・

現代の日本の建築家と建築ジャーナリズムに対する鋭い批判である。正直に言って、俺の問題意識と重なる部分はある。結論は相当に違いそうだが。

ちょっと話題を変えるが、ミースはコルビジェと違って、都市レベルの計画というものがない。敢えて言えば、IITのキャンパス計画が都市的と言えば言える。これにはミースを取り巻く人的な環境というものがあるように思える。忘れてはいけないのは、ミースにはバウハウス人脈というのがある。コルビジェは一人で建築家であり、都市計画家であり、時には画家という役割を演じたし、すべてを行うことで彼が目指す建築・都市・芸術の統一的世界が示されていた。すべてを自らが行うことで方向を示したコルビジェと異なり、ミースにはカンディンスキーもいたし、モホイ・ノディもいた。なによりも都市計画家としてのヒルベルザイマーが、常に彼の傍らにいた。ミースはその中で、自分の役割を規定していたのであろう。

ではあるが・・・、ここで一つの問いを提示しよう。今日の世界の都市を見るに、ミースの影響はコルビジェより小さい・・であろうか?

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2008年5月18日 (日)

50 Years After 1960/八束はじめの立ち位置

八束はじめという建築家がいる。今は芝浦工業大学教授をやっているが、この人が雑誌「10+1」の最終号に「50 Years After 1960」という小論を寄稿している。これは俺にはかなり面白い記事であった。現代の建築論や都市論の流れの、それもかなり主流のところを手短に教えてくれる。俺自身の考えと近いところもあり、違うところもあるけれど、この論文を読みながら建築や都市について考えることは、間違いなく知的な楽しみとなるであろう。

八束はじめという人は、俺が学生の頃、いろんな建築のアイデアコンペでそこそこ入賞を果たしていた人だ。その意味では若い頃から知る人ぞ知るという人であり、また当時は東大の博士課程に在学中で、勘ぐるに、建築理論家として磯崎新の後を襲おうという野心は並々ならずあったのではないか。

まあしかし、建築家というのは、理論はともあれ、美的な才能はあるレベル以上持ち合わせていないとどうしても限界がある。八束さんの建築作品というのはいつもそういう限界を感じさせてしまう。頭は超いい人だ。だけども実作には人の心をつかむものが無い。

ま、人物評はこれぐらいで、50 Years After 1960 のことだが、八束はじめ氏はそういう自分の才能のことをかなり自覚しているのであろう・・・などと、読む方は少し「痛い」思いを感じながら読むことになる。だが、今この世界に起きている事に対する立ち位置は(一つの立場として)的確である。

昨年の正月に『日経ビジネス』誌が「もう止まらない 東京大膨張」と題する特集を行なった。建築界がコンパクト・シティとかシュリンキング・シティとかいっているのとは正反対である。・・・

・・・このビジネス誌のテーマはどうだ?ディベロッパーに色目を使うがごときものではないか?しかし、建築界の主流(?)のほうがより客観的に現実を見ており、後者(日経ビジネスの特集)は商業主義的に「誤った」ものだという根拠が本当にあるのかどうか?・・・

・・・つまり、私にとって(「正しい」ではなく)「面白い」テーマは「大膨張」都市であって、コンパクト・シティではない、とまず宣言しておく。

建築を論ずる時に、大膨張する都市-東京に限らず-を前にして、その功罪を挙げていたところでなんになろう。そんなこととは関わりなしに、経済活動として都市は変化し続ける。その事実から目を背けて、一つ一つの建築の「作品としての」出来不出来を論ずることの時代錯誤。八束氏は「面白い」テーマは膨張し続ける都市そのものである・・と言う。そのように自分の立ち位置を宣言する。

余談だが、日本の不動産業界のトップ、三井不動産とか三菱地所の社員の給与は、日本の建設業のトップ、鹿島とか清水建設とかよりかなり高い。下請け業者の給与はもちろんずっと低い。下請け業者の雇う日雇い労働者の年収は、不動産トップの会社の平均的社員の10分の1よりちょっとだけ多いという程度だろう。川上にいる者が川下にいる者を収奪しているという今の日本の構図は、悲しくもK.マルクスが130年前に指摘したとおりである。

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2008年1月31日 (木)

茂木健一郎から教わる建築の意味

建築学会の機関誌は「建築雑誌」という名前で、「そのまんまやんけっ!!」というつっこみを入れる人は俺を始めとして約10万人いる。その雑誌がどうもあまり面白くない、かつ役に立たないという議論も相当あるようで、最新の建築雑誌は建築雑誌のあり方云々を論ずる特集であったように記憶する。記憶するだけで確かめようが無い。なぜなら、役に立たないので捨てたからだ。

すぐに捨てることの多い建築雑誌だが(ところで、ここでの建築雑誌は建築の雑誌という一般名称のことではなく、建築学会が出している機関誌であるところの「建築雑誌」という建築の雑誌のことだ)、どういうわけか古いものが残っていることがある。2005年10月号の建築雑誌が出てきたので、ぱらぱらとページをめくっていたら、寄稿者の中に茂木健一郎の名前を見つけた。脳科学者としての茂木健一郎は最近随分有名になって、テレビでもよく見る文化人になったが、2005年当時はまだそれほどではなかったと思う。有名になった茂木健一郎だが、俺は彼の書いた本を読んだことが無いので、何をする人なのかいまいちよく分からない。だが、この度発見した建築雑誌の中で、彼はとても面白いことを書いてくれているので要約して書きとめておこう。

まず彼は、1972年にローマにあるシンクタンク「ローマクラブ」が「成長の限界」というレポートを発表して、大きな反響を呼び起こしたことから論を始める。資本主義社会において経済成長が無限に続くというシナリオは、地球の自然のキャパシティが有限であることに着目すれば、いずれその限界に至るという、極めて当然と思える結論を、そのことから目を背けている人間に突きつけたのがこの報告書である。しかし茂木は、人間社会がより高度に組織化される中で、この単純なマスとしての限界は乗り越えてきたと言う。ところが、近年、いわゆるIT(情報技術)がポスト工業化社会を誕生させ、情報、知識を扱うこと自体が経済活動の主要な目的になってきたこと、そしてITにはローマクラブが指摘したような制約はもともと存在しないと思われてきたことを紹介した上で、しかし限界は思わぬところから顕在化して来たと言うのだ。

それは、人間の脳の情報処理能力、容量の制約による限界である

・・・・・

今後、大容量のブロードバンドが普及し、テクストだけでなく好きな音楽、映像がインターネットをとおして容易に得られる時代が来たとしても、果たして私たちはそれを味わう時間と心の余裕を持つのだろうか。

・・・・・

現在の状況は、過剰なデジタル情報が人間の脳の有限の可処分時間、可処分注意を奪い合う、情報過剰の時代への突入を予感させるのである。

この指摘は、俺も何となく心の底にあった「IT社会への疑念」に符合するもので、「なるほどそうだよな」と肯かせるものである。我々は今や情報の洪水の中ですでに溺れており、快適というよりもむしろオーバーヒートする脳の機能不全に悩まされているのではないか。それを俺は「情報過多に起因する精神の故郷喪失」と呼びたい。そして茂木は「最後の1メートル」について述べる。

一生を終えるときに、「ああ、毎日メールをたくさん読んで、ネットサーフィンして、いい人生だった」と思うのと、「毎日庭で草花の手入れをしていい人生だった」と思うのの、どちらがよいか。ムーアの法則に従ってデジタル情報が爆発的に増大したとしても、それに人間が付き合う筋合いは毛頭ない。

2002年にノーベル経済学賞を受賞したカーネマンらの「行動経済学」の研究の過程において、人間は、必ずしも外部的に規定された経済的合理性に従って行動するとは限らないことが示された。・・・

・・・検索エンジンをはじめとするウェブ上のデジタル情報からのマイニング技術は、論理的操作の積み重ねによって、人間にとって価値のある情報をユーザーのパーソナル・コンピューター画面まで持ってくる。しかし、ユーザーの知覚品質までの「最後の1メートル」をどのように設計するかによって、その情報が最終的に人間のよりよき生き方に寄与するかどうかは大きく左右される。

知覚というものが人間による情報の受容であるとすると、確かに機械的に膨大な量の情報を発信できるかもしれないが、その受容の段階では人間の脳という極めて情動的で限界のあるスクリーニングを経ることになるのである。この一連の機械・人間システムの中から良くも悪くも「生きている人間」という古い概念を排除することなど、そもそもできないのではないか。建築の側に引き寄せて考えれば、「ITが建築に影響を与えて、建築そのものの概念を覆す」と考えるのは、あまりに能天気な思考だと思えるが、どうだろう。茂木の論を追おう。

もちろん、われわれはITなしでは、もはや生きていくことはできない。人間がITに合わせるのではなく、ITの側が人間に合わせるように進化することによって、ITの「成長の限界」を乗り越えることは可能なはずだ。

建築もまた、今やIT抜きで考えることは難しい。しかし、建築は本来、人間の為にあるのであり、ITの為に変容していかねばならない義理は無い。建築を考える出発点は依然として人間であり、人間以外にあり得ないということになる。変わらなければならないのはITの方であって、人間がITの側に擦り寄ってどうする。

茂木はここで、彼の専門の脳科学の知見から、人間の情報認識は「クオリア」と呼ばれるある質によって行われていると述べる。それは心理学あるいは認識論に通ずる議論であり、脳を研究することで、哲学的思考が科学的に裏付けられているように思える。

私たち人間の意識のなかでは、すべての情報はある質感を持った「クオリア」(qualia)として認識されている。それが、シンボリックな記号であれ、抽象的な数字であれ、あるいは赤や青といった色であれ、ある情報が意識のなかで、他と区別される形でユニークに把握されるとき、それはひとつのクオリアとして立ち上がるのである。

そして、脳の中でクオリアが生成されるメカニズムを考えると、一つの重要な性質が指摘される。それは「クオリアの非可算性」である。

例えば、「メロンを食べる」という体験は、メロンの「香り」、「甘み」、咀嚼し、飲み込むときの「テクスチャ」のクオリアをそれぞれ単独で味わったものの単純可算以上の新しい質感をもたらしている。

建築、あるいは空間を体験することは、このようなクオリアによる認識の特性によりうまく説明されるように思う。建築の最も重要な部分は、技法的に考えるならば、造形ではなく組み合わせの妙味である。

短い論文の結論部分で、茂木は建築の可能性について、脳科学者の立場からエールを送っている。それは極めて示唆的で、また建築に関わる者に勇気を与える。長くなるが引用する。

・・・空間は、並列性を展開することが本来的なメディアである。空間の設いをその本分とする建築が、人間に固有のクオリア体験を与えるうえで特権的な可能性を占めていることは言うまでもない。

・・・・・

IT全盛の現在だが、人間の体験の質という視点から見たITの限界はすでに今ここにある危機である。この踊り場を乗り越えることは、空間設いのアートとしての建築がITにすり寄ることではなく、ITの限界を建築をはじめとする人間の全体性を扱う知恵が、発展的に補足することで初めて可能になる。

人間の内なる自然に論理的、シンボル的な演算を持ち込むという意味での陳腐な「サイバー」を超えた地点に、ITと建築融合の真の可能性があるのである。

茂木健一郎か、・・見直した。

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2007年6月 9日 (土)

ルイス・カーン/この建築家から何を学ぶのか

ここに一冊の美しい本がある。TOTO出版から出されている「Louis I. Kahn Houses ルイス・カーンの全住宅」という本だ。ルイス・カーンは1974年、心臓発作によりニューヨークのペンシルバニア駅トイレで急死し、死後三日間、誰であるのか判らなかったと言われている伝説的な建築家である。その作品を建築の専門誌で始めて見た学生の頃、俺は一見してそのモニュメンタルで神秘的な造形にショックを受け、彼が死んだのを知ってから数年の間は、雑誌に載った彼の写真を切り抜いて自分の手帳に挟んでいた。つまり、心酔していたわけである。しかしやがてミースに、より普遍的なものを感じるようになり、カーンについてはミースとの相対的位置において解釈するようになったのである。とは言え、ルイス・カーンは20世紀における最も重要な、かつ影響力の大きかった建築家の一人であったことは間違いが無い。

ルイス・カーンは、数々の大プロジェクトを抱えた多忙な晩年においても、住宅の設計を引き受けたということである。そのもっとも有名なものは、コーマン邸であり、フィッシャー邸であり、あるいはエシェリック邸である。「Louis I. Kahn Houses ルイス・カーンの全住宅」にはそれらが美しい写真とともに紹介されている。これらの家はいずれもペンシルバニア州フィラデルフィアの郊外に建てられている。

Photo_8エシェリック邸かな、俺の一番好きなのは。まあこれは好みで言っているので、フィッシャー邸が良いと言う人もいるだろう。いずれの家も、極上のプロポーションを持った窓で穴を穿たれている。それゆえ、室内からフィラデルフィア郊外の豊かな自然を眺めた写真がすばらしい。絵になる。

外観はどれもそれらすばらしい自然の中で、そこに置かれた一つの彫刻であるかのようにくっきりとした存在感を示している。カーンの場合、物質感、素材感というものがとりわけ重要なテーマとして、建物全体の印象を作り出している。木は木であり、鉄は鉄として、天と地との間にはっきりとした存在を現している。それをそのように在らしめているのは光であり、それを有効に働かせるディテールである。

しかしそれゆえに、カーンの住宅はライトやミースの住宅作品とは空間の捉え方が異なっている。カーンの住宅は、本質的に砦である。自然に対して防御的な構えを見せているように思う。なるほど、室内からは十分に美しい自然を眺めることができ、堅実に穿たれた窓から入る光がいずれの家の内部空間も厳かでありながら温かみのあるものにしているのだが・・・それが、これらの家の魅力であることは疑いようのないものなのだが。Photo_9 ミースのファンズワース邸はイリノイ州にあるから、フィラデルフィア郊外と同様に冬は雪も降るし、自然条件は同じようなものである。しかし、ファンズワース邸には外へ開いて行こうという意志が感じられる。前にも書いたが、ミースは欧米の現代建築家の中ではテラスの効果を最も意識的に使った建築家である。

カーンの描いた住宅の平面を見ると、内と外があり、大別すればそれだけである。ミースの住宅には、内、外、その中間領域を指摘することができる。カーンのやり方を批判しようというのではない。建築家はどちらのやり方もあることを理解しなければならない。

それにしてもカーンが設計に際して、例えば住宅なら住宅を初源から考えようとしていたことを忘れてはならない。その思索はハイデッガーに通じるものがある。彼が詩人のような建築家であると評される所以である。

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2007年5月 4日 (金)

原・現代住宅再見

しばらく羽仁五郎の「都市の論理」について書いたが、政治的、社会思想的なことにかなり言及したように思う。建築や都市の問題がこれらのことと無縁ではないため、そういうことも勉強の内と考えている。しかし、思想的なことそれ自体が自分の関心の中心にあるのではない。

藤森照信の「原・現代住宅再見」を通勤電車の車中を利用して読んだ。こちらは「都市の論理」のような重い内容ではない。TOTO通信に連載されていた記事をまとめて本にしたものである。取り上げられている住宅は、本野精吾の「自邸」、藤井厚二の「聴竹居」、本野精吾の「旧鶴巻邸」、清家清の「森博士の家」、増沢洵の「コアのあるH氏のすまい」、山脇巌の「諸井邸」、菊竹清訓の「スカイハウス」、篠原一男の「から傘の家」、広瀬謙二の「SH-60およびSH-67」、吉村順三の「軽井沢の山荘」、藤木忠善の「すまい/サニーボックス」、川井健二の「ドラムカンの家」、東孝光の「塔の家」、原広司の「伊藤邸」、渡邊洋治の「龍の砦」、以上14人の建築家、15の家である。

俺はこれらの建築家の内、本野精吾は初聞きで、もちろんその作品のことは今までに聞いたことも無いものであり、広瀬謙二の「SH-60」というのは前に写真で見たことぐらいあるのかもしれないが、覚えてはいないものであった。原広司はもちろん有名な人だから知っているけれど、「伊藤邸」というのは記憶になかったなぁ。

今日もあまり時間が無いので、一つだけ。「SH-60」が興味深い。ミース的なのだけど、ミース程には洗練されていない。そして閉鎖的。原広司「伊藤邸」も閉鎖的。そして藤森照信も言っているのだけれど、安藤忠雄も閉鎖的な住宅をいくつも設計している。日本という国では、都市との関わり方というのが、これら前衛的建築家の住宅作品において度々閉鎖的であった・・・ということ。この意味についてはまた時間があれば考えを整理したい。

Sh60_1SH-60の平面および断面

外に面する窓が無い。採光はすべて囲われた庭からとられている。

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2007年5月 3日 (木)

「都市の論理」/自由都市

ルネサンスの自由都市はやがて挫折したのである。ルネサンスにおいて現れた自由都市連合は、やがて絶対王政に取って代わられる。何故に、より民主的な制度が封建的制度によって打ち負かされてしまったのか。そのことについての羽仁五郎の分析は本当に面白く、引き込まれる。要するにその原因は、ルネサンスの自由都市における民主主義が中途半端であった・・・とするのである。その故に、封建君主に付け入る隙を与えた・・・と考えるのである。

そうして羽仁氏が続けて考えるには、

特権階級の専制または独裁を根絶するには、新しい人民の階級の専制または独裁が必要であるというのは、本質的の問題であって・・・

民主主義は平等であるとか、言論の自由であるとかいうのは形式論で、主権在民、人民主権ということが実質論である。民主主義というのは誰でも自由にいろいろなことが言えるのだというようなことではなく、民主主義の第一の前提条件は、人民主権ということにある。したがって、人民主権に反するような言論の自由というものはありえない。それをファシズムとおなじ言論統制であるように言い、共産主義も全体主義であるように非難するのは反革命の反動的逆宣伝である。

また彼は、軍備についても人民軍のようなものを民主的軍隊として認める。

民兵制はつねに平和を欲し、必要があれば徹底的に戦闘的であるが、傭兵制は、常に戦争を前提し、しかも必ずしも戦闘的ではない・・・

俺が高校3年の時、つまり大学入試の直前なんだけど、浅間山荘事件が起こった。内ゲバという組織内の粛清。銃を手にした武力革命の信奉。その結果は胸糞の悪いものであり、不気味なものであり・・・。社会改革の手段としてのマルクス主義の胡散臭さは、俺にだけではなく、多くのティーンエージャーの鼻腔にこびりついてしまった。そうしてノンポリ学生の時代が始まったのである。

「人民主権に反するような言論の自由というものはありえない」と、革命的学生達は信じたのだが、そうして、「ある言論が人民主権に反するかどうか」を決める権利は自分達にあると考えたのであろう。神が現れる。独善的なる神が。

羽仁五郎の「都市の論理」を今さらながら読み始めたのは、ようやく当時の学生運動家を動かしていた論理を、鼻をつまむことなく触れてみることができるのではないかと思ったからである。当時を客観的に見る位置に、我々はようやくたどりついたのではないだろうか。

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2007年4月14日 (土)

「都市の論理」より/家族

羽仁五郎の「都市の論理」には家族に関する記述がある。

この”家族、私有財産及び国家の起源”という書物で、現在のわれわれコンミュニティの問題にとって、非常に注目すべきものではないかと考えられるのは、社会というものと家族というものとは対立しているものだという思想が、この本の中を貫いている非常に太い線ではないかと考えられる点です。

「家族、私有財産及び国家の起源」というのはエンゲルスの著書である。羽仁氏はその本の中でエンゲルスが「家族は社会に対立したしくみだ」と指摘していると言うのである。

原始的な社会というものが、いわゆる結婚の形態のほうから言えば、無規律の性交、それから、それが、社会的な形態のほうから言えば郡団、つまり、郡団というのは、ホルデというドイツ語の日本語訳です。ホルデというのは動物の場合にも使うようなことばですが、そういう群をなしている生活、そういうものから、家族というものは、対立関係で生まれてきて、対立関係でなければ生まれて来ないのです。・・・

・・・それで、郡団から家族になり、そして、その家族はついに一夫一婦制というものに到達する。この中で、ファミリアということばが、もとは奴隷ということを意味しているということをエンゲルスは指摘していますが、・・・

・・・一夫一婦制というものは、性愛というものとはなんら関係が無いということですね。それで、一夫一婦制というのは奴隷制である。一夫一婦制というのは、私有財産が発展して、そして、それがいかに相続されるかという上の制度であって、性愛とは全く関係がないのです。・・・

・・・そういう意味で、家族の成立というのは、最初の階級対立である。したがって、階級対立に伴うあらゆる矛盾がそこに含まれている。

家族というものを社会の最小単位と見る考え方があろうと思うが、マルクス主義的な見方では、家族制度と社会とはそもそも対立するものであり、特に夫婦の関係というものが、束縛という人間関係の強調において解釈されている。すごい指摘だ。

それで、原始的な集団、いわゆる郡団の時代にはあり得なかった現象、すなわち戦争という現象が発生する。・・・

・・・エンゲルスは、そういう原始的な集団から家族が発生し一夫一婦制が発生する。そして、原始的な氏族から家族が発生する。原始的な共産的な生産制度から私有財産制というものが発生する。それから、家の中では、家政が社会的な産業であった時代から家政が私的な労役になった時代に移っていく。そして、平等であった女性が男性に対して隷属する状態が発生してくる。それから、平和の状態が失われて戦争の状態が、現れて来た。

そうかぁ・・、戦争というのは家族という制度が成立するのと軌を一にして発生するようになるのかぁ・・・。なるほどなるほど、それでマルクス主義ではプロレタリア独裁の完成をもって戦争がなくなると考えたのか。

そして最後に、これらに対して、現代にプロレタリアトが発生することによって、これらの失われたものがすべて復活するというように考えています。その性愛においても、プロレタリアトにおいてだけ、--プロレタリアトは財産がないのですから、したがって、その財産の相続ということに妨げられない純粋な性愛というものが復活してくる。

羽仁氏の主張に従えば、純粋な愛もプロレタリアトでなければ、「理論的に言って」あり得ないのである。まことにマルクス主義は万能薬である。すべてがこれによって解決される。

しかし、今日、「家族」をこのように考える考え方を支持する人は多くはないだろう。日本で起こっていることはむしろ、「いかにして家族を再生するか」ということに対する関心であるように思える。ただ、俺は、家族と社会との関係というものを今一度考えてみたいと思う。家族は本当に社会の良き最小単位なのか?それとも家族こそ個人の自由を束縛するだけの「奴隷制度」なのか?

羽仁五郎氏は実はすごいブルジョアの出身である。父親は第四十銀行の初代頭取。羽仁五郎氏自身は東京府立第四中学校時代、学校の方針に逆らって停学処分を受けている。ここから何となく想像するのだが、この羽仁五郎の父親っていうのは、いかにも戦前の日本の親父みたいな、家族に対して抑圧的な人だったのでは?息子に対しても、もちろん厳格だったのだろう。羽仁五郎の資本主義に対する嫌悪感、家族制度への攻撃も、案外そういう個人的な経験から発生していたのかもしれないと・・俺は思うのである。

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2007年4月 7日 (土)

「都市の論理」を読み終えて思う

羽仁五郎などと言っても、今時は知らない人が多いかもしれない。35年以上前に大学に学生運動の嵐が吹き荒れたが、その理論的支柱とも見られたバリバリのマルクス主義者である。本業は歴史学者ということだが、戦後に参議院議員をやったりもした。この人の著作に「都市の論理」というのがある。俺はそれこそ30年ぐらい前にこの本を買い、本棚の肥やしにしたまま一度も読むことなく置いてあった。それを一ヶ月前ぐらいから読み始め、ついに読み終えることができた。なにしろ600ページを超える大著である。

1968年に始めて出版されたこの本を今読むと、その後のマルクス主義運動の命運を知っているだけに的外れの部分は多い。と同時に昔も今も変わらずある日本の官僚や政治家の身勝手に関する記述は、この40年、彼らが相変わらずの腐敗を繰り返し、まったく進歩していないことに気付かせてくれる。

世界的に見てマルクス主義がその実践を各所で失敗した結果、現代の日本ではそこから学ぶことはもはや何も無いという扱われ方だが、本当にそうだろうか。今回「都市の論理」を読んで思ったことだが、過去の歴史の分析はやはり面白いし、説得力がある。しかし、その結果、人間社会の終局の形としてプロレタリア独裁を構想し、それに反対するものを反動として罵倒して行ったその実践がもたらした悲劇の数々を、2007年の今日に生きる我々は知っている。

序説において、羽仁氏はコミュニティ(地域社会)という概念を曖昧だとして切り捨てる。

第一に、忌憚なくいわせていただいたほうがよいと思うのは、地域社会とかコンミュニティとかいう概念は、全然、学問的ではない、ということであります。この分化集会の報告を、どう、どっからうかがっても、まったくあいまいですね。

そうして、自治体という概念をこそ用いるべきだと主張する。

地域社会といういうあいまいな概念を、もっと深く研究して、精確な概念を構成しようとするならば、やはり自治体という概念を使用すべきであることが、明らかにされるでありましょう。

自治体という概念は、学問的にしっかりしています。自治体という概念は、歴史的にも、理論的にも、試練にたえてきています。少なくとも、自治体という概念は、地域社会という概念よりも、しっかりしている。

おそらく、自治体という政治的な実態のあるまとまりを、自然発生的な地域社会というものの上位に置かなければ、政治的な運動の主体を明確にできないと考えたのであろう。政治的、社会思想的な具体的活動こそ、羽仁氏が絶対に必要であると思っていたからである。

次回以降もしばらく、「都市の論理」について記録していこうと思う。

ところで羽仁氏は、常に彼の言う”学問的”であることを、あるいは著書の他の場所では”論理的”であることを絶対的に支持し、そうでないことを馬鹿にするか、罵倒する。それには度々「反動的」という言葉が用いられる。今日の眼から見れば、まさに独善的な態度という他無い。最初に批判しておきたい。

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2007年1月 8日 (月)

愛国か・・・

姜尚中の「愛国の作法」を読んだ。最近この手の政治的な本を読むなぁ・・。言っとくけど、俺は政治的人間ではない。政治なんかどうでもいいとまでは思わないが、そのことで口角泡を飛ばして議論するような人間ではない。しかし、俺の関心が最も強い都市や建築空間のことを考えていると、どこかで政治的なものと繋がっているのも事実だとは思う。

「愛国の作法」は小難しい本だ。姜尚中は東大教授で政治学者だから当然理屈っぽい。よく言えば緻密な理論を展開する。しかし、この難しい本の中で結局言いたいのは、「国を批判的に見ることこそ真に愛国的態度なのだ」ということではないか。俺はそう読んだ。

この本の中ではしかし、多くの愛国を廻る問題点が取り上げられており、それらをどう考えるかは個人の問題だとしても、確かに示唆に富んでいる。「愛国は愛郷の延長ではない」という議論もその一つだ。俺は若い頃に米国にしばらく住んでいた。米国は存外美しい国だということは前に書いた。そのまま米国に住み着いても良いという気もあったが、様々の理由で日本に戻った。その様々の理由の一つが故郷への愛着であったことは間違いない。愛国ではない。姜尚中は安倍首相が、「郷土を愛する心は国を愛する心の源である」としているその思考を批判している。そしてその論は俺も実感として納得できるものである。愛郷は自然的であっても、愛国は相当程度政治的なものである。

そもそも、愛国と言いながらその実は、時の為政者が自らが執り行う政策への無条件な追従を求める、その踏み絵として「愛国」を取り扱うなら、それは極めて危険な装置へと変貌するのである。愛国に罪は無いとしても、愛国は政治的に利用し得るのだろう。

俺はこう思うよ。愛国と言えども様々に解釈され得る。そうであれば、愛国のあり方も各々自由であるべきだろう。パラドキシカルな言い方だけれど、「国を愛せない人々の存在を認めること」もまた、愛国的な態度だとも言える。

ところで姜尚中に対する俺の印象だが、ちょっと面白くなさそう。眉間にシワをよせたような顔がね。あまり親しくお付き合いしたいタイプの人ではない。でもさすがに頭は明晰な人のようだ。

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2006年11月11日 (土)

太田光と中沢新一

爆笑問題の太田光を嫌う人は結構多いらしい。俺も実は多少の不快感無しに彼を見ることができないでいる。「憲法九条を世界遺産に」という新書本を書店で手に取り、その議論に引き込まれるところがあったので、そのまま購入し読んだ。宗教学者の中沢新一との対談を中心とした本だ。憲法九条のことは俺自身考えるところもあるが、それはさておき、何故、俺が太田光に対して不快感を感じるのかな・・ということを、この度は考えてみた。

一言で言うと、狂気である。太田の中にある狂気。電車の中に時々いるでしょ、あきらかに普通じゃないやつ。近寄らんほうがええな・・というやつである。この太田の持つ狂気のことは、「憲法九条を世界遺産に」の中で、太田自身ほとんど白状してしまっている。

九条を守る。特別な国であり続ける。という思考をする時に、私の中に確かに”恍惚”がある。

狂気が許されるのは芸術の世界ぐらいかな。芸術についてはね、俺も感動したいと思う。それはエクスタシーよ、恍惚よ。しかし、政治の世界に感動は要らない・・というのが俺の考え方なの・・・。そういう意味では安倍晋三にも期待してない。「うつくしい国を目指す」などと臆面もなく言う人間に期待してはいない。爆笑問題の太田がちょっと危ない眼をしながらシュールなボケをかますのは良い。笑えるね。でもその同じ眼でね、平和とか政治の話をしだすと、ちょっとね、引く。太田光はね、小泉さんのことも随分批判してたのだけど、彼は他ならぬ小泉さんに近い部分がある。ただ小泉純一郎には愛嬌があるのだが、太田光にはそれが無い、もしくは少ない。そりゃ太田光の負けだよ。

中沢新一は麻原彰晃に騙された宗教学者ということで、評判を下げた人だ。父親、祖父、そして叔父も学者という一家に育った。そこから想像される通りの頭の良さと(思考の)ひ弱さを併せ持った人物だと思われる。

狂気についてはこう思う。右へ行こうが、左へ行こうが、真中を突き進もうが、狂気へ至ればそのどの方向であろうと、薄壁一枚で隣り合っている・・・と。

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