2007年11月 2日 (金)

謝らない日本の官僚

どうも日本の官僚は、「ごめんなさい。私共の誤りでした」と、言うのが苦手らしい。まあこれは日本の官僚に限ったことではないらしいので、役人という仕事がそういう人間を育てていくのかもしれない。俺の友人にも官僚がいるのだが、友人として付き合う分には優秀な気の良い奴らばっかりで、近頃の年金問題、薬事行政、あるいは建築行政の失態を見聞きするに付け、なんで優秀な奴らが寄り集まっていながらこういうことになるのか・・と、これは一つの謎である。

近頃は自分で役所へ行くことはめったにないが、昔は役所で役人と話して不愉快な思いをしたことは一度や二度ではない。役人と民間人が相対すると、役人の言うことは口から出たとたんに、その時その場では法律に準ずる言葉になる。戦前などと違い、役人と言えども最初から偉そうな口をきくのはさすがにあまりない。一応丁寧に挨拶はしてくれるが、一旦話し出せば、むこうは指導する人、こちらは指導される人だ。それを長く続ければ自ずと、自分が誤るなんてことはあり得ない気がしてくるのだろう。そうして謝ることもなくなる。いつでも謝る用意をしているような俺達民間人とは違う人種になっていくのだろうな。

11月1日の朝日新聞朝刊の第11面には、今年6月20日より施行された建築基準法等改正により、住宅着工件数が極端に落ち込んでいることを取り上げている。9月は前年比で44%の減であるが、10月は更に落ち込むかもしれない。こうなれば、実体経済に悪影響を与えるのは必至で、建物を建てるのに必要な時間が7、8ヶ月から長い時は2年ぐらいかかるのを考えれば、今直ちに着工件数が回復したとしても、その影響はこれから半年から1年以上も続くことであろう。確かに姉歯事件は建築の安全に対する信頼を大きく揺るがした事件であり、その再発防止のために建築確認審査などの審査システムを見直すことは、社会的な要請でもあっただろう。だが、この審査システムの極端とも言える厳格化が、実際には実行不可能に近いだろうという民間側からの意見を、国交省は結局、一顧だにすることなく、今回の無謀な改正施行に踏み切ったわけである。その結果、建築確認行政は恐ろしく不効率なものとなり、審査を通って着工に至る案件数が激減したわけである。本来、5年はかけて準備すべきほどの大改正を1年でやろうとした国交省の役人の頭の中は、「やれと指令を出しさえすれば、あとは民間はついて来る」という、民間の人間であれば信じられないような未熟な思考で埋められているのではないか。以下は新聞の引用だ。

経済同友会の桜井正光代表幹事は31日の定例記者会見で「建築基準法改正は、運用上では本当に耐震に影響するものから周辺に、何段階かに分けて広げていく(必要があった)。こういうことをやらないのは失政に近い」と国交省の運用のまずさを批判した。

このところ、国交省側も驚いて、建築確認審査における厳格化を緩和する通達を出している。少し客観的に見てみると実にぶざまである。しかも、それらの通達の中でも、彼らは「法改正の趣旨は理解された上で・・」と但し書きをつけたがる。端から謝る気は無い。「やろうとしたことは正しかったんだ」と言い訳をしつつ、「やりすぎないように」と、各都道府県に通達を出そうというのである。エエイッ!問答無用じゃ。

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2007年9月16日 (日)

あべちゃん/リーダーの条件

あべちゃんには最初から疑問を持っていた。でも昨年の今頃、日本国民の約半数は積極的に安倍晋三を支持してたよね。ここに来ての論調はひどいよ。ちょっと可哀想に思えてきた。もういいよ、あの人は十分に傷ついたみたいだ。ひょっとすると政治生命まで奪われたかもしれない。これほどの酷い退場劇。参院選敗北後に速やかに辞任していれば将来に可能性を残したかもしれない彼の再登板は、これで永久に無いと思う。

とは言え、あの人は自分の役割を誤解していたな。歴史に残る首相になりたかったみたいだけど・・・。確かに皆の記憶に残ったかもししれない。彼が望んだのとは逆の意味でね。

02 (組織の)リーダーになるには3つの条件が必要だと何かで読んだ。国も一つの組織だから首相にも当てはまると思うけど。その3つの条件とは、「能力」「人望」「正統性」だということだ。「能力」は当たり前だが、それだけでは駄目なのね。石田三成の例をひもとくまでもない。「人望」の無い人はやはりリーダーとしてはノーグッド。そして「正統性」。これが案外重要な要素だというのは、社会に出て俺達ぐらいの歳になるとわかってくる。能力があって人望があればいいじゃないか・・なんて青臭いこと言ってちゃいけない。大事だよ、正統性。じゃがね、安倍首相の場合、首相になった当時は「正統性」と国民的人気はあったんだね。最初から「人気」であって「人望」じゃなかったように思う。そして「能力」が無いことが明らかになるにつけ、その国民的人気も急落して行ったというわけだ。

01 てなことを、麻布十番の「あべちゃん」で友人と話していたのが、安倍晋三の辞任表明会見の前の日だ。麻布十番の「あべちゃん」は上出来の店。冷えたビールで焼きトンを喰らう。モツ煮込みも良し。あぁ、庶民でよかった・・・と。

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2007年9月 9日 (日)

近所のお店は消えて行き/9月8日朝日新聞

「タヌキやキツネの出る所狙え」・・・何の話かと思った。9月8日朝日新聞朝刊の第13面の記事である。郊外型のショッピングセンターの出店のことだ。イオンの岡田卓也さんが発した言葉として業界では有名なのだそうだ。それは、一旦置いておいて、問題は地方の商店街の衰退である。

先日、妻と映画を見に行った。車で15分ほど行ったところにある大きなショッピングセンターには、いわゆるシネマコンプレックスがあり、複数の映画を上映している。お目当ての映画を見終わってから買い物をして帰った。便利だ。売っているものもそこそこ安い。

たまに京都に帰ると、子供の頃にあった近所のお店が随分と店を閉じたのに気づく。高齢の母には、遠くのマーケットまで買い物に行くのがかなり辛くなってきたようだ。都会に住んでいるのに買い物が不便とは・・。

30をちょっと過ぎた歳のころ、仕事でデトロイトにしばらく滞在していた。中流以上の人々は郊外に居を構え、市の中心部は随分荒れ果ててスラム化していた。デトロイトは今でもあんな具合なのか?

9月8日の朝日新聞朝刊を読んでいろいろな思いが頭をよぎった。しかし言えるのは、この30~40年ほどの間、日本の国は、政府は、都市の中に育った近隣住民の為の商店街を見捨ててきた。好意的に考えれば、人々の生活パターンの変化を前に打つ手が無かったのかも知れない。いずれにせよ商店街は壊れ、店は空き家となり、あるいは壊されて駐車場となった。いくつかの空いた土地は地上げされ、アパートやマンションが建つ事もあろう。それらは経済的な力学により、変貌して行く。それが都市構造の変化であり、無理やり押しとどめることは難しいのかもしれない。けれども本当にそれで良いのだろうか?我々がその変化の中で失ってきたものを考えてみる。八百屋や魚屋の店先で交わされていた「まけろ」「10円引きます」というたぐいの会話・・・もちろんスーパーのレジでそのような会話はあり得ない。魚屋では選んだ魚を焼いてくれる。焼き加減を注文する。店は焼いた上に届けてくれたりもする。そういうやりとりの中で育っていった地域の連帯感。近隣の店が無くなるという事は、街が崩壊しているということなのではないか。してみれば、国は、政府は、(人が住まう)街の構造が崩れていくのを手助けしてきた、と言って悪ければ、座して見ていたということにならないか。

無能の政府、官僚集団・・・という言葉をぐっと口の奥に押し殺しながら、しかし、一方で様々の規制の強化もあることに思い至ると愕然とする。この度の改正建築基準法等の施行により、現在、確認申請業務が大混乱していることは建築関係者にはほぼ明らかである。誰の思いつきだったのだろう?来年には一級建築士制度の見直しがあり、構造一級建築士や設備一級建築士ができる。何も知らない人にとっては、姉歯事件をきっかけに建築士の資格制度そのものを国が見直した結果だと映るであろう。だが、ことの本質はそうではない。建築の構造技術者については民間の自主団体だが、日本建築構造技術者協会があり、そこが認定する建築構造士制度がある。建築設備についてはやはり、建築設備技術者協会があり、建築設備士を認定している。それらの資格は、民間とはいえすでに高度の技術者資格として業界内で十分に認知されている。普通に考えれば、それらの資格制度を国の制度に位置づければ良いことである。それでは何故、構造一級建築士や設備一級建築士を新たに設けようとするのか。推定できる、かつ納得できる答えは一つである。構造一級建築士、設備一級建築士制度がいよいよ施行の暁には、それらの資格試験や免許の管理のため、めでたくも新たな公益法人が必要だと主張できる・・そのことである。そうして新たな国交省役人の天下り先が確保できることになる。

俺が子供の頃、近所の店から御用聞きが回ってきたものだが、なんか押し付けがましくていやな印象を持ったものなのだが・・・これは考えてみると現状打破の一つの手かもしれない。郊外型のショッピングセンターは車を前提として成り立っている。俺たち家族も、車があることを前提で今の住居に住んでいる。だが住民のすべてが車を所有しているわけではない。高齢化がすすむ都市部においては、俺の京都の実家を引き合いに出すまでも無く、新しい販売サービスの形態が生まれるチャンスがあるように思う。そういうことをしかし、大手、たとえばイオンやオリンピックなどの大規模小売店舗を経営する会社にまかせてはいけない。彼らには資本も人材もある。やろうと思えば短期間のうちに、洗練された大規模な販売システムを構築できるだろう。だが、国や地方自治体は今度こそ、地元密着型の小売販売システムを、まさに風前の灯の商店街を軸に構築していく必要があるのではないか。そのためには指導者も必要だろう。システム構築できる人材も必要だろう。もちろん資金も必要だ。だが、そこにこそ税金は使われるべきである。

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2007年5月 3日 (木)

「都市の論理」/自由都市

ルネサンスの自由都市はやがて挫折したのである。ルネサンスにおいて現れた自由都市連合は、やがて絶対王政に取って代わられる。何故に、より民主的な制度が封建的制度によって打ち負かされてしまったのか。そのことについての羽仁五郎の分析は本当に面白く、引き込まれる。要するにその原因は、ルネサンスの自由都市における民主主義が中途半端であった・・・とするのである。その故に、封建君主に付け入る隙を与えた・・・と考えるのである。

そうして羽仁氏が続けて考えるには、

特権階級の専制または独裁を根絶するには、新しい人民の階級の専制または独裁が必要であるというのは、本質的の問題であって・・・

民主主義は平等であるとか、言論の自由であるとかいうのは形式論で、主権在民、人民主権ということが実質論である。民主主義というのは誰でも自由にいろいろなことが言えるのだというようなことではなく、民主主義の第一の前提条件は、人民主権ということにある。したがって、人民主権に反するような言論の自由というものはありえない。それをファシズムとおなじ言論統制であるように言い、共産主義も全体主義であるように非難するのは反革命の反動的逆宣伝である。

また彼は、軍備についても人民軍のようなものを民主的軍隊として認める。

民兵制はつねに平和を欲し、必要があれば徹底的に戦闘的であるが、傭兵制は、常に戦争を前提し、しかも必ずしも戦闘的ではない・・・

俺が高校3年の時、つまり大学入試の直前なんだけど、浅間山荘事件が起こった。内ゲバという組織内の粛清。銃を手にした武力革命の信奉。その結果は胸糞の悪いものであり、不気味なものであり・・・。社会改革の手段としてのマルクス主義の胡散臭さは、俺にだけではなく、多くのティーンエージャーの鼻腔にこびりついてしまった。そうしてノンポリ学生の時代が始まったのである。

「人民主権に反するような言論の自由というものはありえない」と、革命的学生達は信じたのだが、そうして、「ある言論が人民主権に反するかどうか」を決める権利は自分達にあると考えたのであろう。神が現れる。独善的なる神が。

羽仁五郎の「都市の論理」を今さらながら読み始めたのは、ようやく当時の学生運動家を動かしていた論理を、鼻をつまむことなく触れてみることができるのではないかと思ったからである。当時を客観的に見る位置に、我々はようやくたどりついたのではないだろうか。

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2007年4月14日 (土)

「都市の論理」より/家族

羽仁五郎の「都市の論理」には家族に関する記述がある。

この”家族、私有財産及び国家の起源”という書物で、現在のわれわれコンミュニティの問題にとって、非常に注目すべきものではないかと考えられるのは、社会というものと家族というものとは対立しているものだという思想が、この本の中を貫いている非常に太い線ではないかと考えられる点です。

「家族、私有財産及び国家の起源」というのはエンゲルスの著書である。羽仁氏はその本の中でエンゲルスが「家族は社会に対立したしくみだ」と指摘していると言うのである。

原始的な社会というものが、いわゆる結婚の形態のほうから言えば、無規律の性交、それから、それが、社会的な形態のほうから言えば郡団、つまり、郡団というのは、ホルデというドイツ語の日本語訳です。ホルデというのは動物の場合にも使うようなことばですが、そういう群をなしている生活、そういうものから、家族というものは、対立関係で生まれてきて、対立関係でなければ生まれて来ないのです。・・・

・・・それで、郡団から家族になり、そして、その家族はついに一夫一婦制というものに到達する。この中で、ファミリアということばが、もとは奴隷ということを意味しているということをエンゲルスは指摘していますが、・・・

・・・一夫一婦制というものは、性愛というものとはなんら関係が無いということですね。それで、一夫一婦制というのは奴隷制である。一夫一婦制というのは、私有財産が発展して、そして、それがいかに相続されるかという上の制度であって、性愛とは全く関係がないのです。・・・

・・・そういう意味で、家族の成立というのは、最初の階級対立である。したがって、階級対立に伴うあらゆる矛盾がそこに含まれている。

家族というものを社会の最小単位と見る考え方があろうと思うが、マルクス主義的な見方では、家族制度と社会とはそもそも対立するものであり、特に夫婦の関係というものが、束縛という人間関係の強調において解釈されている。すごい指摘だ。

それで、原始的な集団、いわゆる郡団の時代にはあり得なかった現象、すなわち戦争という現象が発生する。・・・

・・・エンゲルスは、そういう原始的な集団から家族が発生し一夫一婦制が発生する。そして、原始的な氏族から家族が発生する。原始的な共産的な生産制度から私有財産制というものが発生する。それから、家の中では、家政が社会的な産業であった時代から家政が私的な労役になった時代に移っていく。そして、平等であった女性が男性に対して隷属する状態が発生してくる。それから、平和の状態が失われて戦争の状態が、現れて来た。

そうかぁ・・、戦争というのは家族という制度が成立するのと軌を一にして発生するようになるのかぁ・・・。なるほどなるほど、それでマルクス主義ではプロレタリア独裁の完成をもって戦争がなくなると考えたのか。

そして最後に、これらに対して、現代にプロレタリアトが発生することによって、これらの失われたものがすべて復活するというように考えています。その性愛においても、プロレタリアトにおいてだけ、--プロレタリアトは財産がないのですから、したがって、その財産の相続ということに妨げられない純粋な性愛というものが復活してくる。

羽仁氏の主張に従えば、純粋な愛もプロレタリアトでなければ、「理論的に言って」あり得ないのである。まことにマルクス主義は万能薬である。すべてがこれによって解決される。

しかし、今日、「家族」をこのように考える考え方を支持する人は多くはないだろう。日本で起こっていることはむしろ、「いかにして家族を再生するか」ということに対する関心であるように思える。ただ、俺は、家族と社会との関係というものを今一度考えてみたいと思う。家族は本当に社会の良き最小単位なのか?それとも家族こそ個人の自由を束縛するだけの「奴隷制度」なのか?

羽仁五郎氏は実はすごいブルジョアの出身である。父親は第四十銀行の初代頭取。羽仁五郎氏自身は東京府立第四中学校時代、学校の方針に逆らって停学処分を受けている。ここから何となく想像するのだが、この羽仁五郎の父親っていうのは、いかにも戦前の日本の親父みたいな、家族に対して抑圧的な人だったのでは?息子に対しても、もちろん厳格だったのだろう。羽仁五郎の資本主義に対する嫌悪感、家族制度への攻撃も、案外そういう個人的な経験から発生していたのかもしれないと・・俺は思うのである。

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2007年4月 7日 (土)

「都市の論理」を読み終えて思う

羽仁五郎などと言っても、今時は知らない人が多いかもしれない。35年以上前に大学に学生運動の嵐が吹き荒れたが、その理論的支柱とも見られたバリバリのマルクス主義者である。本業は歴史学者ということだが、戦後に参議院議員をやったりもした。この人の著作に「都市の論理」というのがある。俺はそれこそ30年ぐらい前にこの本を買い、本棚の肥やしにしたまま一度も読むことなく置いてあった。それを一ヶ月前ぐらいから読み始め、ついに読み終えることができた。なにしろ600ページを超える大著である。

1968年に始めて出版されたこの本を今読むと、その後のマルクス主義運動の命運を知っているだけに的外れの部分は多い。と同時に昔も今も変わらずある日本の官僚や政治家の身勝手に関する記述は、この40年、彼らが相変わらずの腐敗を繰り返し、まったく進歩していないことに気付かせてくれる。

世界的に見てマルクス主義がその実践を各所で失敗した結果、現代の日本ではそこから学ぶことはもはや何も無いという扱われ方だが、本当にそうだろうか。今回「都市の論理」を読んで思ったことだが、過去の歴史の分析はやはり面白いし、説得力がある。しかし、その結果、人間社会の終局の形としてプロレタリア独裁を構想し、それに反対するものを反動として罵倒して行ったその実践がもたらした悲劇の数々を、2007年の今日に生きる我々は知っている。

序説において、羽仁氏はコミュニティ(地域社会)という概念を曖昧だとして切り捨てる。

第一に、忌憚なくいわせていただいたほうがよいと思うのは、地域社会とかコンミュニティとかいう概念は、全然、学問的ではない、ということであります。この分化集会の報告を、どう、どっからうかがっても、まったくあいまいですね。

そうして、自治体という概念をこそ用いるべきだと主張する。

地域社会といういうあいまいな概念を、もっと深く研究して、精確な概念を構成しようとするならば、やはり自治体という概念を使用すべきであることが、明らかにされるでありましょう。

自治体という概念は、学問的にしっかりしています。自治体という概念は、歴史的にも、理論的にも、試練にたえてきています。少なくとも、自治体という概念は、地域社会という概念よりも、しっかりしている。

おそらく、自治体という政治的な実態のあるまとまりを、自然発生的な地域社会というものの上位に置かなければ、政治的な運動の主体を明確にできないと考えたのであろう。政治的、社会思想的な具体的活動こそ、羽仁氏が絶対に必要であると思っていたからである。

次回以降もしばらく、「都市の論理」について記録していこうと思う。

ところで羽仁氏は、常に彼の言う”学問的”であることを、あるいは著書の他の場所では”論理的”であることを絶対的に支持し、そうでないことを馬鹿にするか、罵倒する。それには度々「反動的」という言葉が用いられる。今日の眼から見れば、まさに独善的な態度という他無い。最初に批判しておきたい。

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2007年3月17日 (土)

都知事選/黒川紀章のこと

72歳だから石原慎太郎より2歳若い。しかしテレビで見ると黒川さんの方がジジイに見える。止めといた方が良いよ・・と言ってやりたい。実際、昨年秋に国立新美術館の見学会に現れた黒川紀章は脚がヨロヨロしていた。歩行速度というのは老化度を評価する大事な指標で、80歳すぎてもシャカシャカ歩く人がいるが、そういう人は長寿の可能性が高い・・というのは良く知られている知見だ。それでいうと黒川さんはちょっと高齢化度が進みすぎているように思う。

01_7前にもブログに書いたことだが、俺が建築の道に進んだのは、黒川紀章という人の影響を受けたからだ。それは間違いない。昔、黒川紀章はカッコよく見えた。それにもかかわらず、建築家としての黒川紀章に対する俺の評価は低かった。ところが、国立新美術館の見学会での黒川さんの話を聞いて、俺の黒川さんへの評価はかなり上った。国立新美術館は彼の作品の中では俺が一番好きな建物だ。黒川紀章は大変頭が良い人で、かつ努力家である。それも間違いない。また相当のユーモアのセンスがある人だ。面白いですよ、彼の話は。安藤忠雄が吉本風の話しぶりで面白いのとはまた違う、センスの良いユーモアである。

今朝、テレビ見ていたら、知事選の候補者4人による討論が放映されていた。黒川さんは都市計画も専門である。その観点から東京という都市の一極集中構造を批判していたのだが、それが共産党の推薦を受けている吉田万三氏と端無くも意見が一致していた。ああ、黒川さんにはそういう部分があったんだ・・・と思ったよ。黒川さんはずっと日本の権力者に近づいてここまで来たと思われているけれど、彼が京都大学の学生だった時は、かの西山卯三の研究室だった、かつ建築学生会議の議長かなんかやっていた。つまり相当左翼的な場所にいたことになる。黒川さんにはその頃の純粋な気持ちがちょっとよみがえったのだろうか。それで都知事になろうと本気で考え始めたのか?いやそんなはずはあるまい。やっぱりあの歳になってなお、名誉欲がうずうずと彼を突き動かしたのであろう・・・と、俺は下衆の勘ぐりを働かせているのである。

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2007年1月 8日 (月)

愛国か・・・

姜尚中の「愛国の作法」を読んだ。最近この手の政治的な本を読むなぁ・・。言っとくけど、俺は政治的人間ではない。政治なんかどうでもいいとまでは思わないが、そのことで口角泡を飛ばして議論するような人間ではない。しかし、俺の関心が最も強い都市や建築空間のことを考えていると、どこかで政治的なものと繋がっているのも事実だとは思う。

「愛国の作法」は小難しい本だ。姜尚中は東大教授で政治学者だから当然理屈っぽい。よく言えば緻密な理論を展開する。しかし、この難しい本の中で結局言いたいのは、「国を批判的に見ることこそ真に愛国的態度なのだ」ということではないか。俺はそう読んだ。

この本の中ではしかし、多くの愛国を廻る問題点が取り上げられており、それらをどう考えるかは個人の問題だとしても、確かに示唆に富んでいる。「愛国は愛郷の延長ではない」という議論もその一つだ。俺は若い頃に米国にしばらく住んでいた。米国は存外美しい国だということは前に書いた。そのまま米国に住み着いても良いという気もあったが、様々の理由で日本に戻った。その様々の理由の一つが故郷への愛着であったことは間違いない。愛国ではない。姜尚中は安倍首相が、「郷土を愛する心は国を愛する心の源である」としているその思考を批判している。そしてその論は俺も実感として納得できるものである。愛郷は自然的であっても、愛国は相当程度政治的なものである。

そもそも、愛国と言いながらその実は、時の為政者が自らが執り行う政策への無条件な追従を求める、その踏み絵として「愛国」を取り扱うなら、それは極めて危険な装置へと変貌するのである。愛国に罪は無いとしても、愛国は政治的に利用し得るのだろう。

俺はこう思うよ。愛国と言えども様々に解釈され得る。そうであれば、愛国のあり方も各々自由であるべきだろう。パラドキシカルな言い方だけれど、「国を愛せない人々の存在を認めること」もまた、愛国的な態度だとも言える。

ところで姜尚中に対する俺の印象だが、ちょっと面白くなさそう。眉間にシワをよせたような顔がね。あまり親しくお付き合いしたいタイプの人ではない。でもさすがに頭は明晰な人のようだ。

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2006年12月16日 (土)

教育基本法改正

教育基本法が改正される。昨日の国会で成立したということが報じられている。

改正教育基本法の中で最も論争の種となっているのは、愛国心の扱いである。安倍首相は「国を愛する心」という表現を使いたかったらしいが、「国と郷土を愛する態度」という表現にとどまった。いずれにせよこういう、利用する人間によってどうとでも解釈できるような曖昧な表現が法律になったことは、利用しようとする人間にとってはとても都合の良いことだろう。

国を愛する、ひらったく言えば自分の国を贔屓にするというのは、ごく自然な態度のように思える。しかしここで議論する国とは何を指しているのだろう?我が国の誇りに思えることを学ぶことは良い事であり、俺も賛成である。だからと言って、他国を蔑んだり、異分子(つまり国を愛さない人間と烙印を押された人達)を排除しようとするのは、お下劣なことである。それを許す社会が美しい日本であるとは思えぬ。この度の改正教育基本法がただちにそのような「ひいきの引き倒し」を肯定しているとまでは言わないが、容易にそういうシステムに変容していくことはあり得る。前にも書いたが、狂気あるいは熱狂こそが、国を危うくする。そのように考える故、社会や政治を見るときばかりは、醒めた眼を保ち続けたいと思うのである。

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2006年11月11日 (土)

太田光と中沢新一

爆笑問題の太田光を嫌う人は結構多いらしい。俺も実は多少の不快感無しに彼を見ることができないでいる。「憲法九条を世界遺産に」という新書本を書店で手に取り、その議論に引き込まれるところがあったので、そのまま購入し読んだ。宗教学者の中沢新一との対談を中心とした本だ。憲法九条のことは俺自身考えるところもあるが、それはさておき、何故、俺が太田光に対して不快感を感じるのかな・・ということを、この度は考えてみた。

一言で言うと、狂気である。太田の中にある狂気。電車の中に時々いるでしょ、あきらかに普通じゃないやつ。近寄らんほうがええな・・というやつである。この太田の持つ狂気のことは、「憲法九条を世界遺産に」の中で、太田自身ほとんど白状してしまっている。

九条を守る。特別な国であり続ける。という思考をする時に、私の中に確かに”恍惚”がある。

狂気が許されるのは芸術の世界ぐらいかな。芸術についてはね、俺も感動したいと思う。それはエクスタシーよ、恍惚よ。しかし、政治の世界に感動は要らない・・というのが俺の考え方なの・・・。そういう意味では安倍晋三にも期待してない。「うつくしい国を目指す」などと臆面もなく言う人間に期待してはいない。爆笑問題の太田がちょっと危ない眼をしながらシュールなボケをかますのは良い。笑えるね。でもその同じ眼でね、平和とか政治の話をしだすと、ちょっとね、引く。太田光はね、小泉さんのことも随分批判してたのだけど、彼は他ならぬ小泉さんに近い部分がある。ただ小泉純一郎には愛嬌があるのだが、太田光にはそれが無い、もしくは少ない。そりゃ太田光の負けだよ。

中沢新一は麻原彰晃に騙された宗教学者ということで、評判を下げた人だ。父親、祖父、そして叔父も学者という一家に育った。そこから想像される通りの頭の良さと(思考の)ひ弱さを併せ持った人物だと思われる。

狂気についてはこう思う。右へ行こうが、左へ行こうが、真中を突き進もうが、狂気へ至ればそのどの方向であろうと、薄壁一枚で隣り合っている・・・と。

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2006年9月17日 (日)

2006年9月17日

三連休の中日である。妻と長女は次女の高校の文化祭に出かけた。俺は一人、いやキャロがいるからプラス一匹で家にいる。正直、ここんとこ気分がやや鬱である。なぜ鬱なのか?多分、自分の今に対する悲観的な評価が頭を離れないからだろう。相変わらず、いや以前にも増して、時には処理しきれない様々の課題を仕事の上では抱えている。責任もあることは重々承知。だが充実しているかと自問すれば・・・。

来週には新しい自民党総裁が選ばれるそうだ。安倍晋三がまず間違いなく新総裁になるということである。そのことについては、俺はなんとなく空疎な思いで聴いている。この人を我が国のリーダーに頂く・・・その他の選択肢は無いのだろうか?この人の口から出てきた幾つかの勇ましい発言。勇ましくはあるが、賢明ではないのではないか。

今日の朝日新聞の社説にある通り、また以前に俺が靖国神社を訪ねた後に指摘したように、靖国神社の問題は遊就館にとどめを刺す。そしてその問題は単に中韓からの批判だけでなく、米国からの批判も当然に起こり得る内容なのである。その靖国神社へ参拝し、時に勇ましい発言を繰り返す安倍氏を我が国の最高責任者にするということは、いかにも暗雲が立ち上るがごとくに、俺には思えるのである。

小泉首相が靖国神社へ参拝し、それに対する中韓の批判を内政干渉、あるいは内心の問題への干渉として退けたのは、頑固な偏屈オヤジという以上のものではなかった気がする。これ一事をもって小泉首相をタカ派とするのは的を得ていない。だが、安倍晋三は違うぞ。この人が靖国神社に参拝する時は、いわゆる靖国史観を心に秘めてのことである。

もともと政治的なことに発言をするのは趣味ではない。よく勉強してもいないことについて意見を言うのは気が引けるからだ。ただもうすぐ新しい総理が生まれるその前に、感想めいたことだけ記録しておきたかった。

鬱的気分はなおも続く。一句詠んで今日の記事を閉じよう。

 台風の 近づきし世の 湿りかな

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2006年5月14日 (日)

ああ靖国

連休の間に、実は九段の方へ行った。あちこちうろつくつもりだったんだけど、結局、靖国神社で半日を過ごしてしまった。これはすごいよ。

Yasukuni01まず建築的にね、すごい。キャロのご主人としては名建築に挙げたい。正直言って今まで避けていたもんだから、こちら(関東)に暮らすようになって長いけど、こういう空間があるとは知らなかった。

そして遊就館に行きました。靖国神社に祭られている人の写真が展示されてあって、戦地から家族に宛てた手紙とか、兵士の母親の手紙など読み進むうちにね、読むのをやめた。それ以上読んでいると本当にそこで声を上げて泣きそうになったから。小泉首相がかって涙を流して動けなくなったって話だが、そのことはきっと本当だろうよ。

しかし、小泉首相がこの神社を参拝し、一方でプッシュにどこまでも付いていこうとするのは、たちの悪いジョークだと思い至った。例えて言えば、殺した男の女が今の自分の女で、その女は、「あなたが私のすべてなの」なんて言っているくせに、実は前の男(つまり自分の殺した男)がいまだに忘れられないでいる・・みたいな。

これは大変だぞ。いや、中国や韓国がどう言っているとかじゃなくて、アメリカがこのことに気づいた時、いったいどうなるんだ??!!靖国神社はとても危険な爆弾だ。

今日の新聞が報じている。「米下院のハイド外交委員長が・・・6月末に予定される首相の訪米時に米議会での演説を実現するには、靖国神社を参拝しないことを表明しておく必要があるとの考えを示した・・・」 もう導火線に火がついているんじゃないか?

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2006年4月 2日 (日)

耐震偽装再発防止のための法改正

3月31日新聞各紙は、次のような耐震偽装再発防止のための法律改正案が閣議決定されたことを報じている。

高さ20メートルを超える鉄筋コンクリート造りの建物等は、従来の建築確認審査に加えて、新設される第三者機関での構造審査を義務付けられる。これに伴い、確認審査期間が延びることは必至だろう。実際、俺の得ている情報では、通常の確認審査期間は従来3週間(役所の場合、だいたいは期限内に審査できない旨の葉書が来て延長されるが、民間審査機関だとこの3週間というのが目安だった)とされていたところが35日になるらしい。かつこの第三者機関の審査が加わった場合は更に35日がプラスされるということだ。合計70日となる。着工の2ヶ月以上前に確認申請を出す必要があることになる。設計期間は間違いなく圧迫されるだろう。

違反に対する罰則の強化もうたわれている。当然だろう。しかし、こちらもこれまでの慣れがあるからな。気を引き締めて、違反を問われないようにせねばならない。しかし、報酬が低いのに責任ばかり重くなるのでは、いじめられているような気もするな。いろいろ法律が厳しくなって設計業務の手間が増えても、設計報酬の増額をクライアントに認めてもらうのは難しいだろう。設計業務報酬の保護を併せて打ち出してもらいたいものだ。

建築士の名義貸しも罰則対象として厳しくなる。懲役刑もありうる。今後は疑われるようなことは一切出来ないし、するべきではない。これが、営業の連中が気安く請けてくるんだな。「建築士事務所の名前だけ貸して欲しい。実際には地元の事務所にやらせるから」って。これからはそんなの全部お断りだね。

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2005年9月18日 (日)

総選挙の結果について思う

ブログを開く暇がなく今日になったが、選挙の結果は6日前に出ている。自民党の圧勝であった。自民党は296議席を獲得し、連立与党のパートナーである公明党の31議席を加えると、衆院の議席数480の3分の2を超える。政権奪取を掲げた民主党は113議席と大幅に議席数を減らした。このブログは俺の日記でもあるので、これを記録しておきたい。

今日、新聞は民主党の党首に前原誠司氏を選んだことを報じている。若干43歳。正しい判断を必ず若い人がするという訳ではないが、気力はやはり若い人が勝る。俺と同じ京都出身ということもあり、頑張ってもらいたいと思う。

今の民主党は旧社会党の人から自民党の右派と思われた人までが同じ党に属し、その主張が要するにどういうことなのかが俺には解からない。新党首の前原氏を中心に明快な考え方を国民の前に提示せねばなるまい。

俺の専門の建築からの話。フランク・ロイド・ライトはサイモンとガーファンクルの歌にも出てくるアメリカの生んだヒーローの一人と言える建築家だが、彼の住宅建築の特徴を5つほど挙げ、それをコンピューターにインプットして住宅を設計させると、ものすごくフランク・ロイド・ライトっぽい住宅が出来上がるそうだ。もちろんライトの本質がそれですべて言い尽くせるとは思っていないが、単純な幾つかの原理がアウトラインをほぼ決するということは言えそうだ。まして政治はマスを動かす術だから、単純で明快であることは強い。小泉さんと岡田さんの違いは、今回の選挙で言えばまさにそれだったな。岡田さん解かりにくかったよ。ぐちゃぐちゃ。

郵政民営化は必ず良い結果を国民にもたらすというものではない。第二の国家予算といわれる郵政事業の巨額の金が弱肉強食の市場にさらされる。財政投融資によって国の資金源となっていたのがそうでなくなる。うまく民間の活力源となり、経済波及効果が出れば良いが、外資の手に渡り日本がそいつらの利益のために食い物にされる可能性もある。俺の属する建設業界だって、凄まじい打撃を受けるかもしれない。なにしろ国の公共工事はその大きな資金源を失うのだから。

自民党は郵政民営化には国民のお墨付きをもらったが、だからと言って憲法改正へ一気に突き進むようなら、次回の選挙で手厳しい結果を手にするだろう。しかし、前原氏は憲法改正論者なのだよな。他の選択肢はあるのか?

社民党は、「憲法を守ろう」と言うけれど、未来永劫変えない変えられないというのは、国民の、特にこれからの若い人の感情として受け入れられないだろう。実際、民族や人権などの考え方もこの半世紀随分変わってきたと思うが、そのことも含めて「変えられない」というのは、その主張の是非を超えてまずい話だ。それよりも、このように変えた方が良いという憲法草案を自ら提示したらどうなんだ。

共産党は今や「感じ悪い」党の代表だな。相変わらずの大企業攻撃だが、今だに巨大な官僚機構による国の支配を夢想しているのなら、とても受け入れ難い。大企業からもっと税金を取れば年金や福祉の財源が捻出できる・・・という計算がどうして成り立つのか?そういう馬鹿なことをいつまで言い続けるつもりなんだろう。俺が通勤で使う駅の入り口で度々ビラを配っている。黙ってかあるいは小声で「共産党です」と言っているのかもわからないが、差し出すビラを受け取る人はほとんど見かけない。それでもビラを差し出し立っている共産党員(だと思う)を見ると、気の毒と思うとともに一種の不気味さを感じる。この党については、「こうしたら良くなるのに」と言えるものが見当たらない。やはり党名を変えた方が良いのかな。

政治についてここ何度か記事を書いた。次回からまた街や建築について書きたいと思う。ああそうそう。例によって下手な俳句を2首ばかりひねった。夏の終わり頃を詠んだものである。朝、寝床の中で目を覚ますと、肌にさわるシーツがサラッとしていて気持ちが良い。今年も汗の臭いが立ち上っているような寝覚めの季節が終わったのかと思うと嬉しい。しかし蝉のやつらは行く夏を惜しんでいるらしく、朝から家の前の林で合唱会をやっている。そうさ、お前らの季節は終わりだ。せいぜい騒いでろ。

 蝉の声は冷めたる朝を切りきざみ

 サラサラの朝寝を妬む蝉しぐれ

昨日は青虫が蟻の餌食となっているのを見た。

 青虫の腹の柔さよ蟻百匹

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2005年9月11日 (日)

総選挙の日

このブログでは政治的な発言は避けたいと思ってきた。しかし今日はさすがに無視できないだろう。平成17年9月11日は総選挙が行われる。これまでもほとんどの選挙で投票してきたし、今回も投票に行くつもりだ。

この度の選挙の投票率は近年にない高いものになるだろう。その理由の第一はこの総選挙に至ったプロセスの異常さである。郵政民営化法案が参院で否決されたからと言う理由で衆議院を解散した。前代未聞ということらしい。そうして、小泉首相は郵政民営化を国民に問うとして総選挙に賭けた。迎え撃つ民主党を始め野党の各党は、「選挙の争点は郵政民営化だけではない」と論じているが、どうやら小泉首相の方に分があるらしい。争点が単純化されたことで野次馬的国民にはわかり易くなった。すなわち投票行動を起こしやすくなったと言う図式である。

皮肉めいたことを書く。

郵政民営化だけが今日の日本の政治の重要課題でないことは明らかである。しかし、「郵政事業は今儲かっているから民営化の必要は無い」と言うのには賛同できない。敵のいないサッカー場で点を上げているような話だ。世の流れからいくと、やがてこのゲームには敵が出てくるだろう。それは外人チームかもしれない。そろそろ外へ出て他流試合をやる時期かと考えてどうなんだろう。そのかわりルールをきちんと整備していく(これは政治として)のが強いチーム作りには必要だろう。「いや法律で他チームの参入を未来永劫阻止しよう」・・だって?Oh! Good Idea!!・・なわけ無いだろう。

今日の新聞に公共工事の落札率の低い県ランキングが出ていた。宮城県が一番だということ。78.6%だそうだ。つまり、例えば100億円かかると思っていた工事が78億6千万でできたということになる。この率の高いのが熊本県で98.2%。宮城県の方が税金を節約しているから良い・・と言いたいのだろう。しかし見方を変えれば、宮城県では地元の建設業に流れた金がより少なくなり、したがってまたしても建設業の末端にいる建設労働者の懐に入る金は少なくなったのだろう。鳶や土工がまともに暮らせなくとも工事の代金は徹底して少ない方が良く、一方で郵便局の職員の仕事の質を問わず、ただその待遇を守り続けようというのなら、そりゃいただけない話だ。今日の日本では、公務員は恵まれた職業だということを忘れてはならない。

マクロ的に見れば、金は使わないのが良いのではない。流れないのがいけないのではないか。昨今は銀座のクラブも経営が大変らしい。バブルがはじけてから社用族の利用が減ったのだろう。最近は景気も若干持ち直しているようだが、社用で銀座のクラブへ繰り出す時代ではなくなってきている。昔は官僚も銀座のクラブで接待されたのではないか。そんなことも今は無くなっているのであろう。先日テレビで見たあるクラブのママの生活は、想像していたよりよっぽど質素であった。ただ、持っている着物の数が普通じゃなかった。それもこの10年、新しく作らずに持っているものを使いまわしているという。俺の生れ故郷である西陣の不況の原因はここにもあった訳だ。いかに金が世の中で流れるようにするか。そのことが大事な政治の課題だと、俺は考えている。今日の選挙の場合はとりあえずその視点から投票するつもりだ。

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