2008年6月28日 (土)

50 Years After 1960/巨大高密度都市は誤りか?

朝、テレビを見ていたら、ドバイの若い夫婦の生活を紹介していた。夫は28歳の建築家、妻は22歳。住んでいるマンションは170㎡の3LDK。現代的なインテリアで、高そうな家具やアートに彩られている。おまけに彼は現在、別に自邸を設計中だ。というのも、ドバイでは18歳になる男子には国から100坪ほどの土地が与えられる。彼はすでに土地を有している。このような特権はもちろんドバイ国民のためのもので、他国から出稼ぎに来ている人々には関係の無い話である。そういうことに、俺はなんとなく嫌な感じがした。まだ28歳の、青二才と言っていいような若造が、何の努力もしないうちに、日本だったら大金持ちというような生活を手に入れる。「これで良いのか?」という気持ちを持ったのは倫理的なものだ。もっとも、彼の妻が超美人だということは認めよう。

八束はじめ氏の小論、「50 Years After 1960」の解読を続ける。

BIGNESSは建築家の意図=コントロール可能性を超えている-だからBIGNESSとは都市とほぼ同義語だ-と主張するコールハース・・・

丹下の東京計画1960にせよ、磯崎の丸の内空中都市計画にせよ、丹下やその弟子達が提示したのは「巨大な」都市の構想だったと思うが、今日の東京はそれらの構想をなぞっている。高密度、高層化した都市はかつての建築家(それも丹下をはじめとするスター建築家の)夢だったのではないか?それなのに、今現実に東京に出現している巨大高密都市を、建築家の側が批判しようとするのは筋が通っていない。

丸の内の最初の超高層は前川國男の東京海上火災ビルだが、これを皇居を見下ろすという理由で政治的干渉が行われ上部をカットされた時に一斉に抗議の声を上げたのは建築界ではなかったのか?

思うに、建築家の側がこれらの巨大高密都市のコンセプトに今さらながら反対するとすれば、その最大の理由は、「彼らがもはやこのことに影響力を持たない」ということであろう。主役は彼らではない。

もちろん、このような状況に何の問題も無いわけではない。東京への集中は加速し、地方は過疎化する。東京の一人勝ち。しかし東京の人々が幸せ・・という訳でもない。だからといって地方への拡散を政策的に行うことが正しい選択なのだろうか?八束はむしろ巨大高密度のモデルの可能性に乗ろうとする。

コールハースは、BIGNESSに乗るのはそこにエベレストがあるからという登山家と同じ理由しかないという。・・・・

・・それ(巨大高密度都市)が例えばコンパクト・シティやサスティナブル・コミュニティという別種の仮説より望ましい未来を示すものかどうかという議論をしようとも思わない。それらに根拠がないともいわないが、これを議論の余地のない前提と見なすことにも同意しない。それらの仮説に胸ときめかないことは正直に認めよう。

そして八束は、1960年に丹下が東京計画1960を提出したように、東京計画2010を提出することに意義を見出さない。

私たちの研究はあくまでリサーチである。デザイン中毒者たちが望むかもしれないように、「東京計画2010」を立てるつもりはない。提示されるのはあくまで「可能態」(ありうる姿)であり、最終の姿(あってほしい姿)ではない。50年後の今の時期の流行の建築語彙に置き換えただけのデザインが相応しいとは思えない。何でも形の問題にしてしまい、それを正当化したがる建築家の習性は嘆かわしい。

では巨大高密度都市の存在理由とは何なんだろう。リサーチはそれを立証するのだろうか。

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2008年6月22日 (日)

コクーンタワー/2008年西新宿

とある晴れた日のことである。俺は西新宿を何事もなく歩いていた。まったく油断していたと言えば油断していた。それは突然に俺の眼前に現れた。「な、な・・」と、俺はつぶやき、思わずあたりを見渡した。こんなものが・・大衆の目に堂々とさらされているのか。日本人もおおらかになったものだ・・いいやっ、羞恥心も地に落ちたものだ。俺の狼狽をよそに、皆何事もないかのごとく道を行く。

俺が大学に入って間もない頃、家族旅行をした。その時のことだが、どういうわけか親父が俺をとある秘宝館に誘った。自分一人で入るのが恥ずかしかったのか、それとも年頃の俺に親父なりの性教育を施そうとしたのか、よくわからないが、とにかくその秘宝館なるものに親父と二人で入った。色んな絵や写真もあったが、あれやあそこやに似た石や木の根っこなども展示してあった。そんなものに似ているのがどうというのか、俺にはさっぱり理解できなかった。しかし、そのような石や木が時には御神体になり、祭られたりすることもある。大概は安産や豊饒のご利益ありというふれ込みでだが。

02 この度の御神体、それは見事に天に向けそそり立っておる。それにまあ、これは書くのは憚られるが、書いておかぬと気づかない人もおるだろうから、羞恥心を捨てて書いておくと、この御神体はあれのように見えるだけではなく、あそこのようにも見えるのである。されば両性具有の御神体であったか・・・。

遥拝所と賽銭箱を設けるのなら、野村ビルの前辺りが良い。これほどの立派な御神体、日本の少子化にも歯止めがかかるかもしれん。はたして、東京モード学院はそこまで考えていたのか・・・立派だ。

惜しむらくは、足元に作られる予定の球体。何が入っているのか知らんが、一つじゃ足らんだろ。これは二つあるもんだ。

嫌いなのか?いや、好きだよ。けっこう好きな建物だ。ここまでやってくれるとね、面白いと思う。丹下健三亡き後、丹下事務所の最高ケッサクだ。丹下憲明よ、これで(血はつながっていないらしいが)父の丹下健三をやっと乗り越えた・・か。

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2008年6月15日 (日)

50 Years After 1960/それで?

休みの日ぐらいは自由に時間を使いたいものだが、たいがい何か「やらねばならないこと」がある。土日の飯作りは、もはや趣味ではなく義務である。義務となったとたん喜びは失われる。料理するだけならさほどではないが、持ち帰った仕事などがある時は、休みの一日などはたちどころに消えてしまう。これは愚痴だ。

「50 Years After 1960」の解読はまだ終わっていない。

都市計画家としての丹下健三の問題意識は何処にあったのか。

丹下の仕事の起源を辿ると、戦前の日本の海外侵略、とりわけ大陸進行に行き当たる。・・・学生時代の丹下は当時の満州帝国の首都新京での坂倉準三のプロジェクトを手伝い、前川事務所勤務時代には新京に赴いて現地の都市造営の熱気に煽られているし、・・・

丹下健三という人はそういう時代の人だったのか・・・という理解は、今を生きる我々からは抜け落ちているかもしれんな。そういえば、俺の親父は丹下より一世代下の人間だが、「中国で馬賊になる」のが子供の頃の夢だったと話していたことがある。その頃、すでに建築家としてのスタートを切っていた丹下健三らの世代は、中国大陸は広大な手付かずの処女地に見えたかもしれんな。レム・コールハースなどが使う言葉、タブララサ(磨かれた板)だったわけだ。そうすると、なぜ彼らがしきりと誇大妄想的-我々にとっては-な都市計画を立てようとしたのかも理解できる。だが日本は戦争に負け、大陸を失う。

そもそも侵略戦争は後者(都市人口の飛躍的な増大)の打開のために「レーベンスラウム(生活圏)」を海外に求める所業でもあった。この帝国主義的な野望が敗戦によって挫折した状況をどう考えるかは丹下の課題であった。

戦災復興に関わった丹下の嘆きは既存の都市が権益で身動きならないことにあったが、であれば新しいレーベンスラウムを求めるべき場所は二つである。海上と空中。60年代前後に発表される丹下やメタボリストの都市プロジェクトはこのどちらか、つまり海上都市か空中都市である。

ごく簡単に言えば、増え続ける(と思われた)人間を収容するため、東京湾にスーパーストラクチャーによる人工大地を作り、そこに高層の建物を建て並べたものが、丹下健三の東京計画1960である。丹下研究室に籍を置き、しかしメタボリズム運動には直接関わらずにいた磯崎新も、1962年には空中都市計画である「丸の内計画」を1962年に作成している。

その当時、建築基準法は31mを超える建物の建設を認めていなかった。丸の内のオフィイス街も31mの高さで抑えられた建物が軒を連ねていた。都市の形態がマクロ的に見るならば法規によって作り出されていたことになる。丹下健三や高山英華を頭目とする建築家、都市計画家の願いはこの規制の撤廃であったろう。

1955年に建築学会では「建築の高層化に関する委員会」が開かれている。委員長は、満州で首都新京の都市計画局長を務めた笠原敏郎で、副委員長は高山英華である。しかし最も重要な役割を果たしたのは会議のワーキンググループのリーダー、丹下研究室を離れたばかりの浅田孝であった。

そして1963年の建築基準法改正により31mの絶対高さ制限は撤廃され、今日、我々が眼にする東京のスカイラインを導くことになったのだ。建築基準法(このようなルールのことをやはりコールハース風に言うならば、アルゴリズム)が街のプロファイルを作り上げてきた。そのようなアルゴリズムを正当化するのは(丹下健三らが行ったような)リサーチである。そこにはデザインは抜きだ。八束はじめはここでコールハースばりのニヒリズムを示す。

デザイン抜きだとすれば建築的な質はどうなるのかという反問は予想している。ディベロッパーの論理とどこが違うのか、という反問も。答えはこうだ。WHO CARES?

都市のアウトラインを決定するのは法規だ・・・個々の建築は限りなく無力だ・・・としたら、その問題を意識した建築家の採る道は、かつての磯崎新のように「都市が見えない」、と宣言し、「手法」へと走るか、あるいは今日コールハースやMVRDVらが唱導するようにリサーチやアルゴリズムに向かうか・・・。八束はじめは後者を選んだという。それは丹下健三の都市計画家としての再評価にもつながる。デザインは問題じゃないのか?ディベロッパーの思うがままじゃないか・・・WHO CARES?(それで?)

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2008年5月25日 (日)

50 Years After 1960/丹下の再評価

八束はじめ氏の小論「50 Years After 1960」の1960とはどういう年なのかということについては、次のようにはっきりと書かれている。

「50 Years After 1960」と題されているのは、丹下健三の「東京計画1960」を出発点としているからである。

1960 八束さんはここで、都市計画家としての丹下健三やそれに続くメタボリスト(腹囲85センチ以上の建築家集団・・というのはウソ。大高正人や菊竹清訓、黒川紀章、槙文彦ら、丹下研究室出身者を中心に『成長と新陳代謝する都市』のアイデアを提示した建築家のこと)の仕事を再評価しようとしている。

建築家、丹下健三はコルビジェに影響を受けながらも、生まれ持った造形力によって、幾多の現代建築の傑作を生み出し、戦後の日本建築界に絶大なる影響を残した・・・というのが大方の認めるところで、丹下さんが都市計画的な構想を抱いていたというのはコルビジェなんかの影響だろうけど、「ほぅ、すごいこと考えていたんだね」、ぐらいの感想しか持てない。なにぶん、実現していないし、実現しそうもない案でもあり・・・。それゆえに丹下さんの都市計画については、藤森照信なんかも次のように総括する。

都市に関して、丹下の真骨頂はデザインにあり、リサーチにはなかった・・・

けれどもこの点こそ、八束はじめ氏が反論し、「お前らぜんぜん見えてないなぁ」、と言いたい部分なのであろう。

東大建築学科での丹下の立場は建築ではなく都市計画の助教授であった。前川事務所から大学に戻ったのも都市計画を学ぶためで、大学での講義や演習もデザインをめぐるものではなかった。

そうして八束さんは丹下が当時提示したものを、歴史的に位置づけ、その意義を実証していく。またその時に、彼はレム・コールハースを幾度も持ち出す。レム・コールハース・・・今日、世界で最も影響力のある建築家にして建築理論家とされる人間。八束はじめは明らかに彼の影響を受け、それを隠しもしない。

丹下のみならずメタボリストのプロジェクトの背景は、すぐ後に論じるように日本の人口増加に伴う大都市への集中、端的には量の問題である。デザイン=質の問題には留まらない。この問題は、「作品」の提出ばかりに余念がない50年後の日本の建築家たち(及び建築ジャーナリズム)は触れようともしないが、依然現実としてわれわれの眼前にある。別掲のコールハースのシンガポール論が、ここを捉えているのはさすがというべきだ。この点でコールハースは日本の建築家よりも『日経ビジネス』のほうに関心を多く共有している・・・

現代の日本の建築家と建築ジャーナリズムに対する鋭い批判である。正直に言って、俺の問題意識と重なる部分はある。結論は相当に違いそうだが。

ちょっと話題を変えるが、ミースはコルビジェと違って、都市レベルの計画というものがない。敢えて言えば、IITのキャンパス計画が都市的と言えば言える。これにはミースを取り巻く人的な環境というものがあるように思える。忘れてはいけないのは、ミースにはバウハウス人脈というのがある。コルビジェは一人で建築家であり、都市計画家であり、時には画家という役割を演じたし、すべてを行うことで彼が目指す建築・都市・芸術の統一的世界が示されていた。すべてを自らが行うことで方向を示したコルビジェと異なり、ミースにはカンディンスキーもいたし、モホイ・ノディもいた。なによりも都市計画家としてのヒルベルザイマーが、常に彼の傍らにいた。ミースはその中で、自分の役割を規定していたのであろう。

ではあるが・・・、ここで一つの問いを提示しよう。今日の世界の都市を見るに、ミースの影響はコルビジェより小さい・・であろうか?

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2008年5月18日 (日)

50 Years After 1960/八束はじめの立ち位置

八束はじめという建築家がいる。今は芝浦工業大学教授をやっているが、この人が雑誌「10+1」の最終号に「50 Years After 1960」という小論を寄稿している。これは俺にはかなり面白い記事であった。現代の建築論や都市論の流れの、それもかなり主流のところを手短に教えてくれる。俺自身の考えと近いところもあり、違うところもあるけれど、この論文を読みながら建築や都市について考えることは、間違いなく知的な楽しみとなるであろう。

八束はじめという人は、俺が学生の頃、いろんな建築のアイデアコンペでそこそこ入賞を果たしていた人だ。その意味では若い頃から知る人ぞ知るという人であり、また当時は東大の博士課程に在学中で、勘ぐるに、建築理論家として磯崎新の後を襲おうという野心は並々ならずあったのではないか。

まあしかし、建築家というのは、理論はともあれ、美的な才能はあるレベル以上持ち合わせていないとどうしても限界がある。八束さんの建築作品というのはいつもそういう限界を感じさせてしまう。頭は超いい人だ。だけども実作には人の心をつかむものが無い。

ま、人物評はこれぐらいで、50 Years After 1960 のことだが、八束はじめ氏はそういう自分の才能のことをかなり自覚しているのであろう・・・などと、読む方は少し「痛い」思いを感じながら読むことになる。だが、今この世界に起きている事に対する立ち位置は(一つの立場として)的確である。

昨年の正月に『日経ビジネス』誌が「もう止まらない 東京大膨張」と題する特集を行なった。建築界がコンパクト・シティとかシュリンキング・シティとかいっているのとは正反対である。・・・

・・・このビジネス誌のテーマはどうだ?ディベロッパーに色目を使うがごときものではないか?しかし、建築界の主流(?)のほうがより客観的に現実を見ており、後者(日経ビジネスの特集)は商業主義的に「誤った」ものだという根拠が本当にあるのかどうか?・・・

・・・つまり、私にとって(「正しい」ではなく)「面白い」テーマは「大膨張」都市であって、コンパクト・シティではない、とまず宣言しておく。

建築を論ずる時に、大膨張する都市-東京に限らず-を前にして、その功罪を挙げていたところでなんになろう。そんなこととは関わりなしに、経済活動として都市は変化し続ける。その事実から目を背けて、一つ一つの建築の「作品としての」出来不出来を論ずることの時代錯誤。八束氏は「面白い」テーマは膨張し続ける都市そのものである・・と言う。そのように自分の立ち位置を宣言する。

余談だが、日本の不動産業界のトップ、三井不動産とか三菱地所の社員の給与は、日本の建設業のトップ、鹿島とか清水建設とかよりかなり高い。下請け業者の給与はもちろんずっと低い。下請け業者の雇う日雇い労働者の年収は、不動産トップの会社の平均的社員の10分の1よりちょっとだけ多いという程度だろう。川上にいる者が川下にいる者を収奪しているという今の日本の構図は、悲しくもK.マルクスが130年前に指摘したとおりである。

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2008年5月11日 (日)

建築家・伊東豊雄のこと

気になってコピーしておいた雑誌のページがある。いい加減に捨てたいと思うのだが、せっかくコピーしたのだから、その時何を考えていたのか記しておこう。

日系アーキテクチュアの2007年9月10日号の記事、「PEOPLE FILE 011 伊東豊雄」、というのがコピーしておいたページだ。伊東豊雄さんというのは、素人よりも玄人、つまり建築家や建築評論家の間では評価が高い。安藤忠雄よりか・・か?そうだ、安藤忠雄よりだ。安藤忠雄は肉食動物のような臭いがするが、伊東豊雄は菜食主義者・・かどうかは知らないが、そういう雰囲気だ。頭は安藤よりよっぽど良さそうに見える。菜食主義者が肉食する者より頭が良いというデータは無い。鯨を食うやつは野蛮だ・・というのに根拠がないのと同じだ。

伊東豊雄は近頃では知性的建築家として磯崎新を凌ぐ。磯崎新が最近益々爺さん臭くなってきたからだ。人は誰しも、もう終わりの近いやつより、今まだ盛りの権威にすり寄るものだ。黒川紀章の例を挙げるまでもない。黒川が死んで、「とういうことは、磯さんも近いのでは」、などと不謹慎に考えたやつもかなりいるはずだ。その点、伊東さんはまだまだ元気だろう・・・一寸先は闇ではあるが。

僕が80年代から90年代にかけて興味を持ったことは、軽くて透明で、実体のない建築をつくることだった。社会的にもそうした流れにあった。だけど僕は今、現実だけに合わせるのではなく、『こうなったらいいな』という希望を込めたものをつくりたいと思うようになった

今や、巨匠の域に達しつつある伊東豊雄のこの言葉を、皆は真剣に聞いているのであろうか。「軽くて透明」であることにいかなる価値があったのか?・・・ストリップ劇場の踊り子嬢の衣装のことを意味していたのではないか・・・いや、それなら最初は透明でない方が良い・・・などという不謹慎な議論をしてはならない。「実体のない建築」というけれど、建物は建ったら最後、とてつもなく重いものである。軽い紙やプラ板で作った模型は、軽々と持てるけれど、これで実際に作ったら、同じように軽いはずだ・・・などと考えていたのなら、アホである。いやいや、伊東豊雄がアホのわけないだろう。かの東京大学建築学科卒業である。それで最近は「現実だけにあわせるのでなく、『こうなったらいいな』という希望をこめ」て建築するようにしているようだ。あの人、現実にあわせていたのか!?・・などとここへ来て驚くようでは何もわかっていない。いったい伊東豊雄の何を見ていたのだ。現実とは実体のない世界、色即是空、空即是色である。まことに(ほとんど死にかけの)深い境地におられた。

しかし我々俗人がこの境地に達するのは至難である。伊東氏もようやくそのことが分かられたのであろう。仙台メディアテーク以来の伊東氏の作品が、良し悪しは別にして、確かに変わったように思えるのは俺だけか?そこには伊東氏の「こうなったらいいな」が、込められているのである。我らは今こそ、伊東氏の教えるところをよく学ぶべきである。

これでやっと雑誌のコピーを一枚捨てることができる。捨てることで、また新しいものを拾えるというものだ。

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2008年5月10日 (土)

我が身体

一昨日のことだが、人間ドックを受けた。予想した通り、腰周り95センチを計測し、問診の医者から「どう思われます?」と聞かれたから、「立派な数字ですね」、と答えた。この医者はこの検診センターの専属で、女医である。毎年決まったように、「体重を減らす必要があります。毎日運動をしてください」と言う。ある時など、「ちょっとぐらい食べなくとも死にゃぁしませんから」、と言われた。しゃらくさい女である。

01 こっちだって何もしていない訳ではない。最近では休みの日の朝早く、自転車で和光市の樹林公園まででかけ、そこで柔軟体操とジョギングをするようにしている。さほど効果が出ていないのは冒頭の通りだ。

子供の頃、運動が苦手だった。体が小さかったこともあるのだが、小学校3、4年の頃から太りだして、6年生の頃は立派な「小太り少年」になっていた。体育の時間が内心は嫌で、ある時などドリブルを上手にできない俺を見て、「豚が饅頭を追いかけているみたいだ」と笑う友人がいた。それでもひがむことなく、そいつのことを許し、明るい好青年に育っていった。立派なものである。

水泳の北島康介なんかがテレビの画面に出てくると、男の俺でもその美しい肉体に感心する。休日の朝の運動を終え、家に帰ってシャワーを浴びながら、俺は自分の腹の脂肪を手でつまみ、彼と我との差を推し量る。「あぁ、この脂肪を取りたい!」でも、食べるのは止められない。ただ、運動した後のシャワーは気持ちよい。

樹林公園の森に佇み、俺は、木や草や、それらを顕わにしている光を見る。そしてそれを見ている自分を意識する。あぁ、こういうことか・・・と思う。こういうことかというのは、メルロ・ポンティの「眼と精神」の中に書かれていたようなことだ。

謎は、私の身体が<見るもの>であると同時に<見えるもの>だという点にある。・・・

見えるものであり、動かされるものである私の身体は、物の一つに数え入れられ、一つの物である。私の身体は世界の織目のなかに取り込まれており、その凝集力は物のそれなのだ。・・・

世界は、ほかならぬ身体という生地で仕立てられていることになるのだ。・・・

正確に言うなら、俺は建築というものが重要だと思ってはいない。ただ、人間というものが世界と関わるその関わり方の一つの方便として、建築という行為はその正統性を主張できるかもしれないとは思っている。

シャワーを浴びている時に俺の両手につままれている俺の脂肪は、しかし決して俺の身体から簡単に離れるつもりはないようだ。

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2008年5月 2日 (金)

北大古河記念講堂/洋風建築のこと

札幌に行く機会があった。1時間ほどの空き時間ができたので、急ぎ足で北大を訪ねた。薄れかけた記憶だが、大学の確か2回生の時に北海道を旅行し、こちらにも来たように思う。当時は建築学科の学生であるにもかかわらず、建物にはほとんど興味が無く、クラーク博士の銅像を見て、「よし、北大も制覇したぞ」とばかり、記念写真を撮って帰ったように思う。この度は北大のキャンパスに寄れるとは思っても見なかったので、下調べもせず、人から借りたデジカメを持ってキャンパスに突入したのである。下調べしていないのでどういう建物があるのか見当がつかない。01 おまけにここのキャンパスはやたら広い。1時間に満たない時間で、あてどもなく歩いていたのではそれ程の発見もできず、戦果が薄いのは当然なのだが、キャンパスに入る前から自分の頭には、「下見板張りの建物」を見たいという漠然としたイメージはあった。そういう意味では今回唯一つの戦果が「古河記念講堂」ということになる。

藤森照信著の「日本の近代建築」によれば、下見板張り、それも南京下見板張りの洋風建築は、明治初期に日本に移入され、日本のコロニアル風洋風建築の一つの源流となっている。しかもその重要なものの多くが札幌を中心とする北海道にある。それというのも明治の新政府が北海道の開拓を計画し、明治2年に北海道開拓使を設置するのだが、開拓の技術指南役としてアメリカから50名を超える開拓顧問団を札幌に迎えたことに端を発するからだ。これによってアメリカの開拓地で発達した木造技術がもたらされ、その技術とスタイルによって例えば有名な札幌農学校演武場(現札幌市時計台)が建てられたのだ。そしてこの南京下見板張りによる洋風建築はその後日本の各地で(時には擬洋風の建築へと形を変えながらも)建設され、日本人の頭の中には「洋館」の一つの典型的イメージとして定着していく。

02 古河講堂は明治42年の竣工で、この手の下見板張り建築として最も古い部類には属さない。設計も文部大臣官房建築課の技術者である新山平四郎が行ったのであり、当時すでにこのような木造洋風建築の技術が十分に日本人技術者のものとなっていたことを証明するのだろう。札幌時計台などはこれよりずっと前、明治11年の竣工で、設計はウィリアム・ホイラーというアメリカ人が行っている。ウィリアム・ホイラーというのは農業土木の技術者であり、札幌でのこういう下見板張りコロニアル建築について指導的役割を果たした人だ。ホイラーの活躍した頃から約30年後、日本人技術者は米国人技術者の指導無しに、独力でこの程度の建物を建てられるようになっていたということだ。

南京下見板張りの建物でもっと古いもの、建築史的に重要なものも北大の中にあるようだが、今回は見ることができなかった、というかとてもそこまでたどり着けなかった。北大のキャンパスは広い。ただ、雑然としている印象を受けた。敷地の広さに甘えて、夫々の建物(特に新しく建てられたもの)がだらしなく広がっているように見える。新しい建物はデザインレベルも低い。観光客も大勢来る有名大学なのに、残念なことだ。

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2008年4月19日 (土)

彩の国さいたま芸術劇場の印象

香山壽夫はルイス・カーンに師事した日本人建築家として知られ、また東京大学建築学科教授を務めたという、まずは日本の代表的建築家の一人ということだろう。そういう偉い建築家の作品に「彩の国さいたま芸術劇場」というのがある。もう十数年前に竣工した建物でそう新しいわけではないが、日本建築学会賞、村野藤吾賞、BCS賞などという、どの一つもらっても大変な名誉という建築の賞をいくつも受賞しており、香山先生の代表作と言ってよい。そういうことで前から一度見てみたいと思っていた。自転車で遠出したついでに、やっとのことで目にすることができた。

01

正直、突然現れた灰色の塊に驚いた。最初はこれが劇場だと認識できず、何かの工場、多分セメント工場かなにか・・と思った。これは設計者が悪いのか、建っている場所が悪いのか。残念です、香山先生。俺的にはまったく×建築です。東京大学の弥生講堂なんかは同じ先生の作品でもなかなか良いのにね。これはどうもいただけません。ま、とにかくこれは裏側ですから大目に見て、表に回りましょ、表に。表はきっともっと良いはず。なんたって建築学会賞受賞作ですから。

02

ガチョーン(谷啓のギャグ。古っ) これですかい。

最近地方へ行くとよく見る「道の駅」を思い出した。

どうしてこう色がくすんでいるんだろう。先生、色の感覚はあまり良くないようですな。それともこういう地味な色使いがカッコイィーという時代だったのか。いずれにせよ、この場所、この晴れた空の下、こういう不機嫌な建物が芸術劇場であるということ。それはやっぱりいただけない。

03

壁のクラックが気になった。こうあちこちにクラックが入っているのは、もちろんコンクリートの性能として問題ある。早く補修をかけたほうが良い。中の鉄筋が錆びるぞ。デザイン優先で有効なクラック防止対策がとられていない。東大の建築の先生がこんなことで良いのだろうか?しかも建築学会賞やBCS賞まで与えられている。どういうことなんだろう?これが、この年、日本で建てられた建物の最高峰だとっ!!

実は、実際に見るまでは期待してたんだ。本当だよ。最初から悪口を言うつもりなんかなかった。でもあんまりだよ。これが俺の好きなルイス・カーンの弟子の仕事?

カリフォルニアにあるルイス・カーンの設計した「ソーク研究所」を初めて見たときの感動。コンクリートのマッシブな形態が俺を圧倒した。カリフォルニアの青い海と空、岸壁の上に建つ建物の放つ宇宙的な存在感。涙が出そうだったよ。

04

テラゾーの笠石がこんなに反り返るとは・・・。下地のモルタルも引っ張られたせいか完璧に浮いている。ひどい。施工も良くないのだろう。しかし、このテラゾーの品質がまず良くない。またそれをこの部位に使うべきでなかったのだろう。いずれにせよ、これが何故建築業協会の賞であるBCS賞を受賞しているのだろうか。まことに不思議。要するに、審査なんていい加減だということである。

05

平面のレリーフが飾ってあった。ふーん、やはり平面はルイス・カーンの弟子らしく、単純な幾何学形態のきれいな構成だな。中央広場の取り方も納得できる。しかしこれが三次元で出来上がったときに、何故かくもしょぼい空間になるのか。

建築において平面は大事である。しかし、平面だけでは読みきれないことも多いようだ。とにかく今年見た建物の中で、がっかり度は一番でした。

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2008年3月30日 (日)

麗しのキャンパス?/同志社

同志社大学の今出川キャンパスのことを続ける。

01

重要文化財に指定されている有終館。「有終の美を飾る」の「有終」だ。元々は図書館であった。それが新しい図書館ができたので、その役目を終えた・・ということから「有終館」と名付けられたらしい。この建物に限らず、同志社大学の建物は何かしら名前が付いている。黒色の煉瓦と白い石の帯がアクセントになっていて、遊び心が感じられる。建物の設計時には米国からの派遣宣教師が指導したと、建物正面に貼り付けてあるパネルに書いてあった。その宣教師の名前までは記してない。明治18年(1885年)に定礎が置かれ、2年後の明治20年(1887年)に竣工している。

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有終館の南側外壁詳細です。

なかなかに凝ったデザインで、良いと思う。19世紀末に建てられた建物として革新的なものはないかもしれないが、軒蛇腹のデザインや柱の面取り、あるいは窓下の腰壁が黒煉瓦を交えた斜め張りになっているところなどは見所である。この建物の設計者はこの建物が皆に愛されることを願っていたんだろうな。そういうことが感じられる建物である。

この当時、米国の宣教師や伝道師は、キリスト教の布教と同時に、西洋建築の技法を日本に伝えることにおいて相当重要な役割を果たしたらしい。W.ヴォーリズは20世紀前半に建築家として実に多数の建物を日本各地に残したが、元々は伝道師を兼ねた英語教師として来日している。ヴォリーズの建物はファンが多いと思う。こんな優秀な建築家が20世紀前半に日本に住みついて、数多くの名建築を生み出したことは奇跡的なんじゃないかな。ま、これは余談だが。

01_2

次の建物はクラーク記念館だ。これは同志社大学のシンボル的存在で元は神学館として建てられた。やはり重要文化財に指定されている。ドイツ人建築家R.ゼールの設計で、明治26年(1893年)に竣工している。ドイツ人らしい重厚館のある建物で、美しい。

建物玄関の前にある説明書きには「ドイツ・ネオ・ゴチック調」とあるのだけれど、これって正しいの?全体の印象はロマネスクに思える。ネオ・ロマネスク。ただ、俺は西洋建築史の専門家じゃないからね。

時代から言えば、そろそろ過去の洋式建築からの離脱が始まる頃。しかしそういう歴史上での位置づけは抜きにして、よくできていると思う。ずっしりとした存在感で、構成がしっかりしており、本物の匂いがする。中も見たいのだが、黙って入るのは憚られる。2階には礼拝堂もあるらしい。

01_3もう一つ写真入れておこう。ハリス理化学館だ。

アメリカ人実業家J.N.ハリス氏の寄付金で建てられた建物で、設計は英国人建築家のA.N.ハンセル氏。1890年(明治23年)の竣工である。これも重要文化財指定である。

全景を撮るには木が邪魔になる。でもこうして見ると、綺麗なキャンパスだね。ただ、こういう建物が、キャンパスの主たる構内道路に面してまるで展示品のように行儀良く建っている。それがやや俺には物足りない。これらの建物で構成される同志社大学今出川キャンパスは、魅力的であると同時に排他的である。attractiveであると同時にexclusiveであるというのはどういうわけか?

大学のキャンパスというのは一つの街のようなものだ。その構成や意味を問い、解釈していくのは都市を問うことと似ている。一つはっきりさせておこう。都市は建築の陳列場ではない。

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2008年3月23日 (日)

同志社大学今出川キャンパス

Photo_2同志社大学の今出川キャンパスは、同志社大学発祥の地である。今出川通りの北側に位置し、通りを挟んだ南側には御所、北側には相国寺があり、航空写真で見ると実に緑が多い所で、大学の立地としては申し分ないように思えるのだが、実際に行って見るとちょっと印象が違う。御所にせよ同志社にせよ、構内に入ればそれなりに落ち着いた雰囲気になるのだけれど、それぞれの繋がりというものが無い。御所、同志社、相国寺という3つのエレメントがただ隣り合っているだけで、ばらばらな感じを受けるのはどういうわけだろう。このあたり一帯の魅力を増すには、これらの場所の連携を強化する必要があるように思う。

写真で見れば分かるように、御所の側も大学の側も歩道が狭すぎである。このため、御所も同志社も構内に入れば貴重な都市の緑があるのだけれど、その外を歩く人達はゆっくりとこの都市空間を楽しむことができない。同志社大学の塀も問題だ。普通で言えば、漆喰で塗られた土塀は「さすが京都」と褒められるべきかもしれないが、この狭い歩道に面して歩行者に圧迫感を与えているのは考え物である。古ければ良いというものでもない。そもそも同志社大学は、この今出川通りに対して裏側を見せる構えなのである。しかし、もし俺がこのあたりの景観を改良する提案を求められたなら(それはあるわけもないが)、この同志社キャンパスが今出川通りに放つ裏感覚を何とかして打ち破りたいと考えるだろう。

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同志社大学の構内である。

メインの構内道路に面して、いくつもの外装煉瓦の建物が並ぶ。また各々の建物の主玄関はこの構内道路に面する。かくのごとく、このキャンパスは基本的に内向きである。ただし日本の大学は一般にこの傾向が強いのであり、このキャンパスだけを責めているわけではない。

同志社大学今出川キャンパスには重要文化財に指定されている建物が5つある。いずれも煉瓦の外装であり、著名な建築家の設計ではないが良くできている。ある様式というか、文法に従ってデザインすれば、相当のレベルまで質が得られるということの証明になるだろう。こういう時代の建物は、才能のある人の手になるものとそうでないものとの差は小さいのかもしれない。また都市景観的な観点からすれば、文法があるということによって全体の秩序は間違いなく保証される。それを今求めてもしょうがないのだけれど。ではどうすべきなのだろう・・・?

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2008年3月 2日 (日)

小堀遠州/覚悟の上の綺麗

Photo 岡山県にある頼久寺の庭園は、小堀遠州の好みを凝縮していてすごく興味深い。実は1月のNHKの日曜美術館で紹介されるのを見るまで、俺もうっすらと知ってはいたのだが、これほどのものとは認識していなかった。岡山県に行く機会があれば是非訪れてみたい場所である。

遠州がこの庭園を構想したのは1614年、大阪冬の陣の頃で、彼が36歳の時であると伝えられる。遠州はもちろん武家の人であるから、戦にも出ており、つまり命のやりとりをしていた人である。そういう人が一方でこういう美の創出者、クリエーターだったというのが、この時期の日本文化の凄さである。俺の考えが間違っているかもしれないが、数寄などというこの時期の日本文化を表す言葉をそう軽々と捉えてはいけない。そのバックボーンには当時の日本の死生観、無常観、そしてそういうところを突き抜けたところに初めて現れるウィットというものが控えているように思う。室町から戦国を経て江戸初期の頃までの美術や建築こそが、日本文化を極めてユニークなもの、同じ儒教文化圏でも中国、朝鮮と異なったものにしているのだ。

頼久寺の庭園では植え込みを刈り、波を表現している。それはまあそういうことなのだろう。この植え込みの刈り方は、大刈り込みといわれる大胆な刈り方で、刈ることで幾何学的な造形を作り出す。小堀遠州はこれを好んで(というか、そもそもこういうのはこの人が始めたのではないか?)用いたのだが、このようなやり方は誰に学んだのだろうか?想像するに、当時、宣教師などを通じて西洋の庭園についての情報がいくらかは伝わっていたのではないか。ただ、小堀遠州の庭園は、西洋の庭園とは異なり、左右対称ということはあまりない。だから幾何学的なマスが自由に構成されている・・・という、非常に現代的な手法に近い。遠景には山が借景として取り入れられており、全体の印象は、まさに綺麗できっぱりしている。踏み石の構成も見ればいかにも遠州の好みで、切り出した石と、自然な形の石がまるで抽象画のように組み合わされている。あらためて見させられると、とても400年前の日本庭園とは思えない。計算された構成。知性を感じるとはこのことである。

Photo_2桂離宮の御輿寄せ前の庭を見てみると、ここには遠州の好みが色濃く出ていることが分かる。桂離宮古書院の造営は、頼久寺で遠州が作庭を行っていた時期に近い。もちろんこちらは親王の別邸であり、そこに使われる金も大きかったから、使う材料や手間は頼久寺の比ではなかっただろう。そして、この日本建築・庭園の至宝は八条宮智仁親王の指図によるものと、今日考えられているが、今回あらためて調べると、小堀遠州と八条宮智仁はなんと同い歳ではないか!

遠州と八条宮に交流があったのは確かだが、思うに、それは本当に趣味を同じくする者同士の心を許し合った交流だったのではないか。桂離宮の古書院を造営するに当たり、智仁親王は遠州から頼久寺庭園の造り方も聞いたことであろう。

一方、遠州の好みが綺麗なのは、こういう親王や公家との交わりの中で、遠州の先天的な美的才能が刺激を受けたからであろう。小堀遠州は武家の人である。いざとなれば命がけで敵と切り結ぶ、激烈な職業の人である。そういう人が公家文化と交わり、その華やかさ、明るさと接した時、この感性豊かな右脳はどのように反応したのか。その人の気持ちは推して知るべし。「わび、さび」という利休以来持ち上げられた美意識に、「綺麗」というものがもたらされ、綺麗できっぱりとしている、あるいは大胆であるが明るく軽く、色気のある小堀遠州の世界が、公家文化に接することで開かれていったのであろう。

小堀遠州についてはまだまだ書けるように思う。特に、八条宮との交流が本当のところどういうものであったのか、どのような友情があったのかについて、いろいろと思い巡らすこともできる。また遠州における自由な造形とその意味についも考えるところがある。しかし、今回、遠州について少しばかり書いていく中で、何故自分が小堀遠州に魅かれるのか分かったように思う。小堀遠州は愛すべきキザな人である。

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2008年2月17日 (日)

小堀遠州/綺麗キツハ

小堀遠州を論ずるのに、やはり当時の茶道の継承と変化のことを抜きにはできないと、この間、銀座松屋で開催された小堀遠州展によって学んだ。室町時代あたりから江戸初期にかけて、茶道が日本文化に果たした役割はとてつもなく大きい。建築のことで言うと、茶道以前の日本の空間は、宗教的なもの、仏教とか神道との関係において概ね説明できるように思うが、室町時代から戦乱を経て完成していく数寄の世界などの極めて日本的な空間的美意識の成立は、茶道を抜きにはあり得なかったのだろう。

01

銀座松屋の「小堀遠州 美の出会い展」で俺の目を引いたのはこの茶釜である。写真ではよくわからないだろうが、小ぶりの茶釜で、それがこのような釜の上を包丁ですっぱり水平に切ったような造形である。現代作家の手になるものである・・と言われても何の疑いも持つまい。それが400年も前の遠州好みと伝えられる釜なのだ。

「織理屈、綺麗キツハハ遠江、お姫宗和ニムサシ宗旦」と伝えられている。千利休は言うまでもなく茶の湯の大成者であり、秀吉より死を賜って自刃したことは皆知っていることだ。戦国の世とは言え、「死ね」と言われて「死にましょう」と、腹を切って死んだような人だから、その人が完成した茶の湯というものの本質は尋常ならざるものだ。利休においては茶の湯の空間と時間は、例えば妙喜庵待庵のような薄暗くて狭い部屋の中で、亭主によって茶が点てられ、客がそれをいただく一連の流れの中で、極めて非日常的な時間を共有することにあろうが、そこにある美学はただ美しいということではなく、土なら土、光なら光をそれそのものとして観照する態度であると思われる。

古田織部は千利休の高弟であって、利休の後継者としての自負もあったことだろう。しかし、一言で言えば偏屈の人だったらしい。織部焼きと称される織部好みの焼物は、形は歪み、模様もわざと下手で、まずは自然の形を最上としたらしい。ちなみに古田織部も大阪夏の陣の後、切腹を命じられる。だから織理屈である。

高森宗和はお姫様好みというから、女性的な感じがしたのだろう。よく知らないが・・・。ムサシ宗旦というのは、宮本武蔵みたいな宗旦か・・と、ふと思ったのだが、そんなわけあるはずもない。調べると、ムサシとは「むさくるしい」ということらしい。それぐらいに千宗旦は祖父である千利休の「わび」を推し進めたらしい。乞食宗旦とも呼ばれている。清貧を上とする人であった。

それで小堀遠州は大名であり小堀遠江守なのだが、この遠江守は綺麗キツハだという。綺麗は分かるが、キツハはどういう意味か。茶道史研究の熊倉功夫博士は「キツハは『ぎっぱ』で立派という意味であろう」と書いているのだが、先月のNHKの番組では「きっぱりしていることだろう」と解説していた。織部は理屈、宗和はお姫、宗旦はむさい・・・と評する中で、遠州は綺麗で立派とするのは、ちょっと凡庸な表現に思う。だから「綺麗できっぱりしている」とするNHKの解説が正しいと思う。当時から、小堀遠州の好みは「綺麗であり、きっぱりして、つまりシャープな印象を与えるもの」と認識されていたのだろう。小堀遠州にはとりわけ知性的なものを感じる。

今から晩飯の仕度をする。小堀遠州については、つづく・・・だ。

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2008年1月31日 (木)

茂木健一郎から教わる建築の意味

建築学会の機関誌は「建築雑誌」という名前で、「そのまんまやんけっ!!」というつっこみを入れる人は俺を始めとして約10万人いる。その雑誌がどうもあまり面白くない、かつ役に立たないという議論も相当あるようで、最新の建築雑誌は建築雑誌のあり方云々を論ずる特集であったように記憶する。記憶するだけで確かめようが無い。なぜなら、役に立たないので捨てたからだ。

すぐに捨てることの多い建築雑誌だが(ところで、ここでの建築雑誌は建築の雑誌という一般名称のことではなく、建築学会が出している機関誌であるところの「建築雑誌」という建築の雑誌のことだ)、どういうわけか古いものが残っていることがある。2005年10月号の建築雑誌が出てきたので、ぱらぱらとページをめくっていたら、寄稿者の中に茂木健一郎の名前を見つけた。脳科学者としての茂木健一郎は最近随分有名になって、テレビでもよく見る文化人になったが、2005年当時はまだそれほどではなかったと思う。有名になった茂木健一郎だが、俺は彼の書いた本を読んだことが無いので、何をする人なのかいまいちよく分からない。だが、この度発見した建築雑誌の中で、彼はとても面白いことを書いてくれているので要約して書きとめておこう。

まず彼は、1972年にローマにあるシンクタンク「ローマクラブ」が「成長の限界」というレポートを発表して、大きな反響を呼び起こしたことから論を始める。資本主義社会において経済成長が無限に続くというシナリオは、地球の自然のキャパシティが有限であることに着目すれば、いずれその限界に至るという、極めて当然と思える結論を、そのことから目を背けている人間に突きつけたのがこの報告書である。しかし茂木は、人間社会がより高度に組織化される中で、この単純なマスとしての限界は乗り越えてきたと言う。ところが、近年、いわゆるIT(情報技術)がポスト工業化社会を誕生させ、情報、知識を扱うこと自体が経済活動の主要な目的になってきたこと、そしてITにはローマクラブが指摘したような制約はもともと存在しないと思われてきたことを紹介した上で、しかし限界は思わぬところから顕在化して来たと言うのだ。

それは、人間の脳の情報処理能力、容量の制約による限界である

・・・・・

今後、大容量のブロードバンドが普及し、テクストだけでなく好きな音楽、映像がインターネットをとおして容易に得られる時代が来たとしても、果たして私たちはそれを味わう時間と心の余裕を持つのだろうか。

・・・・・

現在の状況は、過剰なデジタル情報が人間の脳の有限の可処分時間、可処分注意を奪い合う、情報過剰の時代への突入を予感させるのである。

この指摘は、俺も何となく心の底にあった「IT社会への疑念」に符合するもので、「なるほどそうだよな」と肯かせるものである。我々は今や情報の洪水の中ですでに溺れており、快適というよりもむしろオーバーヒートする脳の機能不全に悩まされているのではないか。それを俺は「情報過多に起因する精神の故郷喪失」と呼びたい。そして茂木は「最後の1メートル」について述べる。

一生を終えるときに、「ああ、毎日メールをたくさん読んで、ネットサーフィンして、いい人生だった」と思うのと、「毎日庭で草花の手入れをしていい人生だった」と思うのの、どちらがよいか。ムーアの法則に従ってデジタル情報が爆発的に増大したとしても、それに人間が付き合う筋合いは毛頭ない。

2002年にノーベル経済学賞を受賞したカーネマンらの「行動経済学」の研究の過程において、人間は、必ずしも外部的に規定された経済的合理性に従って行動するとは限らないことが示された。・・・

・・・検索エンジンをはじめとするウェブ上のデジタル情報からのマイニング技術は、論理的操作の積み重ねによって、人間にとって価値のある情報をユーザーのパーソナル・コンピューター画面まで持ってくる。しかし、ユーザーの知覚品質までの「最後の1メートル」をどのように設計するかによって、その情報が最終的に人間のよりよき生き方に寄与するかどうかは大きく左右される。

知覚というものが人間による情報の受容であるとすると、確かに機械的に膨大な量の情報を発信できるかもしれないが、その受容の段階では人間の脳という極めて情動的で限界のあるスクリーニングを経ることになるのである。この一連の機械・人間システムの中から良くも悪くも「生きている人間」という古い概念を排除することなど、そもそもできないのではないか。建築の側に引き寄せて考えれば、「ITが建築に影響を与えて、建築そのものの概念を覆す」と考えるのは、あまりに能天気な思考だと思えるが、どうだろう。茂木の論を追おう。

もちろん、われわれはITなしでは、もはや生きていくことはできない。人間がITに合わせるのではなく、ITの側が人間に合わせるように進化することによって、ITの「成長の限界」を乗り越えることは可能なはずだ。

建築もまた、今やIT抜きで考えることは難しい。しかし、建築は本来、人間の為にあるのであり、ITの為に変容していかねばならない義理は無い。建築を考える出発点は依然として人間であり、人間以外にあり得ないということになる。変わらなければならないのはITの方であって、人間がITの側に擦り寄ってどうする。

茂木はここで、彼の専門の脳科学の知見から、人間の情報認識は「クオリア」と呼ばれるある質によって行われていると述べる。それは心理学あるいは認識論に通ずる議論であり、脳を研究することで、哲学的思考が科学的に裏付けられているように思える。

私たち人間の意識のなかでは、すべての情報はある質感を持った「クオリア」(qualia)として認識されている。それが、シンボリックな記号であれ、抽象的な数字であれ、あるいは赤や青といった色であれ、ある情報が意識のなかで、他と区別される形でユニークに把握されるとき、それはひとつのクオリアとして立ち上がるのである。

そして、脳の中でクオリアが生成されるメカニズムを考えると、一つの重要な性質が指摘される。それは「クオリアの非可算性」である。

例えば、「メロンを食べる」という体験は、メロンの「香り」、「甘み」、咀嚼し、飲み込むときの「テクスチャ」のクオリアをそれぞれ単独で味わったものの単純可算以上の新しい質感をもたらしている。

建築、あるいは空間を体験することは、このようなクオリアによる認識の特性によりうまく説明されるように思う。建築の最も重要な部分は、技法的に考えるならば、造形ではなく組み合わせの妙味である。

短い論文の結論部分で、茂木は建築の可能性について、脳科学者の立場からエールを送っている。それは極めて示唆的で、また建築に関わる者に勇気を与える。長くなるが引用する。

・・・空間は、並列性を展開することが本来的なメディアである。空間の設いをその本分とする建築が、人間に固有のクオリア体験を与えるうえで特権的な可能性を占めていることは言うまでもない。

・・・・・

IT全盛の現在だが、人間の体験の質という視点から見たITの限界はすでに今ここにある危機である。この踊り場を乗り越えることは、空間設いのアートとしての建築がITにすり寄ることではなく、ITの限界を建築をはじめとする人間の全体性を扱う知恵が、発展的に補足することで初めて可能になる。

人間の内なる自然に論理的、シンボル的な演算を持ち込むという意味での陳腐な「サイバー」を超えた地点に、ITと建築融合の真の可能性があるのである。

茂木健一郎か、・・見直した。

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2008年1月20日 (日)

小堀遠州/建築家

先週のことだが、松屋銀座店の催場で小堀遠州の展覧会をやっていたので足を運んだ。NHKの日曜美術館で紹介されたこともあるのだろう、大変な混みようである。なかでも中年以上の女性の数が多い。そうして、展示物を見ていると、「ああ、これこれ高取よっ。いい形ね」などと、小声で、しかもサラッと話しているオバサンの会話が聞こえてくる。負けた・・。高取焼きってそんなに有名?俺は正直知らんかった。こんな会話ができるオジサンがどれほど日本にいるであろう。日本の中年女性の文化度は相当に高い。

日本の女性の文化度の高さを支えているのは、いわゆるお稽古事のシステムだろう。確かめた訳ではないが、お稽古事をやる女性の数は同年代の男性よりはるかに多いと思われる。お稽古事というのは一種の教育システムであり、それによって日本の古典文化などを学んでいけるようになっている。茶道は総合芸術だろうから、これを学ぶ女性が、いつの間にか陶芸や書画の知識を広めて行くのは当たり前である。俺が「やられた」と思ったオバサン達も、おそらく茶道を学ぶ方なのであろう。女性は仕事に就いている年代でもお稽古をする。一般論だが、仕事で時間とエネルギーを使い切ってクタクタの男性と比べ、女性の方が余力を残し、お稽古事にその余力をつぎ込むことができるのであろう。そういうことを何十年も続けた後、平均的な男性は濡れ落ち葉になって行く。日本の文化を下支えしているのが、こういう小堀遠州の展覧会などに大挙して足を運ぶオバサン達であるというのは間違いないだろう。

01で、小堀遠州のことである。

俺が大徳寺孤篷庵の忘筌を始めて訪れたのは、もう30年ほど前のことになる。そしてそれ以来、一度も訪れていない。だいたい孤篷庵は普段は公開していないので、特別公開の時を狙うしかないのだが、勤め人にはそのために会社を休み、わざわざ京都へ行くのは難しい。そうして30年ほどが過ぎた。だが、この孤篷庵忘筌よりの庭の眺め。建築をかじったことのある人なら知らないとは言わせない。それほどに有名な茶室であり、庭園である。

明治より以前、日本には西洋の建築家といういう概念にあてはまる職業はなかったのではないかと言われるが、小堀遠州だけは建築家という呼称が当てはまるように思う。この人はもちろん大工棟梁ではない。だが、この人が関わった建物や庭は、遠州好みという独特の美意識に、しかも遠州以前と較べて独創性あふれる美意識に統べられている。遠州抜きには成立しなかったであろう空間なのである。そういう意味では千利休も建築家であったと言えるが、利休があくまで茶道という枠の中で、その道具立てとしての茶室の建設に関わったの対し、遠州は作事奉行として城や寺、そしてもちろん茶室の建設という、幅広い用途の建設に関わり、また相当に建設そのものの知識を持った技術者であったということから、建築家という呼称によりふさわしいと考えるのである。

桂離宮も小堀遠州の作であろう・・というのは50年ぐらい前の学説で、今日では施主である八条宮智仁親王が直接の指示を与えたとする。小堀遠州が大工や庭師を差配したという記録がついに出てこなかったからである。であれば、桂離宮という日本建築の最高峰を生み出した建築家は八条宮になるが、実際のところ、桂離宮というのはいわゆる遠州好みが色濃く現れていて、「遠州が全く関わっていなかった」と断ずることがむしろ不自然に思えるのである。少なくとも小堀遠州が八条宮に相当のアドバイスを与えたのではないか。こういうことは磯崎新も言っていて、また八条宮と小堀遠州のつきあいがあったことは証拠もあることである。だから、やはり桂離宮造営における建築家としての一番重要な役割、つまり構想し、最も重要な細部について指示するという部分は、小堀遠州がたとえ口頭であれ八条宮智仁親王に伝えたことなのではないか・・と、俺も思うのである。

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2008年1月 6日 (日)

2008年1月6日ようやく

年が明けて、今日が今年の最初の日曜日である。昨夜遅く、年賀状をいただいた方の内、こちらが年賀状を出していない方への年賀状20数枚をポストに入れた。これでだいたいこの正月の年賀状戦線は終結したはずである。深夜の街は交通量も少ない。一仕事終えた気持ちで、歩きながら深呼吸を繰り返した。年末から正月にかけて、毎日やらなければならない用事がある。ブログの方はしばらく手が付けられなかったなぁ。

2007_001この正月も京都に帰った。その証拠に写真を一つ載せておくことにする。大晦日の錦市場だ。錦市場と言えば、日本でも最もはやっている商店街ということになる。この写真は御幸町通りから撮ったもので、錦市場の東の入口になる。この中へ入って行くと大変な人出で、まさにイモを洗う状態になる。ここへは正月に使う鰹節を買いに来た。小ぶりなものを選んで買ったが、一本2520円もした。錦市場はちょっと値段高めだ。これは錦市場というブランド料らしい。はやらない商店街からすれば、実にうらやましい話であろう。2007_003

もう一枚の写真はそこで売っていた白みそを撮っている。京都では正月は白みそ雑煮を食べる。味噌の味が決め手で、だから味噌がミソなのだ。良い白みそを使った雑煮は実に美味いもので、京都の雑煮がやっぱり俺には一番美味い。これを手前味噌と言う。

慌ただしい帰省であった。1月3日にはこちらに戻って来た。家族4人と1匹なので車で移動する。それが一番安いからだが、運転手を務める俺は、目一杯疲れる。3日の日は神奈川まで戻ってから、大きな事故渋滞に巻き込まれた。たった20キロを抜けるのに2時間以上もかかった。途中でも渋滞に会ったから、京都の家を出て、埼玉の俺の家に帰り着くのに都合12時間かかったのだ。途中休憩も入れてだが・・・。調子よく走れる時は7時間ぐらいだ。今回は疲れた。だから今、こうしてブログ記事を書いているのは、本当に「ようやく」という感じなのだよ。

さて、次回からまた少し建築について論考しようと思う。今日のNHKの日曜美術館という番組で小堀遠州のことを取り上げていた。小堀遠州。実にすごい建築家にして造園家、かつ先進的茶人にして有能な官吏(作事奉行)である。この人の残したものをテレビで見ていたら、建築における自由についてもう少し書いておきたくなった。つまり建築は自由である・・ということについてである。

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2007年12月15日 (土)

2007年12月15日天気晴朗にして

実はこのところブログを書くのがしんどいのである。「しんどい」というのは関西の言葉で、疲れる、つらい、という意味である。理由は二つあって、一つはとにかくやらなければいけないことがたくさんあって、時間が無いということ。もう一つは書くネタが無いということである。二番目の理由は更にその理由があって、外をぶらぶらと出歩かないからネタが拾えないということである。それというのも時間が取れないからだから、結局は時間が無いということに収斂してしまう。ネタがなければ同じようなことを繰り返すしかないので、これは俗に言う繰言ということで、症状としてはボケ老人に近くなる。俺はまだボケるほどには歳をとっていない。時々知っているはずの人の名前が出てこないことがある。それはたいがい前の日に飲みすぎた酒のせいで、歳のせいではない。朝、降りるべき駅で降りず、二つほど過ぎた駅でそのことに気が付く、いや正確に言えば目覚めることがある。それは降りるべき駅の三つ手前で、立っている俺の前の席に座ってた奴が電車を降りたためである。立っている自分の前の席が空き、そこに座る。日頃の仕事で疲れている俺がそこでついウトウトと寝てしまったところで、誰が俺を責められるだろう。据え膳食わぬは男の恥、空き席座らぬはオヤジのやせ我慢である。

ネタが無いので読んだ本のことなどを書くことになる。あの本について書こうか。あの本とはアレックス・カーの「犬と鬼」のことだ。これはちょっと根性が要る。今はやめとこ。もうちょっと気力が充実している時に書こう。