2008年3月30日 (日)

麗しのキャンパス?/同志社

同志社大学の今出川キャンパスのことを続ける。

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重要文化財に指定されている有終館。「有終の美を飾る」の「有終」だ。元々は図書館であった。それが新しい図書館ができたので、その役目を終えた・・ということから「有終館」と名付けられたらしい。この建物に限らず、同志社大学の建物は何かしら名前が付いている。黒色の煉瓦と白い石の帯がアクセントになっていて、遊び心が感じられる。建物の設計時には米国からの派遣宣教師が指導したと、建物正面に貼り付けてあるパネルに書いてあった。その宣教師の名前までは記してない。明治18年(1885年)に定礎が置かれ、2年後の明治20年(1887年)に竣工している。

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有終館の南側外壁詳細です。

なかなかに凝ったデザインで、良いと思う。19世紀末に建てられた建物として革新的なものはないかもしれないが、軒蛇腹のデザインや柱の面取り、あるいは窓下の腰壁が黒煉瓦を交えた斜め張りになっているところなどは見所である。この建物の設計者はこの建物が皆に愛されることを願っていたんだろうな。そういうことが感じられる建物である。

この当時、米国の宣教師や伝道師は、キリスト教の布教と同時に、西洋建築の技法を日本に伝えることにおいて相当重要な役割を果たしたらしい。W.ヴォーリズは20世紀前半に建築家として実に多数の建物を日本各地に残したが、元々は伝道師を兼ねた英語教師として来日している。ヴォリーズの建物はファンが多いと思う。こんな優秀な建築家が20世紀前半に日本に住みついて、数多くの名建築を生み出したことは奇跡的なんじゃないかな。ま、これは余談だが。

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次の建物はクラーク記念館だ。これは同志社大学のシンボル的存在で元は神学館として建てられた。やはり重要文化財に指定されている。ドイツ人建築家R.ゼールの設計で、明治26年(1893年)に竣工している。ドイツ人らしい重厚館のある建物で、美しい。

建物玄関の前にある説明書きには「ドイツ・ネオ・ゴチック調」とあるのだけれど、これって正しいの?全体の印象はロマネスクに思える。ネオ・ロマネスク。ただ、俺は西洋建築史の専門家じゃないからね。

時代から言えば、そろそろ過去の洋式建築からの離脱が始まる頃。しかしそういう歴史上での位置づけは抜きにして、よくできていると思う。ずっしりとした存在感で、構成がしっかりしており、本物の匂いがする。中も見たいのだが、黙って入るのは憚られる。2階には礼拝堂もあるらしい。

01_3もう一つ写真入れておこう。ハリス理化学館だ。

アメリカ人実業家J.N.ハリス氏の寄付金で建てられた建物で、設計は英国人建築家のA.N.ハンセル氏。1890年(明治23年)の竣工である。これも重要文化財指定である。

全景を撮るには木が邪魔になる。でもこうして見ると、綺麗なキャンパスだね。ただ、こういう建物が、キャンパスの主たる構内道路に面してまるで展示品のように行儀良く建っている。それがやや俺には物足りない。これらの建物で構成される同志社大学今出川キャンパスは、魅力的であると同時に排他的である。attractiveであると同時にexclusiveであるというのはどういうわけか?

大学のキャンパスというのは一つの街のようなものだ。その構成や意味を問い、解釈していくのは都市を問うことと似ている。一つはっきりさせておこう。都市は建築の陳列場ではない。

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2008年3月23日 (日)

同志社大学今出川キャンパス

Photo_2同志社大学の今出川キャンパスは、同志社大学発祥の地である。今出川通りの北側に位置し、通りを挟んだ南側には御所、北側には相国寺があり、航空写真で見ると実に緑が多い所で、大学の立地としては申し分ないように思えるのだが、実際に行って見るとちょっと印象が違う。御所にせよ同志社にせよ、構内に入ればそれなりに落ち着いた雰囲気になるのだけれど、それぞれの繋がりというものが無い。御所、同志社、相国寺という3つのエレメントがただ隣り合っているだけで、ばらばらな感じを受けるのはどういうわけだろう。このあたり一帯の魅力を増すには、これらの場所の連携を強化する必要があるように思う。

写真で見れば分かるように、御所の側も大学の側も歩道が狭すぎである。このため、御所も同志社も構内に入れば貴重な都市の緑があるのだけれど、その外を歩く人達はゆっくりとこの都市空間を楽しむことができない。同志社大学の塀も問題だ。普通で言えば、漆喰で塗られた土塀は「さすが京都」と褒められるべきかもしれないが、この狭い歩道に面して歩行者に圧迫感を与えているのは考え物である。古ければ良いというものでもない。そもそも同志社大学は、この今出川通りに対して裏側を見せる構えなのである。しかし、もし俺がこのあたりの景観を改良する提案を求められたなら(それはあるわけもないが)、この同志社キャンパスが今出川通りに放つ裏感覚を何とかして打ち破りたいと考えるだろう。

Photo_3

同志社大学の構内である。

メインの構内道路に面して、いくつもの外装煉瓦の建物が並ぶ。また各々の建物の主玄関はこの構内道路に面する。かくのごとく、このキャンパスは基本的に内向きである。ただし日本の大学は一般にこの傾向が強いのであり、このキャンパスだけを責めているわけではない。

同志社大学今出川キャンパスには重要文化財に指定されている建物が5つある。いずれも煉瓦の外装であり、著名な建築家の設計ではないが良くできている。ある様式というか、文法に従ってデザインすれば、相当のレベルまで質が得られるということの証明になるだろう。こういう時代の建物は、才能のある人の手になるものとそうでないものとの差は小さいのかもしれない。また都市景観的な観点からすれば、文法があるということによって全体の秩序は間違いなく保証される。それを今求めてもしょうがないのだけれど。ではどうすべきなのだろう・・・?

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2008年1月 6日 (日)

2008年1月6日ようやく

年が明けて、今日が今年の最初の日曜日である。昨夜遅く、年賀状をいただいた方の内、こちらが年賀状を出していない方への年賀状20数枚をポストに入れた。これでだいたいこの正月の年賀状戦線は終結したはずである。深夜の街は交通量も少ない。一仕事終えた気持ちで、歩きながら深呼吸を繰り返した。年末から正月にかけて、毎日やらなければならない用事がある。ブログの方はしばらく手が付けられなかったなぁ。

2007_001この正月も京都に帰った。その証拠に写真を一つ載せておくことにする。大晦日の錦市場だ。錦市場と言えば、日本でも最もはやっている商店街ということになる。この写真は御幸町通りから撮ったもので、錦市場の東の入口になる。この中へ入って行くと大変な人出で、まさにイモを洗う状態になる。ここへは正月に使う鰹節を買いに来た。小ぶりなものを選んで買ったが、一本2520円もした。錦市場はちょっと値段高めだ。これは錦市場というブランド料らしい。はやらない商店街からすれば、実にうらやましい話であろう。2007_003

もう一枚の写真はそこで売っていた白みそを撮っている。京都では正月は白みそ雑煮を食べる。味噌の味が決め手で、だから味噌がミソなのだ。良い白みそを使った雑煮は実に美味いもので、京都の雑煮がやっぱり俺には一番美味い。これを手前味噌と言う。

慌ただしい帰省であった。1月3日にはこちらに戻って来た。家族4人と1匹なので車で移動する。それが一番安いからだが、運転手を務める俺は、目一杯疲れる。3日の日は神奈川まで戻ってから、大きな事故渋滞に巻き込まれた。たった20キロを抜けるのに2時間以上もかかった。途中でも渋滞に会ったから、京都の家を出て、埼玉の俺の家に帰り着くのに都合12時間かかったのだ。途中休憩も入れてだが・・・。調子よく走れる時は7時間ぐらいだ。今回は疲れた。だから今、こうしてブログ記事を書いているのは、本当に「ようやく」という感じなのだよ。

さて、次回からまた少し建築について論考しようと思う。今日のNHKの日曜美術館という番組で小堀遠州のことを取り上げていた。小堀遠州。実にすごい建築家にして造園家、かつ先進的茶人にして有能な官吏(作事奉行)である。この人の残したものをテレビで見ていたら、建築における自由についてもう少し書いておきたくなった。つまり建築は自由である・・ということについてである。

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2007年11月18日 (日)

吉田鉄郎の建築

先週のことだが、姉が大学の同窓会やなんやかやで東京に出てきた。日曜の夜には京都に帰るということで、帰る日の夕方に少し早い晩飯を丸の内のあたりで一緒に食べることにした。この頃は陽も早く沈むので、5時前にはもうすっかり夕刻の雰囲気だ。夕暮れの丸の内を少しの時間だが眺めまわした。この辺りはここ10年ぐらいで随分変わって、現代的なビルが林立する情景になっている。常日頃、俺は新しい開発を批判しがちなんだけど、丸の内周辺のこの変化は嫌いではない。東京の表玄関としての丸の内は、なかなか良くなってきたと正直思っている。これで東京駅の姿が建築当初の形を復元できれば、世界の他の大都市の表玄関と較べても、けっこう良い線行っているのじゃないかと思う。

Photo_2 昔の逓信省営繕部は今のNTTファシリティーズの源流になる組織で、山田守や岩元禄などの優秀な建築家を擁した名門である。吉田鉄郎もそうした建築家の一人で、東京駅のそばにある東京中央郵便局はその代表作といわれる。

この東京中央郵便局が取り壊されるかもしれないという話がある。建築学会などを中心に、保存の要望が出ているようだ。これについては、「残せるものなら残した方が良い」というのが俺の気持ちだ。どうしても残さねばならない・・・という程ではない。東京生まれの人間でないのでよく分からんのだが、これが無いと丸の内という場所のアイデンティティが損なわれるという・・・そういうことは無いんではないかと感じている。建築や都市に関係が無い人達もだいたいそういう意見なのではないだろうか。

建築の作品としてこれが名建築と言えるのか?・・・についても、正直、評価が難しいと思う。1931年に完成し、かのブルーノ・タウトがモダニズムの傑作と称えた・・というのだが、どうなんだろうね。このブログでは、自分の感覚でしか物を見ないことにしている。誰が何と言おうと、ピンと来ないものはピンと来ない。確かに悪くはないけれど、世界に目を転ずれば、1930年にはコルビジェ設計のサヴォア邸が完成し、1933年にはアルヴァ・アアルト設計のパイミオのサナトリウムがその美しい姿を現している。Cpscott この東京中央郵便局と同様のシンプルなグリッドによるファサード表現は、ルイス・サリヴァン設計の百貨店カーソン・ピリー・スコットに見られ、しかもどう見てもこちらの方が完成度が高い。カーソン・ピリー・スコットの完成年は1904年だ。

結局、当時の日本の近代建築のレベルはその程度だったのじゃないか・・・と思うんだ。ブルーノ・タウトが「モダニズムの傑作」と評したというのは、日本を案内してくれた吉田鉄郎に対する多分に社交辞令的なものだったのではないか・・・と疑えば疑える。

だから壊してよいとは思わない。この東京中央郵便局の建物が、丸の内という場所の記憶に重要な位置を占めているのなら、それはやはり保存の道をさぐるべきだとは思っている。

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京都にも吉田鉄郎の作品がいくつか残っている。京都中央電話局上京分局は1924年の完成で、東京中央郵便局より古い。こちらは「カーニバル・タイムズ」という名前で、レストランおよび結婚式場として改修利用されている。中には入ったことないが、外を見る限り、鴨川にかかる橋のたもとに堂々とした存在感を示している。これは残したい。

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2007年11月 4日 (日)

京都という都市の生き方

一つのことに集中できないタイプの性格である。あれやこれやと手を出しては、中途半端に投げ出す。自分のことを言っているのだが・・・。だから大成しないのかもしれんな。

中学生の頃に、周りにギターを始める奴らがいる。それで俺もギターをやりたいと思ったが、どうもあの、コードを覚えてジャジャーンとやるのは好きじゃない。ナルシソ・イエペスの「禁じられた遊び」というのを聞いて、あーいうのをやりたいのだが、それならマンドリンで近い感じが出せるだろうと実に安易な考えで、親にマンドリンを買わせた。2ヶ月ぐらいは練習したが、まあ続いた方だ。それから、10年も経って、フランス人の友達がすばらしく上手にフルートを吹くのを聴いた。プロの音楽家でもない化学が専攻の男が奏でるメロディーに感動した。それでまた、親にフルートを買わせた。結婚した時に、これは持って行けと、親からそのフルートを押し付けられた。爾来、自分の家の押入れの奥にしまってある。当時10万もしたそうだ。このフルートはまともな音を出してもらったことが無い。「フヒェー」という、「風邪でもひいたんか、爺さん」みたいな音しか、ついに出してもらえなかったフルートが不憫である。

京都の景観というのは、俺のそういう苦い経験からすれば、集中すべきこの一点である。これをうまくやらなければ、京都は世界に誇れる街になれない。人の才能も様々、企業の持ち味も色々。小泉元首相も「人生いろいろ」と言ったではないか。都市も同じである。京都が東京になる必要は無い。むしろ京都が「他の街と違うところは何か?」をはっきりとさせ、そのことを自分達の強みとして育てていくのが、経営理論の教えるところである。京都が景観の問題でしくじれば、そう時間を経ずして、他所と変わらぬ「ただの人口100万都市」になるだろう(もうかなりつまらん都市になりつつあるのだろうが)。

01 朝日新聞2007年11月1日朝刊には京都に於いて、この9月に以前より厳しい「新景観政策」が開始されたことを報じている。これにより、京都市の市街地ほぼ全域で建物高さは31m以下(以前は45m)に抑えられる。市街中心部の幹線道路内側では更に厳しく、15m以下となる。また、市街地のほぼ全域を景観地区や風致地区に指定し、屋根は傾斜屋根として瓦か金属板で葺くことになる。これらの規制が、私の財産権を制限していることになるというのは、その通りだ。おそらく京都の住民の中でも、建設や不動産に従事している人はもちろん、自分の住んでいる土地の値段が下がると危惧する人も、この規制が京都の経済に悪影響を与えるだろうと批判するかもしれない。だが重ねて言うが、マクロ的に見るならば、京都の生きる道は、「その特色を強調していくこと」につきる。それがこの街のとるべき戦略というものである。

上の写真は西陣の中心部、大宮通沿いの街並みを撮ったものだ。観光客が訪れているのも窺えるが、街は古い町屋のデザインを踏襲したものから、新建材に覆われた建物まで混在しており、かなり混乱した印象を与える。遠くにはかなりの高さのマンションも見える。電信柱、電線の醜さはここでもひどい。

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少し離れた場所には、このように新しい3階建ての木造住宅が並ぶ。住んでいる人達には悪いが、これら新建材で包まれた「新しいデザイン」の住宅は、まったくの景観破壊と言うしかない。写真ではこれらが古い街並みを侵食しながら建てられているのが見て取れるだろう。これらの新しい住宅も、新たな高さ規制、傾斜屋根の基準はクリアできる。京都市の新しい規制によっても、なお京都の街並みを守るのには不十分だと、俺が考える所以である。

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2007年10月 9日 (火)

西陣電話局

01 油小路今出川を南へ下がっていくと、やがて右手に楽焼の本家、楽家の屋敷に至る。そこをもうちょっと下がり、中立売通りまで来ると、その通りの角にあるのが西陣電話局だ。大正11年の完成だから、建ってから85年ぐらいか。名建築・・という誉の高い建物で、そのことを良く知っている(はずの)NTTは、さすがにこれを取り壊さず、何とか再利用しているらしい。設計者の岩元禄は当時、逓信省建築部の技師で、この建物が完成した後、29歳の若さで亡くなった。この建築家を語るときはいつも、「夭折の天才建築家」という修飾語が付く。そうは言っても、そういうことを知っているのはだいたい建築の専門家ぐらいで、一般の人はあまり知らないだろう。

この建物は一応、表現派という潮流に属するのだろう。その後の分離派、ヨーロッパではゼセッションやデスティルなどに繋がる流れかと思う。

02 そんなに名建築か?なんてことを言ったら張り倒されそうだな。岩元禄は建築の芸術性を高らかに表現した建築家・・ということになっている。この有名なレリーフを見よ。

で、本当のところ俺の感想は・・・まあまあ。なにがどうというのはないが、この建物、内部空間は見るところ無い。外部はこの有名なレリーフに尽きる。天気も悪かったからね。でも、味のある建物ではある。名作というより秀作。

03 給水塔を隠す壁にはライオンのレリーフ。しかしどう写真を撮っても電線が邪魔だな。電信電話局の傑作と言われる建物がこうして電線に囲まれて、その雄姿を損なわれているのは因果応報か?

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2007年9月29日 (土)

京都の景観/西陣

200701 夕日が沈む直前に夕日に向かって空を七分、建物を三分の割合で写真を撮ると、ドラマチックな写真になるというのでやってみた。なかなかいいぞ。手前の伝統的な町屋の前も横も、新建材で建てられた新しい家に囲まれている。手前の古い町屋を引き立ててくれている。空を縦横に横切る電線はどうだ。アブストラクトな模様がクールだ。何時空を見上げても、この電線でできた抽象美を楽しめるのは、戦後一貫して日本国中に電線を張り巡らせてきた技術者達のおかげだ。このおかげで日本国中、電気が自由に使える。道に面した駐車場・・というか、駐車場に挟まれた道。京都だって車は必要だ。これは文明の象徴だぞ。この国がいかに文明国になったか、世界中に知らしめようではないか。世界中の人に見てもらおう!!これが、世界に誇る日本の歴史都市、京都、その西陣織で有名な西陣だ。どうです、手前の伝統的家屋。現代的な物達に囲まれて、その美しさが際立っていません?

我々はかく鈍感になり、その遺伝子は次世代に継がれつつある。

200702 すでにかなり有名な三上長屋を訪れた。日も暮れかけるこの時間、外からランドセルを背負った男の子が帰って来るのに出くわした。自分の子供の頃に出会った気がして、懐かしさで涙が出そうになった。本当はこういう人が住んでる場所に、他所から来た人が大勢見物に来るというのはどうかと思う。しかし、敢えて見に来てもらいたい。大勢来るということが、この場所への賛成投票になると思うから。

200703 時間はあまり残されていない。この三上長屋のすぐ隣には、この写真のように木造モルタル3階建ての住宅が並ぶ。またすぐ近くにもやはり、こういう建売住宅が建設されつつあった。このような住宅を作り、売り続ける人たちがいる。商売は自由だ。だが、おそらくその人たちには西陣という場所に対する愛情は無い。

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2007年6月24日 (日)

2007年6月24日

特に書くことは無いのだが、このところの生活の記録を少々。

梅雨入り宣言後も雨があまり降らない。雨は嫌だけれど、降るべき時期に降らなければ、それはそれで困るよな。今日も曇り空だけれど雨は降っていない。実は数日前から窓がビニールシートで覆われている。住んでいるマンションの大規模修繕工事で外壁の塗装工事が始まり、塗装部位以外を塗材から守るためシートで覆われてしまった。当然窓は開けられない。部屋内はなんとなくジメッとしているのだが、ただ我慢している。窓を開けるという何でもないことで、気持ちも開け放つことができたのだと、実は大事なことなんだと、自分で自分に頷いている。

相変わらず仕事を持って帰っている。スッキリ休めない。どこへも行けない。窓は塞がっている。気持ちも塞がる。そういう日曜日だということ。

これで終わるとあまりに面白味が無いブログなので、京都の写真をひとつ載せておこう。

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北野天満宮は菅原道真を祭る神社で、学問の神様、受験の神様ということで賑わっている。牛はこの神社では神のお使いとして特別の意味を持つ。神社の境内には「お牛様」が祭られていて、京都の受験生は受験の前にお参りに来る。いや、京都だけでなく、他府県からも来ているようだ。

この写真はその「お牛様」ではない。御手洗の手水鉢に置かれている。なんかいいね・・・と、俺は思ったが。正月の初詣の折である。ここには幾つかのキーワードがある。水、それも神聖な水、神、動物、自然。心の深いところに働きかけるイメージ。そういうものが大事なんだな・・と、ここのところずっと思っている。

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2007年3月 4日 (日)

鞍馬のこと

今日、3月4日、日曜日の朝の血圧は上が148と少し高めだったが、久しぶりに身体の調子が良く感じられた。昨日の仕事の打合せで問題が見通せたことで緊張がほぐれたのか、昨夜飲んだ胃薬のおかげで胃の不快感が消えたことが良いのかわからないが、こういう時は目まいも感じず、犬と散歩すると春めいた景色に心が安らぐ。

京都の北、鞍馬の事を少し。

01_4先日、京都に帰った折に鞍馬寺を訪ねた。源義経が牛若丸と幼名を名乗った頃、この山にて修行したと伝えられる。昨秋来のストレスの蓄積が大きくなっていたので、少し自然に浸れる場所へ行きたいと思い、山道を登った。この写真のように山の中を石段が続く静かな道である。しかしこの時ばかりは目で緑を見ても心はこれをしっかり捉えることができず、いらいらした気持ちが滓のように胸の底に沈んでいた。

だがあらためてこの写真を見るとどうだ。緑と木漏れ日に彩られ、緩やかにうねりながら森の間を縫って続く道。この道を歩むことは俺が苦しくとも楽しくとも、思索するそのことを促してくれる。またここを歩んでみたいと思わせる道である。まあもっともそういう道はここだけではないのだけれど、俺の好きな道の一つではある。

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鞍馬の村を貫く若狭街道沿いにこの建物、匠斎庵はある。重要文化財に指定されている。だからと言うわけではないが、見事な町屋建築である。江戸時代中期の様式を今に伝える。祇園や西陣に見る格子より田舎風というか、力強さを感じさせる表の格子。1階部分にかかる庇は桧皮葺で、それがある種の軽さになっており、大屋根の重厚な瓦との対比も面白い。そして何より、建物全体が持つ見事なプロポーション。ここにあるのは家でありながら、それぞれの意匠の物との関わり方は尋常ではない。そしてこれはただ大工の手馴れによって達成されたものなのである。

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隣の家との間にウダチが上げられていた。この意匠もまたその本来の機能を知らずともただ面白く、俺はただ感心してそのさりげない美を楽しんだのであった。ところで、「うだつが上らない」とはこのウダチに由来する表現である。

この匠斎庵、何度来ても中を見る機会に恵まれないでいる。

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2007年2月11日 (日)

祇園/一力その他

祇園の一力について不正確なことを書いた。どうもこれが本当らしいという知識を入手したので書いておこう。

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一力という店の名前の由来のことだ。その昔、万屋または万亭というお茶屋だったことは確かだ。それをただシャレて一力と呼ぶようになった・・というのは不正確なようだ。万が一力と呼ばれるようになったのは仮名手本忠臣蔵のせいである。これが大評判を取ったのは実際の赤穂浪士の討ち入りから47年の後だということ。この芝居の中には「祇園一力の場」というくだりがある。もちろん祇園のお茶屋・万屋を想定したものだ。しかし芝居の内容が内容だけに、実際にあるお茶屋の名前をそのまま使うのは差し障りがあるというわけで、一力とシャレてはずした。そうしたら芝居が大ヒット。本物の方が一力と呼ばれるようになってしまったということである。なお、この店の主人は代々、治郎右衛門を名乗るのである。

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花見小路に直角に交わる通りを見る。向うの家の屋根越しに東山が見える。で、夕暮れともなれば、この通りのお茶屋にも明かりが灯るのである。このあたりに全国から、いや海外からも人が集まってくるのが分かるな。人間はそんなに簡単に進歩しないよ。ここにも詩が生まれる契機はありと見た。

祇園についてはもう一つ写真載せておこう。

Photo_1

弥栄会館だ。甲部歌舞練場の側にある。これは何様式だ?京都というより中国みたいでもあり・・しかしそれ故にこそ京都的だとも言える。京都ってそういうとこなんだよね、意外に。京都は思わぬところにエキゾティックなものを発見する街である。

木村得三郎という建築家の設計で、昭和11年というから戦前にできた建物だ。なんかちょっと間違うと下品になる、その寸前で留まっている建物だな。なかなかええやないの。

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2007年1月 7日 (日)

我家の雑煮

正月は京都で過ごした。12月30日に車で京都に向かい、1月3日にこちら(関東)に帰ってきた。そうそう、ETCを装備したんだ。それで高速道路のゲートはスイスイ通った。ほんの少しだが気分良かったよ。

Zoni

京都の実家で食べる雑煮は、元旦は白味噌仕立て、二日目は澄まし汁仕立て、三日目がまた白味噌だ。京都の家がどの家もこのようなやり方なのかどうかは知らない。我家ではずっとこうだが、三が日とも白味噌雑煮の家が多いのではないか。

左の写真は元日のものである。男は餅の他に「かしら芋」と称するものを食わねばならない。あと里芋、大根など入っている。雑煮の上から削りたての鰹節をかけいただく。かしら芋はよく知らないのだが里芋の親玉のようなやつで、京都では正月に食される。これを食べきるのが大変で、なにしろソフトボールほどの大きさのイモである。食っても食ってもイモである。俺が子供の頃はこれを食いきるのが大変だった。なんでこんなものを正月から食わされるのか・・・と、うらめしかったものである。

しかし、基本的には白味噌雑煮は美味い。俺の子供はこの雑煮が好きで、下の娘が小さい頃のことだが、正月二日目の朝の雑煮を前にして泣き出したことがある。何故泣いているのか判らず問いただしてみると、二日目の雑煮が澄まし仕立ての雑煮だったのが悲しかったらしい。それは我家の笑い話として、いまだに正月になると語り草だ。

Hukucha

もう一枚は正月の雑煮とともにいただく「大福茶」だ。梅干と結び昆布が入っている。これも子供の頃は苦手だった。だいたい俺の場合、梅干が天敵だったからどうしようもない。梅干が食えるようになったこの頃はこれも全ていただく。

毎年同じように食っている正月の雑煮だが、今年も実家の両親とともにいただけた。二日の日は妹夫婦の家族も四日市から出てきた。姉の住むマンションでひとしきり酒を飲んだ。今年も良い年でありますよう。

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2006年12月 9日 (土)

京大人文科学研究所

このところ休みの日といえども街に出てうろつくという、犬にとって基本的な行動を実践できていない。理由の第一はやはり忙しいということである。そうするとブログに書くネタもだんだんに少なくなって来る。ただ昔撮った写真も相当枚数あるので、そういうのをちょこちょこ使うことになる。

Tohobunka01_1

今日の一枚はこれ。京都大学の人文科学研究所である。お盆に京都に帰った折、京大周辺を探索したのだが、その時に撮ったものだ。実は俺もこの建物を実際に見たのは初めてだった。京都は自分の育った場所であり、今も盆や正月と、しょっちゅう帰っているのにね。若い人に、「建築は実際に見なくちゃだめっ!」などと偉そうに言えない。が、しかし、この建物、写真だけで知っていたよりは実際が相当良かった。お薦めの一品と言えよう。

Tohobunka02_1関係の無い方は入ってはいけません・・・って、もう入ってますけど・・。とがめられるまでは入って行く、便所を見つけたらとりあえず小便していく、というのは犬人間の習いだ。 写真を撮っていると”この建物に関係のある”方々が「こいつ何者?」ってな眼でちらちら見ていくが、かまうこたぁない。むこうは学者先生、こちらは土建屋。厚かましさでは負けるもんか。いや学者も相当厚かましいやついるけどね。

この建物の中庭、パティオってやつだな。あまり手入れされていないけど、井戸のデザインが凝っている。この建物は北白川の高級住宅街の中にあるのだが、建物がそういう環境とともに、京大人文研のユニークな研究を育てているのだろう。

Tohobunka03_1

建物のデザインは武田五一の指導の下、若き東畑謙三がやったと伝え聞く。東畑謙三というのは東畑建築事務所の創始者である。この建物の細部には若き建築家の渾身の作業が見て取れる。スパニッシュという様式はエネルギーがないとなかなか本物にならない。

失礼だけれど東畑謙三のデザインというのはこの建物以外は知らない。また東畑建築事務所というのも関西を中心に公共の建物を多く手がけていると思うが、あまり作品が思い浮かばない。東畑謙三はこの建物を設計した後、東畑建築事務所を大手の設計事務所に育てはしたが、建築そのものへの情熱は保ち続けることができなかったのだろうか?あるいは、この建物のデザイン、やはり武田五一の指導の故にこのレベルに達しているということにすぎないのか。そうなってくると、この建物設計時の武田五一と東畑謙三の役割分担というのが問題だが、今となっては分からない事なのだろう。

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2006年12月 2日 (土)

12月になったということで

ここんとこ、ブログ記事を書く気がおきなくて、間が空いてしまった。このブログは部分的には俺の日記であり、部分的には公開している随筆みたいなものである。題材はある程度限定していて、日々の生活や社会で起きている事件に関する雑感、建築や街のこと、食い物のこと、犬のことなどであり、あまりにプライベートなこと、自分の人格を疑われるようなことは書かないようにしている。というか書けない。なぜなら、このブログを読んでいる人の中には俺のことを知っている人もいるからだ。で、全く誰にも知られないブログを別に設け、それこそ知っている人にはとても言えないようなことを書こうか・・・とも思ったりする。ただ、それに取られる時間ももったいないような気がするので、今は思案中だ。

さてさて、ひさしぶりのブログはあたり障りのない事から書こう。

12月になった。早いものである。今朝の新聞に新しく芸術院会員になる方達の名前が、そう大きくではないが報じられていた。選ばれた6名の中に古谷蒼韻(ふるたにそういん)先生の名前を見つけ、懐かしい気持ちになった。実は俺は小学校の3,4年の頃から中学生のいつ頃かまで、この先生に書道を習っていた。俺だけではなく、俺の姉、妹もこの先生に期間の長い短いはあれ書を習ったのである。しかし、子供にとって、書を書くということは退屈なことである。それゆえに、そろそろ受験に備えなければならないので・・という理由で辞めたのであるが、本当は毎週毎週けっこう時間をかけて習いに行くのが面倒だったのだ。

中学の書道の授業でのことだが、俺の書いた書を見て先生の方が良い字だと感心し、書道の師である古谷先生の名を俺から聞き出した。自分も古谷先生に教わりたい・・・とのことである。その女教師がその後、本当に古谷先生の門をたたいたかどうかは知らない。古谷先生の教える書は、文部省の定める書道教科書に載っているような字とは確かに味わいの違う字であった。俺は惜しいことをしたのかもしれない。

その道の一流に師事することは一つの幸運であろう。

Gion03

ブログに絵がないとつまらないと思い、写真一枚載せておく。祇園の一力だ。逆光で撮ったあまり良くない写真だが。

一力はその昔、主人の名を万屋何某と言い、万という字をしゃれて一力と呼んだのが、一力という名の由来だと聞く。耳学問であり、真偽のほどは確かめぬままだよ。ガセかも。

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2006年11月18日 (土)

祇園

Gion01昔撮った祇園の写真だ。こういうところをほろ酔い気分で、着物を着た美人と寄り添いながら歩くのは最高だね。時間がゆったりと流れる気がする。残念ながら、そういう経験が無い。こういう場所を泥酔して通ったことはある。もちろん男ばっかりでだ。

橋を渡って見返りにもう一枚を撮る。巽橋か。Gion02 観光客が記念写真を撮る有名なスポットだ。絵になる場所・・・ってか。でもやっぱりいいね。

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