2008年6月28日 (土)

50 Years After 1960/巨大高密度都市は誤りか?

朝、テレビを見ていたら、ドバイの若い夫婦の生活を紹介していた。夫は28歳の建築家、妻は22歳。住んでいるマンションは170㎡の3LDK。現代的なインテリアで、高そうな家具やアートに彩られている。おまけに彼は現在、別に自邸を設計中だ。というのも、ドバイでは18歳になる男子には国から100坪ほどの土地が与えられる。彼はすでに土地を有している。このような特権はもちろんドバイ国民のためのもので、他国から出稼ぎに来ている人々には関係の無い話である。そういうことに、俺はなんとなく嫌な感じがした。まだ28歳の、青二才と言っていいような若造が、何の努力もしないうちに、日本だったら大金持ちというような生活を手に入れる。「これで良いのか?」という気持ちを持ったのは倫理的なものだ。もっとも、彼の妻が超美人だということは認めよう。

八束はじめ氏の小論、「50 Years After 1960」の解読を続ける。

BIGNESSは建築家の意図=コントロール可能性を超えている-だからBIGNESSとは都市とほぼ同義語だ-と主張するコールハース・・・

丹下の東京計画1960にせよ、磯崎の丸の内空中都市計画にせよ、丹下やその弟子達が提示したのは「巨大な」都市の構想だったと思うが、今日の東京はそれらの構想をなぞっている。高密度、高層化した都市はかつての建築家(それも丹下をはじめとするスター建築家の)夢だったのではないか?それなのに、今現実に東京に出現している巨大高密都市を、建築家の側が批判しようとするのは筋が通っていない。

丸の内の最初の超高層は前川國男の東京海上火災ビルだが、これを皇居を見下ろすという理由で政治的干渉が行われ上部をカットされた時に一斉に抗議の声を上げたのは建築界ではなかったのか?

思うに、建築家の側がこれらの巨大高密都市のコンセプトに今さらながら反対するとすれば、その最大の理由は、「彼らがもはやこのことに影響力を持たない」ということであろう。主役は彼らではない。

もちろん、このような状況に何の問題も無いわけではない。東京への集中は加速し、地方は過疎化する。東京の一人勝ち。しかし東京の人々が幸せ・・という訳でもない。だからといって地方への拡散を政策的に行うことが正しい選択なのだろうか?八束はむしろ巨大高密度のモデルの可能性に乗ろうとする。

コールハースは、BIGNESSに乗るのはそこにエベレストがあるからという登山家と同じ理由しかないという。・・・・

・・それ(巨大高密度都市)が例えばコンパクト・シティやサスティナブル・コミュニティという別種の仮説より望ましい未来を示すものかどうかという議論をしようとも思わない。それらに根拠がないともいわないが、これを議論の余地のない前提と見なすことにも同意しない。それらの仮説に胸ときめかないことは正直に認めよう。

そして八束は、1960年に丹下が東京計画1960を提出したように、東京計画2010を提出することに意義を見出さない。

私たちの研究はあくまでリサーチである。デザイン中毒者たちが望むかもしれないように、「東京計画2010」を立てるつもりはない。提示されるのはあくまで「可能態」(ありうる姿)であり、最終の姿(あってほしい姿)ではない。50年後の今の時期の流行の建築語彙に置き換えただけのデザインが相応しいとは思えない。何でも形の問題にしてしまい、それを正当化したがる建築家の習性は嘆かわしい。

では巨大高密度都市の存在理由とは何なんだろう。リサーチはそれを立証するのだろうか。

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2008年6月15日 (日)

50 Years After 1960/それで?

休みの日ぐらいは自由に時間を使いたいものだが、たいがい何か「やらねばならないこと」がある。土日の飯作りは、もはや趣味ではなく義務である。義務となったとたん喜びは失われる。料理するだけならさほどではないが、持ち帰った仕事などがある時は、休みの一日などはたちどころに消えてしまう。これは愚痴だ。

「50 Years After 1960」の解読はまだ終わっていない。

都市計画家としての丹下健三の問題意識は何処にあったのか。

丹下の仕事の起源を辿ると、戦前の日本の海外侵略、とりわけ大陸進行に行き当たる。・・・学生時代の丹下は当時の満州帝国の首都新京での坂倉準三のプロジェクトを手伝い、前川事務所勤務時代には新京に赴いて現地の都市造営の熱気に煽られているし、・・・

丹下健三という人はそういう時代の人だったのか・・・という理解は、今を生きる我々からは抜け落ちているかもしれんな。そういえば、俺の親父は丹下より一世代下の人間だが、「中国で馬賊になる」のが子供の頃の夢だったと話していたことがある。その頃、すでに建築家としてのスタートを切っていた丹下健三らの世代は、中国大陸は広大な手付かずの処女地に見えたかもしれんな。レム・コールハースなどが使う言葉、タブララサ(磨かれた板)だったわけだ。そうすると、なぜ彼らがしきりと誇大妄想的-我々にとっては-な都市計画を立てようとしたのかも理解できる。だが日本は戦争に負け、大陸を失う。

そもそも侵略戦争は後者(都市人口の飛躍的な増大)の打開のために「レーベンスラウム(生活圏)」を海外に求める所業でもあった。この帝国主義的な野望が敗戦によって挫折した状況をどう考えるかは丹下の課題であった。

戦災復興に関わった丹下の嘆きは既存の都市が権益で身動きならないことにあったが、であれば新しいレーベンスラウムを求めるべき場所は二つである。海上と空中。60年代前後に発表される丹下やメタボリストの都市プロジェクトはこのどちらか、つまり海上都市か空中都市である。

ごく簡単に言えば、増え続ける(と思われた)人間を収容するため、東京湾にスーパーストラクチャーによる人工大地を作り、そこに高層の建物を建て並べたものが、丹下健三の東京計画1960である。丹下研究室に籍を置き、しかしメタボリズム運動には直接関わらずにいた磯崎新も、1962年には空中都市計画である「丸の内計画」を1962年に作成している。

その当時、建築基準法は31mを超える建物の建設を認めていなかった。丸の内のオフィイス街も31mの高さで抑えられた建物が軒を連ねていた。都市の形態がマクロ的に見るならば法規によって作り出されていたことになる。丹下健三や高山英華を頭目とする建築家、都市計画家の願いはこの規制の撤廃であったろう。

1955年に建築学会では「建築の高層化に関する委員会」が開かれている。委員長は、満州で首都新京の都市計画局長を務めた笠原敏郎で、副委員長は高山英華である。しかし最も重要な役割を果たしたのは会議のワーキンググループのリーダー、丹下研究室を離れたばかりの浅田孝であった。

そして1963年の建築基準法改正により31mの絶対高さ制限は撤廃され、今日、我々が眼にする東京のスカイラインを導くことになったのだ。建築基準法(このようなルールのことをやはりコールハース風に言うならば、アルゴリズム)が街のプロファイルを作り上げてきた。そのようなアルゴリズムを正当化するのは(丹下健三らが行ったような)リサーチである。そこにはデザインは抜きだ。八束はじめはここでコールハースばりのニヒリズムを示す。

デザイン抜きだとすれば建築的な質はどうなるのかという反問は予想している。ディベロッパーの論理とどこが違うのか、という反問も。答えはこうだ。WHO CARES?

都市のアウトラインを決定するのは法規だ・・・個々の建築は限りなく無力だ・・・としたら、その問題を意識した建築家の採る道は、かつての磯崎新のように「都市が見えない」、と宣言し、「手法」へと走るか、あるいは今日コールハースやMVRDVらが唱導するようにリサーチやアルゴリズムに向かうか・・・。八束はじめは後者を選んだという。それは丹下健三の都市計画家としての再評価にもつながる。デザインは問題じゃないのか?ディベロッパーの思うがままじゃないか・・・WHO CARES?(それで?)

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2008年5月25日 (日)

50 Years After 1960/丹下の再評価

八束はじめ氏の小論「50 Years After 1960」の1960とはどういう年なのかということについては、次のようにはっきりと書かれている。

「50 Years After 1960」と題されているのは、丹下健三の「東京計画1960」を出発点としているからである。

1960 八束さんはここで、都市計画家としての丹下健三やそれに続くメタボリスト(腹囲85センチ以上の建築家集団・・というのはウソ。大高正人や菊竹清訓、黒川紀章、槙文彦ら、丹下研究室出身者を中心に『成長と新陳代謝する都市』のアイデアを提示した建築家のこと)の仕事を再評価しようとしている。

建築家、丹下健三はコルビジェに影響を受けながらも、生まれ持った造形力によって、幾多の現代建築の傑作を生み出し、戦後の日本建築界に絶大なる影響を残した・・・というのが大方の認めるところで、丹下さんが都市計画的な構想を抱いていたというのはコルビジェなんかの影響だろうけど、「ほぅ、すごいこと考えていたんだね」、ぐらいの感想しか持てない。なにぶん、実現していないし、実現しそうもない案でもあり・・・。それゆえに丹下さんの都市計画については、藤森照信なんかも次のように総括する。

都市に関して、丹下の真骨頂はデザインにあり、リサーチにはなかった・・・

けれどもこの点こそ、八束はじめ氏が反論し、「お前らぜんぜん見えてないなぁ」、と言いたい部分なのであろう。

東大建築学科での丹下の立場は建築ではなく都市計画の助教授であった。前川事務所から大学に戻ったのも都市計画を学ぶためで、大学での講義や演習もデザインをめぐるものではなかった。

そうして八束さんは丹下が当時提示したものを、歴史的に位置づけ、その意義を実証していく。またその時に、彼はレム・コールハースを幾度も持ち出す。レム・コールハース・・・今日、世界で最も影響力のある建築家にして建築理論家とされる人間。八束はじめは明らかに彼の影響を受け、それを隠しもしない。

丹下のみならずメタボリストのプロジェクトの背景は、すぐ後に論じるように日本の人口増加に伴う大都市への集中、端的には量の問題である。デザイン=質の問題には留まらない。この問題は、「作品」の提出ばかりに余念がない50年後の日本の建築家たち(及び建築ジャーナリズム)は触れようともしないが、依然現実としてわれわれの眼前にある。別掲のコールハースのシンガポール論が、ここを捉えているのはさすがというべきだ。この点でコールハースは日本の建築家よりも『日経ビジネス』のほうに関心を多く共有している・・・

現代の日本の建築家と建築ジャーナリズムに対する鋭い批判である。正直に言って、俺の問題意識と重なる部分はある。結論は相当に違いそうだが。

ちょっと話題を変えるが、ミースはコルビジェと違って、都市レベルの計画というものがない。敢えて言えば、IITのキャンパス計画が都市的と言えば言える。これにはミースを取り巻く人的な環境というものがあるように思える。忘れてはいけないのは、ミースにはバウハウス人脈というのがある。コルビジェは一人で建築家であり、都市計画家であり、時には画家という役割を演じたし、すべてを行うことで彼が目指す建築・都市・芸術の統一的世界が示されていた。すべてを自らが行うことで方向を示したコルビジェと異なり、ミースにはカンディンスキーもいたし、モホイ・ノディもいた。なによりも都市計画家としてのヒルベルザイマーが、常に彼の傍らにいた。ミースはその中で、自分の役割を規定していたのであろう。

ではあるが・・・、ここで一つの問いを提示しよう。今日の世界の都市を見るに、ミースの影響はコルビジェより小さい・・であろうか?

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2008年5月18日 (日)

50 Years After 1960/八束はじめの立ち位置

八束はじめという建築家がいる。今は芝浦工業大学教授をやっているが、この人が雑誌「10+1」の最終号に「50 Years After 1960」という小論を寄稿している。これは俺にはかなり面白い記事であった。現代の建築論や都市論の流れの、それもかなり主流のところを手短に教えてくれる。俺自身の考えと近いところもあり、違うところもあるけれど、この論文を読みながら建築や都市について考えることは、間違いなく知的な楽しみとなるであろう。

八束はじめという人は、俺が学生の頃、いろんな建築のアイデアコンペでそこそこ入賞を果たしていた人だ。その意味では若い頃から知る人ぞ知るという人であり、また当時は東大の博士課程に在学中で、勘ぐるに、建築理論家として磯崎新の後を襲おうという野心は並々ならずあったのではないか。

まあしかし、建築家というのは、理論はともあれ、美的な才能はあるレベル以上持ち合わせていないとどうしても限界がある。八束さんの建築作品というのはいつもそういう限界を感じさせてしまう。頭は超いい人だ。だけども実作には人の心をつかむものが無い。

ま、人物評はこれぐらいで、50 Years After 1960 のことだが、八束はじめ氏はそういう自分の才能のことをかなり自覚しているのであろう・・・などと、読む方は少し「痛い」思いを感じながら読むことになる。だが、今この世界に起きている事に対する立ち位置は(一つの立場として)的確である。

昨年の正月に『日経ビジネス』誌が「もう止まらない 東京大膨張」と題する特集を行なった。建築界がコンパクト・シティとかシュリンキング・シティとかいっているのとは正反対である。・・・

・・・このビジネス誌のテーマはどうだ?ディベロッパーに色目を使うがごときものではないか?しかし、建築界の主流(?)のほうがより客観的に現実を見ており、後者(日経ビジネスの特集)は商業主義的に「誤った」ものだという根拠が本当にあるのかどうか?・・・

・・・つまり、私にとって(「正しい」ではなく)「面白い」テーマは「大膨張」都市であって、コンパクト・シティではない、とまず宣言しておく。

建築を論ずる時に、大膨張する都市-東京に限らず-を前にして、その功罪を挙げていたところでなんになろう。そんなこととは関わりなしに、経済活動として都市は変化し続ける。その事実から目を背けて、一つ一つの建築の「作品としての」出来不出来を論ずることの時代錯誤。八束氏は「面白い」テーマは膨張し続ける都市そのものである・・と言う。そのように自分の立ち位置を宣言する。

余談だが、日本の不動産業界のトップ、三井不動産とか三菱地所の社員の給与は、日本の建設業のトップ、鹿島とか清水建設とかよりかなり高い。下請け業者の給与はもちろんずっと低い。下請け業者の雇う日雇い労働者の年収は、不動産トップの会社の平均的社員の10分の1よりちょっとだけ多いという程度だろう。川上にいる者が川下にいる者を収奪しているという今の日本の構図は、悲しくもK.マルクスが130年前に指摘したとおりである。

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2008年3月30日 (日)

麗しのキャンパス?/同志社

同志社大学の今出川キャンパスのことを続ける。

01

重要文化財に指定されている有終館。「有終の美を飾る」の「有終」だ。元々は図書館であった。それが新しい図書館ができたので、その役目を終えた・・ということから「有終館」と名付けられたらしい。この建物に限らず、同志社大学の建物は何かしら名前が付いている。黒色の煉瓦と白い石の帯がアクセントになっていて、遊び心が感じられる。建物の設計時には米国からの派遣宣教師が指導したと、建物正面に貼り付けてあるパネルに書いてあった。その宣教師の名前までは記してない。明治18年(1885年)に定礎が置かれ、2年後の明治20年(1887年)に竣工している。

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有終館の南側外壁詳細です。

なかなかに凝ったデザインで、良いと思う。19世紀末に建てられた建物として革新的なものはないかもしれないが、軒蛇腹のデザインや柱の面取り、あるいは窓下の腰壁が黒煉瓦を交えた斜め張りになっているところなどは見所である。この建物の設計者はこの建物が皆に愛されることを願っていたんだろうな。そういうことが感じられる建物である。

この当時、米国の宣教師や伝道師は、キリスト教の布教と同時に、西洋建築の技法を日本に伝えることにおいて相当重要な役割を果たしたらしい。W.ヴォーリズは20世紀前半に建築家として実に多数の建物を日本各地に残したが、元々は伝道師を兼ねた英語教師として来日している。ヴォリーズの建物はファンが多いと思う。こんな優秀な建築家が20世紀前半に日本に住みついて、数多くの名建築を生み出したことは奇跡的なんじゃないかな。ま、これは余談だが。

01_2

次の建物はクラーク記念館だ。これは同志社大学のシンボル的存在で元は神学館として建てられた。やはり重要文化財に指定されている。ドイツ人建築家R.ゼールの設計で、明治26年(1893年)に竣工している。ドイツ人らしい重厚館のある建物で、美しい。

建物玄関の前にある説明書きには「ドイツ・ネオ・ゴチック調」とあるのだけれど、これって正しいの?全体の印象はロマネスクに思える。ネオ・ロマネスク。ただ、俺は西洋建築史の専門家じゃないからね。

時代から言えば、そろそろ過去の洋式建築からの離脱が始まる頃。しかしそういう歴史上での位置づけは抜きにして、よくできていると思う。ずっしりとした存在感で、構成がしっかりしており、本物の匂いがする。中も見たいのだが、黙って入るのは憚られる。2階には礼拝堂もあるらしい。

01_3もう一つ写真入れておこう。ハリス理化学館だ。

アメリカ人実業家J.N.ハリス氏の寄付金で建てられた建物で、設計は英国人建築家のA.N.ハンセル氏。1890年(明治23年)の竣工である。これも重要文化財指定である。

全景を撮るには木が邪魔になる。でもこうして見ると、綺麗なキャンパスだね。ただ、こういう建物が、キャンパスの主たる構内道路に面してまるで展示品のように行儀良く建っている。それがやや俺には物足りない。これらの建物で構成される同志社大学今出川キャンパスは、魅力的であると同時に排他的である。attractiveであると同時にexclusiveであるというのはどういうわけか?

大学のキャンパスというのは一つの街のようなものだ。その構成や意味を問い、解釈していくのは都市を問うことと似ている。一つはっきりさせておこう。都市は建築の陳列場ではない。

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2008年3月23日 (日)

同志社大学今出川キャンパス

Photo_2同志社大学の今出川キャンパスは、同志社大学発祥の地である。今出川通りの北側に位置し、通りを挟んだ南側には御所、北側には相国寺があり、航空写真で見ると実に緑が多い所で、大学の立地としては申し分ないように思えるのだが、実際に行って見るとちょっと印象が違う。御所にせよ同志社にせよ、構内に入ればそれなりに落ち着いた雰囲気になるのだけれど、それぞれの繋がりというものが無い。御所、同志社、相国寺という3つのエレメントがただ隣り合っているだけで、ばらばらな感じを受けるのはどういうわけだろう。このあたり一帯の魅力を増すには、これらの場所の連携を強化する必要があるように思う。

写真で見れば分かるように、御所の側も大学の側も歩道が狭すぎである。このため、御所も同志社も構内に入れば貴重な都市の緑があるのだけれど、その外を歩く人達はゆっくりとこの都市空間を楽しむことができない。同志社大学の塀も問題だ。普通で言えば、漆喰で塗られた土塀は「さすが京都」と褒められるべきかもしれないが、この狭い歩道に面して歩行者に圧迫感を与えているのは考え物である。古ければ良いというものでもない。そもそも同志社大学は、この今出川通りに対して裏側を見せる構えなのである。しかし、もし俺がこのあたりの景観を改良する提案を求められたなら(それはあるわけもないが)、この同志社キャンパスが今出川通りに放つ裏感覚を何とかして打ち破りたいと考えるだろう。

Photo_3

同志社大学の構内である。

メインの構内道路に面して、いくつもの外装煉瓦の建物が並ぶ。また各々の建物の主玄関はこの構内道路に面する。かくのごとく、このキャンパスは基本的に内向きである。ただし日本の大学は一般にこの傾向が強いのであり、このキャンパスだけを責めているわけではない。

同志社大学今出川キャンパスには重要文化財に指定されている建物が5つある。いずれも煉瓦の外装であり、著名な建築家の設計ではないが良くできている。ある様式というか、文法に従ってデザインすれば、相当のレベルまで質が得られるということの証明になるだろう。こういう時代の建物は、才能のある人の手になるものとそうでないものとの差は小さいのかもしれない。また都市景観的な観点からすれば、文法があるということによって全体の秩序は間違いなく保証される。それを今求めてもしょうがないのだけれど。ではどうすべきなのだろう・・・?

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2007年12月15日 (土)

2007年12月15日天気晴朗にして

実はこのところブログを書くのがしんどいのである。「しんどい」というのは関西の言葉で、疲れる、つらい、という意味である。理由は二つあって、一つはとにかくやらなければいけないことがたくさんあって、時間が無いということ。もう一つは書くネタが無いということである。二番目の理由は更にその理由があって、外をぶらぶらと出歩かないからネタが拾えないということである。それというのも時間が取れないからだから、結局は時間が無いということに収斂してしまう。ネタがなければ同じようなことを繰り返すしかないので、これは俗に言う繰言ということで、症状としてはボケ老人に近くなる。俺はまだボケるほどには歳をとっていない。時々知っているはずの人の名前が出てこないことがある。それはたいがい前の日に飲みすぎた酒のせいで、歳のせいではない。朝、降りるべき駅で降りず、二つほど過ぎた駅でそのことに気が付く、いや正確に言えば目覚めることがある。それは降りるべき駅の三つ手前で、立っている俺の前の席に座ってた奴が電車を降りたためである。立っている自分の前の席が空き、そこに座る。日頃の仕事で疲れている俺がそこでついウトウトと寝てしまったところで、誰が俺を責められるだろう。据え膳食わぬは男の恥、空き席座らぬはオヤジのやせ我慢である。

ネタが無いので読んだ本のことなどを書くことになる。あの本について書こうか。あの本とはアレックス・カーの「犬と鬼」のことだ。これはちょっと根性が要る。今はやめとこ。もうちょっと気力が充実している時に書こう。

Photo写真一枚載せとこう。

鳥越神社の近くで撮った。撮り貯めた写真の中の一枚だ。こういう街の風景がなかなかにすごい。それにこの建物、うまく再生すれば人を呼べそうじゃないか。

こういうのが古い建物、無名の建物の力というものだね。ゲニウスロキ。地の霊よ目覚めよ、目覚めて再び時を刻めよ。

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2007年11月18日 (日)

吉田鉄郎の建築

先週のことだが、姉が大学の同窓会やなんやかやで東京に出てきた。日曜の夜には京都に帰るということで、帰る日の夕方に少し早い晩飯を丸の内のあたりで一緒に食べることにした。この頃は陽も早く沈むので、5時前にはもうすっかり夕刻の雰囲気だ。夕暮れの丸の内を少しの時間だが眺めまわした。この辺りはここ10年ぐらいで随分変わって、現代的なビルが林立する情景になっている。常日頃、俺は新しい開発を批判しがちなんだけど、丸の内周辺のこの変化は嫌いではない。東京の表玄関としての丸の内は、なかなか良くなってきたと正直思っている。これで東京駅の姿が建築当初の形を復元できれば、世界の他の大都市の表玄関と較べても、けっこう良い線行っているのじゃないかと思う。

Photo_2 昔の逓信省営繕部は今のNTTファシリティーズの源流になる組織で、山田守や岩元禄などの優秀な建築家を擁した名門である。吉田鉄郎もそうした建築家の一人で、東京駅のそばにある東京中央郵便局はその代表作といわれる。

この東京中央郵便局が取り壊されるかもしれないという話がある。建築学会などを中心に、保存の要望が出ているようだ。これについては、「残せるものなら残した方が良い」というのが俺の気持ちだ。どうしても残さねばならない・・・という程ではない。東京生まれの人間でないのでよく分からんのだが、これが無いと丸の内という場所のアイデンティティが損なわれるという・・・そういうことは無いんではないかと感じている。建築や都市に関係が無い人達もだいたいそういう意見なのではないだろうか。

建築の作品としてこれが名建築と言えるのか?・・・についても、正直、評価が難しいと思う。1931年に完成し、かのブルーノ・タウトがモダニズムの傑作と称えた・・というのだが、どうなんだろうね。このブログでは、自分の感覚でしか物を見ないことにしている。誰が何と言おうと、ピンと来ないものはピンと来ない。確かに悪くはないけれど、世界に目を転ずれば、1930年にはコルビジェ設計のサヴォア邸が完成し、1933年にはアルヴァ・アアルト設計のパイミオのサナトリウムがその美しい姿を現している。Cpscott この東京中央郵便局と同様のシンプルなグリッドによるファサード表現は、ルイス・サリヴァン設計の百貨店カーソン・ピリー・スコットに見られ、しかもどう見てもこちらの方が完成度が高い。カーソン・ピリー・スコットの完成年は1904年だ。

結局、当時の日本の近代建築のレベルはその程度だったのじゃないか・・・と思うんだ。ブルーノ・タウトが「モダニズムの傑作」と評したというのは、日本を案内してくれた吉田鉄郎に対する多分に社交辞令的なものだったのではないか・・・と疑えば疑える。

だから壊してよいとは思わない。この東京中央郵便局の建物が、丸の内という場所の記憶に重要な位置を占めているのなら、それはやはり保存の道をさぐるべきだとは思っている。

Photo

京都にも吉田鉄郎の作品がいくつか残っている。京都中央電話局上京分局は1924年の完成で、東京中央郵便局より古い。こちらは「カーニバル・タイムズ」という名前で、レストランおよび結婚式場として改修利用されている。中には入ったことないが、外を見る限り、鴨川にかかる橋のたもとに堂々とした存在感を示している。これは残したい。

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2007年11月 4日 (日)

京都という都市の生き方

一つのことに集中できないタイプの性格である。あれやこれやと手を出しては、中途半端に投げ出す。自分のことを言っているのだが・・・。だから大成しないのかもしれんな。

中学生の頃に、周りにギターを始める奴らがいる。それで俺もギターをやりたいと思ったが、どうもあの、コードを覚えてジャジャーンとやるのは好きじゃない。ナルシソ・イエペスの「禁じられた遊び」というのを聞いて、あーいうのをやりたいのだが、それならマンドリンで近い感じが出せるだろうと実に安易な考えで、親にマンドリンを買わせた。2ヶ月ぐらいは練習したが、まあ続いた方だ。それから、10年も経って、フランス人の友達がすばらしく上手にフルートを吹くのを聴いた。プロの音楽家でもない化学が専攻の男が奏でるメロディーに感動した。それでまた、親にフルートを買わせた。結婚した時に、これは持って行けと、親からそのフルートを押し付けられた。爾来、自分の家の押入れの奥にしまってある。当時10万もしたそうだ。このフルートはまともな音を出してもらったことが無い。「フヒェー」という、「風邪でもひいたんか、爺さん」みたいな音しか、ついに出してもらえなかったフルートが不憫である。

京都の景観というのは、俺のそういう苦い経験からすれば、集中すべきこの一点である。これをうまくやらなければ、京都は世界に誇れる街になれない。人の才能も様々、企業の持ち味も色々。小泉元首相も「人生いろいろ」と言ったではないか。都市も同じである。京都が東京になる必要は無い。むしろ京都が「他の街と違うところは何か?」をはっきりとさせ、そのことを自分達の強みとして育てていくのが、経営理論の教えるところである。京都が景観の問題でしくじれば、そう時間を経ずして、他所と変わらぬ「ただの人口100万都市」になるだろう(もうかなりつまらん都市になりつつあるのだろうが)。

01 朝日新聞2007年11月1日朝刊には京都に於いて、この9月に以前より厳しい「新景観政策」が開始されたことを報じている。これにより、京都市の市街地ほぼ全域で建物高さは31m以下(以前は45m)に抑えられる。市街中心部の幹線道路内側では更に厳しく、15m以下となる。また、市街地のほぼ全域を景観地区や風致地区に指定し、屋根は傾斜屋根として瓦か金属板で葺くことになる。これらの規制が、私の財産権を制限していることになるというのは、その通りだ。おそらく京都の住民の中でも、建設や不動産に従事している人はもちろん、自分の住んでいる土地の値段が下がると危惧する人も、この規制が京都の経済に悪影響を与えるだろうと批判するかもしれない。だが重ねて言うが、マクロ的に見るならば、京都の生きる道は、「その特色を強調していくこと」につきる。それがこの街のとるべき戦略というものである。

上の写真は西陣の中心部、大宮通沿いの街並みを撮ったものだ。観光客が訪れているのも窺えるが、街は古い町屋のデザインを踏襲したものから、新建材に覆われた建物まで混在しており、かなり混乱した印象を与える。遠くにはかなりの高さのマンションも見える。電信柱、電線の醜さはここでもひどい。

02

少し離れた場所には、このように新しい3階建ての木造住宅が並ぶ。住んでいる人達には悪いが、これら新建材で包まれた「新しいデザイン」の住宅は、まったくの景観破壊と言うしかない。写真ではこれらが古い街並みを侵食しながら建てられているのが見て取れるだろう。これらの新しい住宅も、新たな高さ規制、傾斜屋根の基準はクリアできる。京都市の新しい規制によっても、なお京都の街並みを守るのには不十分だと、俺が考える所以である。

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2007年10月21日 (日)

東京のアジア

01 清澄通りを深川から両国の方にぶらぶら歩いて行くと、清澄公園というのが道路の左側にある。東京という都市の中での貴重な緑だが、中に入ろうとすると入場料を取られる。この程度の庭に、けっこうな入場料を払ってまで見ようという心とフトコロの余裕を持ち合わせていないものだから、その公園の東側を歩いて両国へ向かった。そうするとどうだ、この公園の東側、つまり道路側には奇妙な建物群、いやいや群ではなく連なっているのを発見した。

写真で見るといくつもの建物が建ち並んでいるように見えるかもしれないが、これはもともとは一棟の建物だ。つまり長屋になっている。そうして今は塗装で塗り分けられている。それだけでなく、塗り分けたそれぞれの部分は、住み手によっていろいろ付け加えられているようだ。屋上部分にも、それぞれ建て増しているのがわかる。もちろん違法だろうが、行政も今さら何も言わないのだろう。これらの建物の裏側は清澄庭園である。どういう経緯でこのようになっているのか?だが、都市景観としてはなかなか味がある。こういうのアジア的・・と思うんだけど、どうかな・・現代東京の中のアジア。生きられる空間・・と、言っても良いな。

02 近寄って見上げてみた。オォッ!デザインしている。これ、その誕生の時は、それなりの建築家が関わっていたんじゃないの。

だがこの写真を撮って一月、いまだに調べはついていない。

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2007年9月29日 (土)

京都の景観/西陣

200701 夕日が沈む直前に夕日に向かって空を七分、建物を三分の割合で写真を撮ると、ドラマチックな写真になるというのでやってみた。なかなかいいぞ。手前の伝統的な町屋の前も横も、新建材で建てられた新しい家に囲まれている。手前の古い町屋を引き立ててくれている。空を縦横に横切る電線はどうだ。アブストラクトな模様がクールだ。何時空を見上げても、この電線でできた抽象美を楽しめるのは、戦後一貫して日本国中に電線を張り巡らせてきた技術者達のおかげだ。このおかげで日本国中、電気が自由に使える。道に面した駐車場・・というか、駐車場に挟まれた道。京都だって車は必要だ。これは文明の象徴だぞ。この国がいかに文明国になったか、世界中に知らしめようではないか。世界中の人に見てもらおう!!これが、世界に誇る日本の歴史都市、京都、その西陣織で有名な西陣だ。どうです、手前の伝統的家屋。現代的な物達に囲まれて、その美しさが際立っていません?

我々はかく鈍感になり、その遺伝子は次世代に継がれつつある。

200702 すでにかなり有名な三上長屋を訪れた。日も暮れかけるこの時間、外からランドセルを背負った男の子が帰って来るのに出くわした。自分の子供の頃に出会った気がして、懐かしさで涙が出そうになった。本当はこういう人が住んでる場所に、他所から来た人が大勢見物に来るというのはどうかと思う。しかし、敢えて見に来てもらいたい。大勢来るということが、この場所への賛成投票になると思うから。

200703 時間はあまり残されていない。この三上長屋のすぐ隣には、この写真のように木造モルタル3階建ての住宅が並ぶ。またすぐ近くにもやはり、こういう建売住宅が建設されつつあった。このような住宅を作り、売り続ける人たちがいる。商売は自由だ。だが、おそらくその人たちには西陣という場所に対する愛情は無い。

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2007年9月 9日 (日)

近所のお店は消えて行き/9月8日朝日新聞

「タヌキやキツネの出る所狙え」・・・何の話かと思った。9月8日朝日新聞朝刊の第13面の記事である。郊外型のショッピングセンターの出店のことだ。イオンの岡田卓也さんが発した言葉として業界では有名なのだそうだ。それは、一旦置いておいて、問題は地方の商店街の衰退である。

先日、妻と映画を見に行った。車で15分ほど行ったところにある大きなショッピングセンターには、いわゆるシネマコンプレックスがあり、複数の映画を上映している。お目当ての映画を見終わってから買い物をして帰った。便利だ。売っているものもそこそこ安い。

たまに京都に帰ると、子供の頃にあった近所のお店が随分と店を閉じたのに気づく。高齢の母には、遠くのマーケットまで買い物に行くのがかなり辛くなってきたようだ。都会に住んでいるのに買い物が不便とは・・。

30をちょっと過ぎた歳のころ、仕事でデトロイトにしばらく滞在していた。中流以上の人々は郊外に居を構え、市の中心部は随分荒れ果ててスラム化していた。デトロイトは今でもあんな具合なのか?

9月8日の朝日新聞朝刊を読んでいろいろな思いが頭をよぎった。しかし言えるのは、この30~40年ほどの間、日本の国は、政府は、都市の中に育った近隣住民の為の商店街を見捨ててきた。好意的に考えれば、人々の生活パターンの変化を前に打つ手が無かったのかも知れない。いずれにせよ商店街は壊れ、店は空き家となり、あるいは壊されて駐車場となった。いくつかの空いた土地は地上げされ、アパートやマンションが建つ事もあろう。それらは経済的な力学により、変貌して行く。それが都市構造の変化であり、無理やり押しとどめることは難しいのかもしれない。けれども本当にそれで良いのだろうか?我々がその変化の中で失ってきたものを考えてみる。八百屋や魚屋の店先で交わされていた「まけろ」「10円引きます」というたぐいの会話・・・もちろんスーパーのレジでそのような会話はあり得ない。魚屋では選んだ魚を焼いてくれる。焼き加減を注文する。店は焼いた上に届けてくれたりもする。そういうやりとりの中で育っていった地域の連帯感。近隣の店が無くなるという事は、街が崩壊しているということなのではないか。してみれば、国は、政府は、(人が住まう)街の構造が崩れていくのを手助けしてきた、と言って悪ければ、座して見ていたということにならないか。

無能の政府、官僚集団・・・という言葉をぐっと口の奥に押し殺しながら、しかし、一方で様々の規制の強化もあることに思い至ると愕然とする。この度の改正建築基準法等の施行により、現在、確認申請業務が大混乱していることは建築関係者にはほぼ明らかである。誰の思いつきだったのだろう?来年には一級建築士制度の見直しがあり、構造一級建築士や設備一級建築士ができる。何も知らない人にとっては、姉歯事件をきっかけに建築士の資格制度そのものを国が見直した結果だと映るであろう。だが、ことの本質はそうではない。建築の構造技術者については民間の自主団体だが、日本建築構造技術者協会があり、そこが認定する建築構造士制度がある。建築設備についてはやはり、建築設備技術者協会があり、建築設備士を認定している。それらの資格は、民間とはいえすでに高度の技術者資格として業界内で十分に認知されている。普通に考えれば、それらの資格制度を国の制度に位置づければ良いことである。それでは何故、構造一級建築士や設備一級建築士を新たに設けようとするのか。推定できる、かつ納得できる答えは一つである。構造一級建築士、設備一級建築士制度がいよいよ施行の暁には、それらの資格試験や免許の管理のため、めでたくも新たな公益法人が必要だと主張できる・・そのことである。そうして新たな国交省役人の天下り先が確保できることになる。

俺が子供の頃、近所の店から御用聞きが回ってきたものだが、なんか押し付けがましくていやな印象を持ったものなのだが・・・これは考えてみると現状打破の一つの手かもしれない。郊外型のショッピングセンターは車を前提として成り立っている。俺たち家族も、車があることを前提で今の住居に住んでいる。だが住民のすべてが車を所有しているわけではない。高齢化がすすむ都市部においては、俺の京都の実家を引き合いに出すまでも無く、新しい販売サービスの形態が生まれるチャンスがあるように思う。そういうことをしかし、大手、たとえばイオンやオリンピックなどの大規模小売店舗を経営する会社にまかせてはいけない。彼らには資本も人材もある。やろうと思えば短期間のうちに、洗練された大規模な販売システムを構築できるだろう。だが、国や地方自治体は今度こそ、地元密着型の小売販売システムを、まさに風前の灯の商店街を軸に構築していく必要があるのではないか。そのためには指導者も必要だろう。システム構築できる人材も必要だろう。もちろん資金も必要だ。だが、そこにこそ税金は使われるべきである。

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2007年7月 7日 (土)

池袋西口の辺り/立教大学

池袋西口を出て自由学園明日館を目指したのだが、道に迷ってしまった。この辺りの道は迷路のようになっていて、適当に歩いていると全然違う場所に出てしまったりする。

Photo_10 公園に出てしまった。どこだここは?とりあえず小便しておくか・・・と、入ったのがこの公衆便所。昔の公衆便所のイメージは、とにかく臭い、不潔。公衆便所に入る人間は慌てているのか、○○コが便器のまわりにべっとりついていたりして、そういうところで自分も○○コするのは、勇気が要ったよね。だが、この便所はよく掃除がしてあり、清潔であった。洗剤の匂いがした。その点は合格である。

デザインはどうなのか?公衆便所のデザインで感心したことはない。普段は脇役のトイレを主人公にした建物だからね、あまり一流の人が設計することはないと思われる。また、こういうのを名作に仕立て上げるのは至難の業であろう。この便所の場合は良い方だと思うよ。公衆便所・・これからも注目して行きたい。

さて、自由学園を目指していたのだが、この辺りで立教大学に向かう道案内を見つけたので、先にそちらに向かうことにした。

01_15 立教大学の正門前の通りを立教通りという。分かりやすい命名だ。ここらあたりは池袋駅前の猥雑感がやや薄れ、立教ボーイズ、ガールズの闊歩するシャレた街を装っている。とはいうものの、俺の評価点ではやっと60点ぐらいの感じで、欧米の有名大学の学生街とはまだ比べ物になりません。まず電信柱と電線、なんとかなりませんかね。

だが、立教大学のキャンパスはかなりいけてますよ。キャンパス内の女子学生のセンスが良さそうなのも評価点プラス。

02_5 まずキャンパス正門を入ると目に入るのが本館(モリス館)である。大正7年竣工ということで、90歳ぐらいの建物である。ご覧のように、敷地奥に向かって軸線がズーッと通っている。いかにもっていう感じだけれど、実際、奥への期待を抱かせる。この建物の前庭も古典的な左右対称の芝生の庭だけど、スケール感が良く、効いている。このモリス館、設計はマフィー&ダナ建築事務所ということらしいが、基本設計はJ.M.ガーティナーがやったと伝えられる。ガーティナーは教師として来日していたのだが、建築について造詣が深く、日本で幾つかの建物を設計している。建築は余技なのだけれど、上手い。

03 日本じゃないみたいな(これが褒め言葉だってことが悲しいね)美しいキャンパスだ。今の若い人だってきっとこういうキャンパスで青春を過ごしたいんだよ。

立教大学についてはもう少し写真がある。

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2007年7月 3日 (火)

池袋西口の辺りを歩く

仕事を休んで、池袋西口の近辺をウロついた。仕事を休んだのには一応理由がある。例の年金問題。俺も一つの会社にずっと勤め続けてきた訳ではないので、気になっていたのだ。社会保険庁のずさんな仕事ぶりが明らかになる前から気にしていたのだが、ここのところ年金記録を確かめるために社会保険事務所に人が殺到しているとの報道に恐れをなし、しばらく沈静化するのを待っていた。ようやく今日、自分の年金記録を確かめることができた。いや、社会保険事務所だけど、思ったより空いていたよ。すぐに終わった。そして池袋にね、ちょっとマーキングすることにした。

01_12池袋の西口を出た辺りはね、かなり猥雑な感じがあるんだよね。特に北の方。飲食店、パチンコ屋、風俗店などが入り混じっている。こういうところを普通の日にだよ、仕事を休んでうろついている・・・っていう感じが良いんだな。ただ、美的な意味ではひどいもんだよ。しかし、昔のことだけど、シカゴやニューヨークでこういう感じのところを歩くと、身の危険を感じた・・というか、危なそうな人がたくさんいて油断できない雰囲気だったけれど、日本の場合は、少なくとも昼間は、そういう危険な感じは無い。この頃治安が悪くなったと言われるけど、日本はまだまだ安全な国なんだろうな。新宿はどうかな。もうちょっと危ない感じ。でも午後9時ごろまでは大丈夫なんじゃない。ポン引きに引っかからなければね。

池袋を南に下っていくと目白に近づき、次第に上品な感じになってくる。そっちの方へ行ってみることにした。お目当てはある。立教大学と自由学園だ。01_14 だがその前に撮ったのが この写真。東京芸術劇場。

芦原義信、晩節を汚した作品。氏の代表的な著作「街並みの美学」が泣くね。芦原さんの全ての作品が悪いわけではない。駒沢体育館などは俺は嫌いではない。丹下健三のような天才的な切れ味は感じないが、芦原さんの育ちの良さみたいなものは伝わってくる。品が良いのである。

だが、この東京芸術劇場、品が無い。しかも巨大だ。ヤメテほしい。しかし建物は一度建ったらそう簡単に無くならない。そういう意味では、この次の写真の建物なども俺には許せない部類に属する。

02_3

東京都税事務所・・らしい。東京芸術劇場の向かいに道を挟んで建っている。誰の設計かは知らない。しかし、こういうのは結構名の知れた建築家の設計の可能性がある。ここに見えるのは自己顕示欲。これが建ち続けるのは犯罪的であろう。道を行く人々の目に否応なく飛び込んでくる醜悪。

これらの俺の嫌いな建物と、これから尋ねようとしている建物との違いこそ、建築に関わる者がよく観察しなければならないものだろうと思うのである。  つづく。

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2007年6月16日 (土)

WATERLINE/運河に浮ぶ建築物

Waterline03最初にこの話を聞いた時、瞬間的に「これは時間がかかりそうだ」と、「こういうことに巻き込まれたくないな」という気持ちが働いた。しかし、建設会社の設計部に属する設計屋には、仕事に対する拒否権というのは基本的に無い。依頼されるまま、「こんなわけの分からない仕事は部下に指示できない」と、自分で慣れないCADを操作して簡単に平面図、断面図を描いたのは2004年の秋だったと記憶する。その後、4ヶ月ほども連絡が無いものだから、もうこれは無い話だと、半ば胸をなでおろしていたのであるが。営業から、「この件について請けることにしたから、打合せに行ってもらいたい」と聞いた時は正直、不安だったね。まあいいや、今までだって先の見えない仕事に首を突っ込み、それでもとにかく、いつかは終わりが来たものだ・・と、指定された場所へ出かけた。日本建築センターだったよ、その場所ってのは。

平成元年1月19日建設省住宅局建築指導課長から特定行政庁建築主務部長に宛てた通達には次のようにある。

従来より、建築基準法第二条にいう「土地に定着する」状態とは、単に陸上で土地に強固に結合された状態のみならず、水面、海底等に定常的に桟橋や鎖等で定着された状態も含むものであるとの判断が確立しており、このような状態にある工作物に対しても、その使用実態に即して建築基準法が適用され・・・・

・・・海洋建築物については、既に昭和44年9月16日付け建設省住指発第371号「水面又は水中に設ける施設に関する安全性の確保について」により、その取扱方法を示しているところであるが、貴職におかれては現下の状況にかんがみ、今後とも建築基準法の適正かつ確実な執行に努められたく、念のため通達する。

難しい言い回しで書いてあるが、要するに、「このところ船なんかを利用してレストランだの水族館だのと造ってるようだが、前にも通達しといたように、動かないのなら建築だから、そう考えて指導させるように」と、言っているのである。

ところで、同日付の建設省住宅局建築指導課建設専門官から特定行政庁建築主務課長宛てに、次のような通達も出ている。

さて、海洋建築物の取扱いにつきましては、平成元年1月19日付け建設省住指発第5号をもって建築指導課長より通知されたところですが、一部の海洋建築物の建築主において、昨年二月の船舶安全法施行規則の改正により船舶安全法の適用が及んだ一定用途の係留船には、建築基準法の適用が及ばなくなったとの誤解があるように見受けられます。

・・・前期の係留船に船舶安全法の適用が及んだとのことについては、当方には船舶安全法所管部局より事前に何らの協議もなく、同法の改正によっても、係留船への建築基準法の適用の有無は、従前と変わるものではありません。・・・

これもくだいて言うと、「建設省には何の相談もなく、港湾の連中が係留船には船舶安全法の適用を決めたということだが、そっちはそっちで勝手にやったことなので、こちらは前々から決めている通り、建築基準法を適用して指導するので、皆さんそこんとこよろしく」と、言っているのである。まあ、こういうことで迷惑をこうむるのは民間の事業者である。またその事業者に依頼を受けた設計技術者や建設業者は、それら事業者の代わりに役所へ行き、あっちの部署、こっちの局と出向いて調整するのである。縦割り行政の役所の方に、自分達で内部調整をするという考えは乏しい。

幸いに平成10年3月31日、海上技術安全局安全基準課長および海上技術安全局検査測度課長から地方運輸局宛てに「係留船に係る取扱いについて」という通知が出ている。

係留船であって、船舶安全法のほか、港湾法、建築基準法又は消防法の適用を受けるものに関して、「規制緩和推進計画の再改定(平成9年3月28日閣議決定)」、「経済構造の変革と創造のための行動計画(平成9年5月16日閣議決定)」等に基づき、関係省庁において「複数の規制が適用される浮体構造物に係る技術基準の適用については、事業者に対し過重な負担を課すことがないよう、個別の事案ごとに、関係行政機関間で協議を行い、・・・」

2005年(平成17年)に入り、WATERLINEの実現に向けて役所協議を始めるのだが、上記の規制緩和により期待された「関係行政機関間での協議」は、正直言って無かったと言って良い。時既に建設省と運輸省は合併され、国土交通省となっているにも関わらず、この個別の事案が実現する為にあっちの役所、こっちの役所と調整してまわるのは、相変わらず民間の事業者側の担当者だったのである。ヤレヤレ。役所ってなんでいつまでも変われないのでしょうかね。

WATERLINEのデザインに見るべきものがあるとすれば、それはインテリアデザイン事務所CASAPPOの功績である。しかし、WATERLINEのような建造物をあそこにあのように浮かべるためには、並々ならぬ裏方のエネルギーが必要だったということは強調しておきたい。先日、WATERLINEを見せてやったら「ふーん」と言った妻よ、今回のブログだけは読むべし。そうして亭主の仕事の難しさを少しは推し量るがよい。

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2007年5月 3日 (木)

「都市の論理」/自由都市

ルネサンスの自由都市はやがて挫折したのである。ルネサンスにおいて現れた自由都市連合は、やがて絶対王政に取って代わられる。何故に、より民主的な制度が封建的制度によって打ち負かされてしまったのか。そのことについての羽仁五郎の分析は本当に面白く、引き込まれる。要するにその原因は、ルネサンスの自由都市における民主主義が中途半端であった・・・とするのである。その故に、封建君主に付け入る隙を与えた・・・と考えるのである。

そうして羽仁氏が続けて考えるには、

特権階級の専制または独裁を根絶するには、新しい人民の階級の専制または独裁が必要であるというのは、本質的の問題であって・・・

民主主義は平等であるとか、言論の自由であるとかいうのは形式論で、主権在民、人民主権ということが実質論である。民主主義というのは誰でも自由にいろいろなことが言えるのだというようなことではなく、民主主義の第一の前提条件は、人民主権ということにある。したがって、人民主権に反するような言論の自由というものはありえない。それをファシズムとおなじ言論統制であるように言い、共産主義も全体主義であるように非難するのは反革命の反動的逆宣伝である。

また彼は、軍備についても人民軍のようなものを民主的軍隊として認める。

民兵制はつねに平和を欲し、必要があれば徹底的に戦闘的であるが、傭兵制は、常に戦争を前提し、しかも必ずしも戦闘的ではない・・・

俺が高校3年の時、つまり大学入試の直前なんだけど、浅間山荘事件が起こった。内ゲバという組織内の粛清。銃を手にした武力革命の信奉。その結果は胸糞の悪いものであり、不気味なものであり・・・。社会改革の手段としてのマルクス主義の胡散臭さは、俺にだけではなく、多くのティーンエージャーの鼻腔にこびりついてしまった。そうしてノンポリ学生の時代が始まったのである。

「人民主権に反するような言論の自由というものはありえない」と、革命的学生達は信じたのだが、そうして、「ある言論が人民主権に反するかどうか」を決める権利は自分達にあると考えたのであろう。神が現れる。独善的なる神が。

羽仁五郎の「都市の論理」を今さらながら読み始めたのは、ようやく当時の学生運動家を動かしていた論理を、鼻をつまむことなく触れてみることができるのではないかと思ったからである。当時を客観的に見る位置に、我々はようやくたどりついたのではないだろうか。

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2007年4月22日 (日)

東京・・・ミッドタウン

見学会があるというので、今話題の東京ミッドタウンへ行って来た。タワー棟の事務所フロアーも見せてもらった。どうということはない貸事務所フロアーであった。

01_9

しかし、そこから見える景色にはちょっと違う感想を持った。なにしろこのところ、東京をこんなに高いところから見回したことがない。見よ、この都市を。新宿の超高層ビル群がかなたに見える。折から雨模様であるけれど、新宿のあたりは雲が薄いらしく、林立するビル群が明るい水蒸気に包まれている。

正直言って、圧倒された。東京ミッドタウンにではなく、東京のでかさに。すごい大都会だ。この街で仕事をするようになっていつの間にか四半世紀になる。こんなでかい街だったとは・・・マヌケな話だが気が付いてなかったな。今さら止めるわけにはいかないけれど、この街の規模は個人の認識できる範囲を超えている。

Photo_5東京ミッドタウンは、近頃東京のあちこちに出来上がった他の大規模複合施設と同様、カッコいいデザインのオンパレードだ。シャレてるよ。でもね、それだけだよ。これほどの大きな建築物を見学しながら、俺は自分のデジカメのシャッターを15回切っただけだった。それもその内3枚は東京ミッドタウンから眺めた外の景色である。ここに建ち上がった建物は、要するに、馬鹿と煙が高いところに上りたがることを証明しているのである。

全体計画は日建設計が統括、SOMが実際の計画、建物デザインをやったらしい。日米の最高(と言われる)設計事務所が設計したということなのだが・・・。俺にはどこを褒めてよいのか分からない。日建設計には知り合いも何人かいるのだけれど・・申し訳ないが、褒められません。

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2007年4月14日 (土)

「都市の論理」より/家族

羽仁五郎の「都市の論理」には家族に関する記述がある。

この”家族、私有財産及び国家の起源”という書物で、現在のわれわれコンミュニティの問題にとって、非常に注目すべきものではないかと考えられるのは、社会というものと家族というものとは対立しているものだという思想が、この本の中を貫いている非常に太い線ではないかと考えられる点です。

「家族、私有財産及び国家の起源」というのはエンゲルスの著書である。羽仁氏はその本の中でエンゲルスが「家族は社会に対立したしくみだ」と指摘していると言うのである。